1話 須藤遥
私は幼いころ、大好きな人がいた。その人は、いつだって自分の味方でいてくれて、私の中では1番尊敬すべき存在で。私が辛いときや苦しいとき、いつだってあの人は私を大事にしてくれた。
それなのに。
それなのに、ねぇ。
どうしてそんな薄汚いものでも見るかのような目で、私を、ううん。私とお母さんを見るの? ねぇ、どうして?
ねぇ、どうして。その手を振り上げて、私たちを傷つけるの?
ねぇ、どうして――。そう何度も何度も問いかける言葉すら、その人は受け止めてくれない。
ねぇ、どうして?
ねぇ、お兄ちゃんってば。
***
6月になると、大杉学園は衣替えの開始だ。男子は暑いブレザーを脱いでベスト着用の半袖Yシャツだし、女子は白い地のセーラー服になるのだ。
半袖のシャツでいると、とても涼しいから僕は割と気に入ってる。
そんな僕の様子を、隣の席の篠田は不思議そうに首をかしげて見てきた。
「そんな幸せそうな顔して、どうしたの?」
幸せそうな顔?
僕はそんなにわかりやすいような表情をしていたのだろうか。などと考えながら自分の頬に手をあてると、いけない。完全に緩みきっている。篠田が不思議そうな表情を崩さないまま、僕を見つめている。
「夏服って涼しいなって」
正直に答えると、篠田がさっきとは打って変わった訝しむような目で僕を見てきた。
「いやらしいこと考えてるわけじゃないよね?」
どうしてそうなる!?
僕が篠田の意外な発言に呆れて何も言えずにいると、その僕の沈黙をどう受け取ったのかはさておいて。篠田が僕のことを信じられないものでも見るかのような目をして見てきた。
誤解しないでもらいたいけれど、「いやらしいこと」とやらは一切合切考えてないから。
そこへ教室の前ドアが勢いよく開かれた。
「おっはよー!」
「あ、おはよう海さん」
「おはよ、雪」
歯を見せて、今日も元気よくほほ笑みながら挨拶をする彼女を見て、僕も笑って挨拶を返す。
「やっぱり、男子の制服なんだ」
ぽつりとつぶやいた篠田に、海さんは「当たり前だろ」と胸を張りながら答える。
わずかにわかる、ふくらみ。
僕は思わずサッと彼女から視線をそらした。
そう、彼女――。
彼女の名前は、遠藤海。大杉学園中等部3年B組、出席番号は25番。
先月僕らのクラスに転入してきた生徒だ。男子の格好をしているけれど、れっきとした。女子。
ようするに男装をした女子なのだけれど、このことは誰にも知られてはいけない秘密だ。
「それに、こっちの方が動きやすいし。どうよ?」
「似合ってるよ」
海さんと篠田は何気ない日常会話をしている。この光景だけ見ると、男子と女子が話しているようにしか見えない。ていうか、海さんの顔立ちは中性的なのかもしれない。けれど、事情を知っている者からすれば、女子同士の「何気ない日常会話」だ。
そのとき、教室じゅうに響き渡るようにして朝のホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。それと同時に、さっき海さんが入ってきたドアががらりと開き、小柄な女性が顔をだす。
「はーい、みんな。席についてね~」
トコトコと、かわいらしい歩き方をしながら、彼女――B組新担任・舟久保エリは教壇に立った。
「ほら、遠藤さん。早く席についてください」
「はーい」
舟久保先生の指摘により、海さんはおとなしく教室の最後列にある自分の席がある場所へと歩いていった。
「今日も皆さん、元気に過ごしましょうね~」
にこにこと、まるで幼稚園の保母さんのほうが適任なのではないかというほどの笑みを浮かべ、僕らに話しかける彼女が中学校の――しかも問題児だらけのB組担任だなんて、ちょっと驚きだ。
初めて会ったときはさすがに、僕らはみんなドン引きした。
5月の始め、ちょっとした事件が起こってB組の本来の担任だった小野塚先生は学校を辞めさせられた。それからしばらくの間は、ずっと副担任の秋庭先生が僕らの担任の代わりだったんだけど、今月になってようやく新しい担任として、舟久保先生が僕らの学校に赴任し、B組の担任となったのだ。
ちなみに彼女は、日本人とイギリス人のハーフだそうだ。
教室をぐるりと見渡していた舟久保先生の瞳がふと、一点に止まったのを僕は見た。首をかしげ、僕は舟久保先生が向いた方を見ると、1つ。空席があった。
あの席ってたしか――。
「須藤さんだったわよね、あそこの席。どうしたのかしら? 休みの連絡はもらってないし……。誰か聞いてる?」
舟久保先生が全てを言い終える前に、教室の後ろドアが勢いよく開かれたのでそちらを見ると。
「すみません、遅れました!」
須藤さんだ。
どうやら全速力で走ってきたらしく、彼女は肩で息をしていた。
ホッとした僕らは、次の瞬間。彼女の様子を見て絶句してしまう。
「す、須藤さんったら、どうしたの……?」
震える声でそう問いかける舟久保先生に、須藤さんは一瞬。しまったといったような表情をした。
舟久保先生が驚くのも無理はない。
須藤さんの綺麗な白い頬には、くっきりと痣ができていたのだから。
須藤さんはサッと自分の左頬を隠して、アハハと乾いた笑みを浮かべる。
「今朝、寝坊して階段で転んでしまったんです」
「そうなの?」
なおも不安げな表情を崩さない舟久保先生に同意したい気持ちで、僕は疑いの目を須藤さんに向けていた。
と、そこへ立ち上がる者が現れた。
「手当て、したほうがいいんじゃないの?」
月野夢くんだった。
彼は須藤さんから舟久保先生へと視線を向ける。
「先生。俺、須藤さんを保健室に連れていきます」
「……え、ええ。たしか月野くんは保健委員だったものね。お願いしてもいいかしら?」
先生の問いかけに月野くんははっきりとうなずくと、歩いて須藤さんのほうへと向かっていって彼女の手をとると教室をでていった。
そんな2人の様子を見て、何故か篠田が「羨ましいなぁ」ともらした。
いったいどういう意味なのだろう。




