19話 遅刻
朝、篠田里香は学校のトイレにある手洗い場で手を洗っていた。
目の前にある鏡をふと見ると、クラスメイトの須藤遥が個室からでてくるのが目に入った。
「須藤さん、おはよう」
里香が声をかけると、遥はすぐに気付いてくれた。
「おはよう、篠田さん」
清楚な笑みを浮かべながら、遥は里香に挨拶を返す。彼女は洗面台まで歩み寄ると、水道の蛇口をひねって手を洗い始める。
里香はその行動をぼんやりと見つめる。
ふと、彼女の目に遥の袖口が見えた。
青色――。
「ねぇ、須藤さん」
「何?」
「それ、どうしたの?」
「え?」
遥は里香を見て一瞬だけとまどった顔をした。けれど、彼女の目が自分の袖口に注がれていることを知るや、遥は慌てて袖口を無理矢理伸ばして《《それ》》を隠した。
「痣……だよね。大丈夫?」
里香の問いかけに、遥は気まずそうに眼をそらしたまま何も言わない。
同じく何も言わないまま、里香がいつまでも遥を見つめていると、やがて彼女は観念したように苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「え、とね……。この前、重い物運んでるときに、ぶつけちゃって」
「痛くないの? 結構青いけど」
「大丈夫よ」
そうは言うものの、遥の笑顔が少し引きつったものになっていることに、里香は気づいた。
「湿布とか――」
「今日たまたま貼り忘れただけだから」
遥は逃げるようにしてトイレからでていく。
里香はわけがわからず、首をかしげるしかなかった。
***
朝のホームルーム。
僕はあくびをかみ殺しながら、秋庭先生の出席確認が終わるのを待っていた。
「永井」
それまで順調に進んでいたはずの出席確認が、そこで一度途絶えた。
「永井コノハ」
秋庭先生がもう一度呼ぶけど、やはり返事はない。
僕は思わず1番後ろの席を見たけど、そこには何故か誰もいない。場所は徹くんの隣。
永井さんが休んでいるなんて珍しい。いつもだったら1番に学校に来て図書館で勉強をするのが彼女の日課のはずだ。
もしかしたら図書館で何かあったのかな。
なんて考えてみる。
椅子が引かれる音が続いて聞こえて、そちらを見ると徹くんが席を立っているのが目に入った。
「ちょいっと失礼しま~す」
「まだホームルームは終わってないぞ」
困った顔をする先生に徹くんは振り向きもせずに言う。
「どうせあいつのことだから、図書館で寝てるんだろ。俺が行ってくるよ」
「あ、おい待て」
先生が止めるのも聞かず、徹くんは教室をでていった。
僕はそれをぼんやりと見つめ、そのまま視線を――同じくそちらも空いたままの席へと移した。
あそこはたしか、遠藤くんの席だったはず。
「なんだ、遠藤もいないのか」
「雪、何か知ってる?」
すぐさま篠田が質問してくるけど、僕が知るわけない。黙って首を横に振った。
遠藤くんの出席頻度がどのくらいなのか知らないけど、ともかく。永井さんが休んでいるか。あるいは図書館で居眠りだなんてちょっと信じられない。
テストも近いから、なおさらだ。
それからしばらくして、1時間目の授業が始まったけど、永井さんどころか遠藤くんも教室に現れなかった。
そして、徹くんも。
休み時間になっても戻ってこないから、不安になった僕は連絡をとろうと思ってカバンからスマホを取り出した。
あれ、通知入ってる。
相手は徹くんだ。
僕は慌ててそれを開き、そこに書かれてある文面に目を剥いた。
「ワリ、学校早退する」
「はぁっ!?」
「雪、どうしたの?」
あ、いけない。
顔を上げると、クラスメイトの視線がめっちゃ集まっている。
作り笑いを浮かべて教室を慌てて飛び出す。近くにある階段を一気に屋上まで駆け上がった。
おかげで、屋上のドアに手をかける頃には、はぁはぁと肩で息をしていた。
完全に運動不足だ……。
こんな、屋上駆け上がっただけで息が乱れるなんて、恥ずかしいったらない。
誰にも言わないでおこう――。
そう思いながら普段立ち入り禁止の屋上のドアを、ためらうことなく開ける。
スマホを操作して徹くんに電話をかけてみる。
コール音が鳴り響き続けるのを僕はハラハラしながら辛抱強く待つ。
ガチャッと受話器を上げる音が聞こえた。
「徹く」
『ただいま、電話に出ることができません。ピーッという発信音のあとに』
ため息をついて電話を切った。
仕方なくそのままLINEを起動させて、徹くんに「何で休むのかわからないけど、何かあったらLINE頂戴ね」とメッセージを送っておく。
やがて既読がつかないまま、その日の授業は終わった。