8話 「ぼんぬ〜る」
須藤さんの家をでると、海さんはさっそく歩きだした。帰るのだろうか? でも彼女のことだし、須藤さんのことを黙って見過ごすはずがないと思うし。
だとしたら何を?
僕と篠田は顔を見合わせた。
「待ってよ、海さん」
「何?」
「何じゃなくて。須藤さんのこと、見張ってなくていいの?」
「大丈夫だよ。今日は須藤遥は何もされない」
え?
「どうしてそう言いきれるの?」
「わたし、言ったでしょ。『明日か明後日には学校に来い』ってさ。そう言っておけばあの兄貴も注意ぐらいするでしょ。これ以上須藤遥を傷つけたら、何か感づかれるかもって。あるいはもう感づかれてるかもしれないって。だから、今日は傷つけない。きっと明日か明後日のうちに学校に来るよ。その前にわたしは仕事を済ます」
「仕事?」
「長引くかもしれないから先に帰ってていいよ」
「もしかして『ぼんぬ~る』に行くの?」
僕の問いかけに海さんは立ち止まった。
「やっぱりそうなんだね」
「色々、月野には聞いておきたいからね」
僕と篠田は顔を見合わせて笑いあった。
海さんが怪訝そうな顔をしながら僕らを見てくる。
「『ぼんぬ~る』はそっちじゃないよ」
先にそう言ったのは篠田だった。
「反対側。来た道を戻って行くと歯科医があるんだけど、そこを曲がっていくんだ」
僕らがそう指摘しあうと、海さんは顔を真っ赤にして黙りこんだ。
海さんってしっかりしているように見えて、案外抜けてる。道に迷いやすい質らしい。
彼女は恥ずかしそうに顔を伏せて、ぼそぼそと消え入りそうな声で言った。
「ごめん、わたし。けっこう方向音痴だから、その……」
「いいよ、案内してあげる」
僕は海さんの手をとった。篠田も僕の反対側に回りこんで、真似するように海さんの手をとる。
「なんで手つなぐの?」
僕と篠田は海さんをあいだにして、笑いあった。
「ほら、こっちだよ」
***
駅前にある洋菓子店・ぼんぬ~る。自営業で、ここらではちょっと名の知れたケーキ屋さんだ。
店の外には中の明かりが煌々と漏れていた。
「よかった、まだやってる」
ホッとしつつ、僕は店のドアを開けた。
軽快な鈴の音が同時に響く。
その音に気づいて、お店のエプロンを身に着けた少年がこちらを振り向いた。
「いらっしゃいま……あ、雪。って、篠田もか。さっき来てただろ」
「あはは、おじゃましまぁす」
「今度は何?」
店番をしているその人は、僕らと同じクラスの月野夢くんだった。
彼は無表情のまま、僕らを見つめた。
「それと、いちゃつくのは構わないんだけど、人の店でやるのだけはやめてくれないかな」
「え?」
首をかしげる僕の手に、わずかな感触が走る。
「手、いつまでつないでんのさ」
「あ、ごめん!」
月野くんと海さんに言われるまで、僕は海さんと手をつないでいたことをすっかり忘れていた。一方で、すでに篠田は海さんから手を離している。
落ち着いたところで、海さんは月野くんをまっすぐ見つめて聞いた。
「月野。早速なんだけど、今暇?」
「残念だけど、仕事中」
「何時に終わる?」
月野くんは少し考えてから、「ちょっと待ってて」と言って厨房のドアを開けた。
「母さん、クラスメイトが来たから先に上がってもいい?」
「あら、そうなの? 待たせたらいけないからいいわよ」
「ありがと」
月野くんは着ていたエプロンを脱いで、僕らの方を向く。
「ついてきて」
言われるままに僕らは月野くんのあとを追って、店の奥に入った。厨房に入ると、月野くんの母親がいて僕らは軽く挨拶をした。そこを通りすぎて階段を上がっていくと、そこは普通の家だった。
どうやら1階はお店で2階は家になっているみたいだ。
「紅茶飲む?」
と言いつつ、もうすでに月野くんは紅茶の用意をしていた。
出された紅茶を、月野くんは「普通のアールグレイだよ」と教えてくれる。香りをかぐといいにおいがただよってきた。
「ねぇ、月野」
「何?」
早速、一口飲んだ。
じんわりとした温かさと味が心を満たしていく。おいしい。それでいて、落ち着く味だ。
思わずほぅっとため息をついて、くつろいでしまう。
「須藤遥について、知っていることを洗いざらい話してほしいんだけど」
のんびりしている僕をよそにして、海さんはさっさと本題に入った。
月野くんの表情が厳しいものへと変わる。
「例えば何?」
「例えば……そうだな、彼女のお兄さんについて、とか」
「お兄さん? ああ、良太さんね。彼は良い人だよ」
「それ、ほんと?」
挑発するような海さんの物言いに、月野くんの表情が不愉快そうにわずかにゆがんだ。
「当たり前だろ」
「家族に手をあげるような人が?」
海さんの言葉に、月野くんが目を見開いた。
信じられないものでも見るかのように動揺していて、何を言ったらいいかわからないように、困惑している。
「何、それ……」
どうやら月野くんは、須藤さんが家で彼女のお兄さんにどんな目に遭わされているのか知らないらしい。
「もしかして、知らなかったの? 須藤さんがお兄さんにどんな目に遭わされてるか」
そう僕が聞いてみると、月野くんは思い当たる節でもあるのか、急に納得したような表情を浮かべた。
「じゃあまさか、あの噂は本当だったのか」
噂?
「何、その噂って」
「ここら近所で有名な話だよ。はるちゃ……須藤遥の体に痣があるって話。2年くらい前からだったかな。近所のおばちゃんとか、うちの母さんや父さんとかが噂してたんだ。俺もつい心配になってあいつに声をかけたんだけど、『何も心配はいらないから』って言われて。でも、よく店に来てくれる須藤の母親、会うたびにやつれてるんだ。たまに顔に傷作ったりしてて」
僕はそれを聞きながら須藤さんの母親が気の毒に思えた。
きっと彼女も、実の息子である須藤さんのお兄さん――良太さんのDVに必死になって耐えているのだろう。
しかも、誰にも相談することができずに須藤さんと2人きりで。
「さすがに俺、おばさんに声をかけるのは気が引けてさ。これは親伝手に聞いたんだけど。良太さんが高校生で受験を控えてたとき、あの人。最難関の国公立大学に行く予定だったとかで。でも、失敗したんだってさ。それから、しばらく自分の部屋に引きこもってたらしい。そのときのことは、俺も須藤に聞いたんだ。よく、相談に乗った」
ふと、篠田が部屋の壁にある時計を気にしていることに、僕は気がついた。
「どうかしたの?」
「そろそろ家に帰らないとまずいかも……」
見れば、もう6時になろうとしている。夏の日の出は長いから、まったく気がつかなかった。
篠田は慌てて立ち上がった。
「ごめん、みんな。あたし帰るね」
「下まで送ってくよ」
月野くんが立ち上がって、篠田と一緒に部屋をでていった。




