7話 岩富先生
6月になってもこれといって変わりなく、いつものように退屈な日々を過ごしていた。
周囲に何か変化があったとしたら、梅雨の時期に入ったからじめっとした重たい空気があたりに立ち込めてイライラしたのと、クラスメイトの隠し事をたまたま知ってしまったことくらいだ。
名前は知らない。覚えてない。雰囲気からして優しくて「清楚」って言葉を体そのもので表したような女子生徒だ。肩までのばした黒髪の向こうにある白い首筋に、痣を見つけてしまった。
ああいう子でも喧嘩なんて物騒なことをするのだろうかとぼんやり思ったけれど、自分には関係のない話だと思って深くはつっこまないことにした。
それに彼女、何事もない風に笑っているし。
このクラスには変なやつしかいないな、と思った。
授業が終わっているにもかかわらず、いつまでも机に張り付いてひたすら勉強しているがり勉女子。
人の個人情報を無断で抜き取ろうとする迷惑きわまりないストーカー男子。
ひたすらおせっかいをやいてくる女子委員長。
けれど1番の問題児はやっぱりあいつだ。
「コノハ、一緒に帰ろう」
昼休みに登校してきたワタラセは、放課後になると、すぐさま隣の席の幼馴染みに声をかける。
が、いつものようにナガイは無視してカバンを手に教室をでていった。
毎度よくやるなと思いながらその様子をぼんやり眺めていると、ワタラセが不意に立ち上がってこっちに近づいてきた。
「何か用?」
「それ俺のセリフ」
ワタラセは苦笑して、それから視線を別の方へと向けた。
自然とそちらに目を向けると、いかにも不良っぽい男子生徒が女子生徒にからんでいる。
「誰ら?」
そう質問すると、ワタラセはこっちを向いて穴の空くほどじぃっと見つめてきた。何も言ってないが、まるで「どうしてそんなこと聞いてくるんだよ」と言いたげなそれだ。
「加藤くんって人の名前覚えるの苦手?」
口を閉ざす。この質問には意味がないと感じた。
黙り続けていると、「黙秘ってやつ?」と首をかしげられて、それから2人の名前を教えてくれた。
「あっちのヤンキーは円城小春。で、そいつにからまれてるのは雨宮夏輝。どうせ来年も同じクラスなんだから覚えておきなよ」
言葉も終えないうちに、ワタラセは2人のもとへ歩いていって、エンジョウという名前の男子生徒の肩に馴れ馴れしく腕をまわしてきた。
突然そんなことをされたので、エンジョウは標的をワタラセに変えて、しばらくのあいだ「ケンカ売ってんのか!」「ふざけんじゃねぇ!」と罵声を浴びせていた。
しかし当のワタラセは落ち着いた様子でアメミヤの前に立つと、「売ってないって」「まあまあ落ち着いて」と胸ぐらをつかまれようとも、いたって冷静だった。
そのあいだにアメミヤの女友だちと思われる生徒がアメミヤを引っ張ってどこかへ行ってしまった。
邪魔をされたと感じたのか、エンジョウは最後にワタラセの頬を思いきり殴って、何やらわけのわからないことをまた怒鳴って肩を怒らせながら立ち去ってしまった。
あまりの一部始終に周囲は呆然としている。
正直、あきれた。
エンジョウにじゃない、ワタラセにだ。
戻ってきたワタラセは左の頬を赤く腫れ上がらせていた。
「……一応、大丈夫って聞くべき?」
「まあ痛いんだけど」
そしてワタラセはへらへらと笑った。
「保健室行くから付き合ってよ」
「なんで僕が」
「だって俺ら友だちじゃん」
「そんなもんになった覚えはない」
勘違いをするなという気持ちをこめて言い返せば、ワタラセは一瞬顎に指を添えて何か考えるような仕草をしたあと、大きな声でこう言った。
「あーあ、加藤くんの人でなし~! 目の前で友だちが怪我して立ってるのに看病もしてくれないなんてさぁ!」
周囲にいたクラスメイトたちがざわつきだして、こっちを見ながらこそこそとささやきあう。いったいどんな話をしているんだか。
ワタラセがそう口にしていたように、「カトウユキは人でなしだ」くらいに思われているんだろうか。
ばかくさい。
ため息をついて、カバンを手に席を立つ。
「そうされたって痛くも痒くもない」
教室を立ち去ろうとすると、ワタラセは「待てよ」と言いながら走ってついてきた。
いったい何なんだ……。本当に……。
ついてくるなと言う気にもなれず、まあどうせ暇だしなと思って保健室までは一緒についていった。
ワタラセが保健室のドアをノックして、「せんせー、いる~?」と大きな声をあげた。
保健室でそんなでかい声だしていいのかと半ば他人事のように思っていると、奥から「でかい声だすな!」とワタラセと同じくらいでかい声をあげて、奥から白衣を着た女性がでてきた。
飾り気のない、薄化粧。
そういえばワタラセは、先月の学校案内のときに「中にいる人はまっとうじゃない」と言っていた。
けれど、どう見ても普通の先生だ……。
頭のてっぺんから足の爪先までじろじろ眺めていると、白衣の女性は「なんだこいつ、やらしい!」と自分の体を両手でおおって、くねくねと変な躍りを始めた。
まっとうじゃない、ね。
「大丈夫だよ、岩富先生。そいつ女どころか人間にさえ興味ないから」
何気に失礼なことを言われた気がするけど、事実なので反論はしなかった。
イワトミと呼ばれたその白衣の女性は、「ふぅん」と品定めをするように今度はこちらを頭のてっぺんから足の爪先までじろじろ眺めると、「患者じゃないなら帰りな」と言ってきた。
ならば帰らせてもらおうと思って踵を返そうとすれば、「待った待った」とワタラセが無理やり袖をつかんで引き留めてきた。
「俺置いてかれたら、寂しくて死ぬわ」
「勝手にしろよ。関係ないんだから、こっちは」
ていうかウサギか。
つかまれた袖を無駄にほどくと、イワトミが「えーっ!?」と突然甲高い悲鳴をあげた。
いや、これは悲鳴ではない。
どっちかといったら、<快哉>に近い。
「うっそ、死ぬの!? 寂しくて死ぬ! それは是非とも見てみたいわぁ。ちょっとそこの少年、とっとと立ち去りなさいな。私も立ち去るから。んで、ビデオカメラセットして渡良瀬がどんな風に死ぬのか一部始終をおさえてみるわ。論文で提出したら売れるわよ~。タイトルはそうだな……『寂しくて死ぬウサギ系人類について』どう?」
今までクールな態度をとっていたそれから一変して、まるで壊れたロボットのように。場所も己の職務も忘れたように、ペラペラとしゃべりだした。
「ははっ、ぜってぇ売れないと思う」
イワトミの冗談なのか本気なのかわからない発言に、ワタラセは笑顔で一蹴する。
まっとうじゃないと言ったらまっとうじゃないかもしれない。
ワタラセは「な、言ったろ?」というアイコンタクトのようなものを送ってきた。
「……まあお遊びはさておくとして」
あまりの温度差にさすがに空気を読んだのか、ようやくイワトミはこほんと咳をすると、丸椅子にどかっと座って書類にペンを走らせた。
「2年B組、渡良瀬徹。えーっとなんで保健室に来た? 内蔵がでたとかか?」
「見てわかんでしょ。思いっきし頬を殴られた」
「誰に?」
「円城」
「あー」
名前を出しただけなのにイワトミはすぐに納得したようにうなずいた。
「あいつは不良だなんだと言われているが、所詮それを気取りたいだけの雑魚と一緒だ。付き合いさえちゃんとすればしっかり心を開いてくれるさ」
「……て岩富先生に言われたから、毎回アプローチかけてんだけどなぁ」
すると、イワトミはワタラセの努力を馬鹿にするようにけらけらと笑いだした。
「そりゃお前みたいなのはだめだよ。笑顔の裏に何か邪なことを企てようとしてるような、薄っぺらいのじゃ」
「失礼しちゃうなぁ、先生ってば」
イワトミはワタラセとの会話を続けながら、彼の頬の傷の具合を確かめて、それから湿布を貼った。こうして見ると、どこからどう見ても普通の養護教諭だ。
「ま、気長にやってくといいさ」
「うんうん。まあ頑張るよ」
ワタラセはうなずいて立ち上がった。
「ありがと、先生」
「治療費は特別無料だ。感謝しなよ?」
「って、もとから保健室って無料じゃないっけ?」
ワタラセはけらけら笑うと、こっちの背中をポンポンとたたいてきた。「帰ろう」ということだろうか。
「じゃあねぇ」
保健室をでるとき、ワタラセは気楽な調子でそう挨拶をして、中にいたイワトミはひらひらと別れの合図のように手を振った。
学校を出ると、ワタラセは「じゃ、俺駅だから」と言って反対の方向に歩きだした。
「また明日ね、加藤くん」
別れの挨拶をしたワタラセの背後には、雨上がりの夕焼けが輝いていた。
その光景を眺めて、ふと寂しさに襲われる。
明日があるなんてわからないし、会えるかもわからないのだ。
だからこそ「また明日」とは返さなかった。
ぼろアパートに帰ると、玄関の前に深緑色のキャップをかぶった、背の高い女性が待っていた。
彼女は厚みのある茶封筒を渡すと、さっさとその場を立ち去った。茶封筒は重く、中を見ると現金の詰め合わせだった。
どうやら生活費でも渡しに来てくれたらしい。
こんなぼろアパートじゃ家賃もたかが知れてるし、部屋には1人しか住んでいないのだからたいした出費もない。
こんなにいらないのになと思ったけれど、彼女を追いかけるのは面倒だと感じたのでありがたく受け取っておくことにした。