9話 永井コノハ
永井コノハは重い瞼をゆっくりと開けると、勢いよくベッドから降りて閉じられていたカーテンを開いた。
途端に入ってくるのは朝の陽ざし。そのあまりのまぶしさに目を細めつつ、コノハは大きく息をついた。
今日も始まる、嫌な嫌な日常が。
今日も始まる、鬱陶しくて、けれど逃れられない。
今日も始まる、あの甲高い――。
「コノハあ、いつまで寝てるの~!? 起きなさーい!」
あの、甲高い母の声。
コノハはゆっくりと息をつき、こちらも負けじと大きな声で言い返す。
「今行くー!」
朝の陽ざしから背を向け、コノハは反対にあるクローゼットのドアを、音をたてて開いた。
***
朝、教室へと足を踏み入れると、そこにはいつも通りの日常が広がっていた――いつも通り? それってなんだろうと、僕は直後に首をかしげることになる。
きっと今日はいつもと少しだけ違う。今日の教室は、昨日と違っていつも以上に騒々しい気がした。教室のあちこちで「小野塚先生が」という声が聞こえるからだろう。
小野塚先生、という名前を聞いただけで、僕の頭の中には、昨日遭ったばかりのあの事件が僕の中で静かに再生ボタンが押された。
準備室に閉じ込められた僕と先生。突如、先生は刃物を持って僕を襲った。狭い部屋の中で僕はまともに逃げられず、間一髪というところで何故かそこで待ち伏せをしていた転校生の遠藤くんが助けてくれた。
もし彼がいなかったら、今頃僕はどうなっていたか。考えただけでも恐ろしい。
誰がどう見ても、あの光景はいつもとは違う、非日常の内側に存在する何かだった。けれど僕にはどうもそれだけとは思えない気がした。
疑問は2つ。
どうして先生は、僕を襲ったりしたのか。
そして、どうして――。
「雪、大変だよ!」
声をかけられ、僕はハッと我に返る。
隣の席にいた篠田がいつの間に、僕の席の前にいて両手でバンッと僕の机をたたいてきた。
篠田の「大変」な理由がなんとなくわかっていたから、僕はなるべく普段通りの口調で「どうかしたの?」と彼女に問いかけ、わざとらしく首をかしげてみせる。
篠田は自分の顔をぐいっと、それこそキスでもしそうなくらい僕の顔に近づきながら、早口に言う。
「小野塚先生が学校をクビになったらしいの!」
ああ、やっぱりか。というのが僕の本音だ。そんなことだろうと思ったのだ。
だけどここでそんな態度をとろうものなら、篠田みたいな勘の良い子は「雪ってばなんか知ってるんだね?」と言われそうな気がしたので、僕は大袈裟に「え、そうなの!?」なんて叫んでみる。
篠田は何度もうなずいて、それこそ興奮しているようだった。
僕は興奮を装いながら今知ったその事実とやらに、驚き続ける生徒の1人という役を演じてみせる。
「なんでさ。だってあの先生、普通に真面目だったじゃん。そりゃちょっとは素行悪い感じもあったかもしれないけど、わりと生徒受けだってよかったし。それをクビだなんて……」
事情を知っているくせに、よくもまあ、こんなにペラペラとしゃべれるものだ。先生が学校を辞めさせられた理由? そんなの決まっているじゃないか。現に僕はその姿を目の前で見ている。そして被害者にさえなった。
篠田は困った顔をしながら、僕から少し距離をとった。
やりすぎたかな、と思ったけれど、篠田はどうやら気付かなかったようで、眉間に皺を寄せて腕を組みながらその先を続けた。
「それが、誰にもわからないんだって。昨日急に、学校を辞めなさいとか理事長に言われたって」
突然の解雇。
先生が学校を辞めさせられた理由、そんなの僕と遠藤くんという生徒を危険な目に遭わせた――殺そうとしたからに、決まっているじゃないか。
しかし、僕はそれを誰にも言わない。
遠藤くんとそう約束したわけではなかった。ただ、これは言ってはいけないことのような気がしたのだ。
篠田は納得いかない、といった顔をしながら先を続ける。
「しかもそのときにね、理事長先生が小野塚先生に向かって『お前はもうこの学校には必要ない』とか言ったらしいんだよ」
学校に、必要ない?
思わず篠田と同じような表情を僕はしてしまう。篠田は僕の顔を見て、「ね、おかしいでしょ?」と同意を求めてきた。うなずかざるを得ない。
「ひどすぎるよね。あんなに熱心な先生に対してさ、面倒なところだってそりゃあったけど、すっごく生徒思いだったのに。それを理事長先生が、ゴミを捨てるみたいに『必要ない』だなんて……」
篠田の声がだんだんと沈んでいった。
ゴミを捨てるみたいに、という表現はいささか言い過ぎだとは思うけれど。きっと、彼女は悲しいのだろう。篠田はわりと小野塚先生が好きなほうだったと思うから。僕だってそうだ。
僕だって、あの先生が好きで、尊敬していた……と思う。けれど今となってはもうわからない。あんな、いきなり生徒に刃物を向けるような先生だったなんて。今でも信じられない。
修正:2018/4/20