呪い
リアはぼんやりと窓の外を見つめていた。
あの日、レオのキスを自ら受け入れた。優しい口付けはリアの思考を甘く溶かし、夢中に……させた。熱く吹きつけるレオの情熱という風に、また流された。
違う。
レオは強引ではなかった。リアがレオの胸を押し返したとき、レオは1度止まってくれた――選択権はリアにあった。そして、リアはレオと唇を重ねることを……選んだ。
あの時間は、“レオに想いを寄せる自分”が確かに存在した。確かに、レオを求めた。
けれど、部屋に戻って熱が引いていくと急に怖くなった。罪悪感、とでもいうのだろうか。自らレオとのキスを望んだことは、エンツォを裏切ることだ。それが偽物の気持ちだとわかっていても、リアにはその歪んだ記憶の隙間をコントロールすることができない。囚われている……
(私は……)
自分は、どうしたいのだろう。
どれが自分の本当の気持ちで、どれに従ったらいいのか。
そんなことを考え続けるせいか、頭痛が治まらない。痛みはそれほどでもないが、何かリアの心の奥、芯を刺激するような……チクリとしたそれ。
「リア様、お食事は?」
窓に手をついて、ずっとぼんやりしているリアにカタリナが声をかけてくる。リアは微かに首を横に振った。
「しかし……ここのところ、また召し上がっていないですよね?」
数日前、レオと中庭で何かあったらしいというのはカタリナも察しているだろう。それが原因でまた食欲をなくしていることにも気づいているはずだ。
後で食べるから、と置いていってもらっている軽食はバルコニーから小鳥にあげている。たくさん用意してくれるそれらが少食のリアに食べきれないことも、雨の日にはすべてが残ってしまうことも、元々気づかれているのだからと……開き直って。
(私……)
わからないのだ。リアが食べたいと思うものは、本当に自分が食べたいものなのか?リアの行動は、リアの意思のはずなのに、すべてが偽りのような気分になる。
チラつくレオの漆黒の瞳。それは、リアが求めているものなのか。
植えつけられた記憶を持つリアが?それとも、本物の記憶を持つリアが?
わからない。
リアは何がしたいのだろう。本当のリアの意思は、一体どれだというのだろう。
リアが窓から離れてベッドに戻ろうとすると、カタリナがリアの前に立った。
「リア様、もうすぐシェフがこちらに来ますから」
そう言って、リアをテーブルへ促そうとする。
「食べたくな――」
リアがカタリナの手を振り払ったとき、ノックの音がした。カタリナが返事をすると、シェフが昼食の用意を持って入ってくる。
「リア様、お座りになってください」
カタリナがもう一度声を掛けてくるけれど、リアは動かなかった。
「リア様、今日はクリームシチューでございますよ」
今度はシェフに優しく声を掛けられる。白髪交じりの年配のシェフ。柔らかく微笑んで、出来立てで湯気の立つシチューの皿をコトリとテーブルに置く。サラダは綺麗な彩り、ドレッシングもリアの好みの味付けだと香りでわかる。シェフは焼きたてのパンが数種類入ったバスケットを持って「さぁ」とまた笑いかけてきて。
全部がリアの大好きなメニュー。食欲のないリアのために、とカタリナに頼まれて用意してくれたのだとすぐにわかった。
「デザートはスフレを……」
「いらない!」
リアがシェフの言葉を遮る。突然、大きな声を出したリアに、カタリナもシェフも驚いて黙り込んだ。
「いらない……」
食べたくない。
今、おいしそうだと思ったのは一体誰?シチューが食べたいのは?サラダのドレッシングが好みなのは?
頭が痛い。
食欲なんてない。食べたいと思ったのはリアじゃない。大好きなクリームシチューも、シェフの作る口の中でふんわり蕩けるスフレもいらない。
リアは弱々しく笑った。
そうだ、このシェフは自分の好みを把握していて、いつも……リアがねだれば何でも作ってくれた。
「お食事が喉を通らないのでしたら、お飲み物にいたしましょう?ね、リア様」
カタリナがリアをなだめるように言う。
「ミルクティーがよろしいですか?それとも、ピーチやストロベリーのフレーバーティーが……」
「いらないと言ってるの!」
リアは更に大きな声を出した。
(どうして……)
自分の好みを把握している城の者たち。ここで生活をしているリアは、自分の知らない“リア。”
“リア”が食べたいと思うものは食べたくない。どうして“リア”の好みとリアの好みは同じなのだろう。
(誰なの?)
一体、リアの他に誰が“リア”であるのだ?
あぁ、もう……頭の中がぐちゃぐちゃで、わからない。偽りの気持ちと、わからない本当の気持ち。エンツォを好きな自分と、レオを受け入れた自分。
(誰、なの?)
「リア様、落ち着いてください」
「リア?そんなに叫んで……一体何があった?」
カタリナがリアをなだめようとリアに近づくのとほぼ同時にレオが怪訝そうな顔をして部屋に入ってきた。朝の執務が終わってリアの様子を見に来たのだろう。
「レオ様……リア様が、お食事を召し上がりたくないとおっしゃって……」
「わかった……いい。下がれ。後で軽食を持って来い」
シェフはレオにそう言われて頷き、食事をすべて片付けてから部屋を出て行った。
「リア、まだ具合が悪いのなら――」
レオがリアに向き直って優しく声を掛けてくる。漆黒の瞳に映る自分。それは……
(本物?偽物?)
「――っ、ぐ」
その瞬間、リアは頭に走った激痛に膝をついた。
「リア!?」
レオがサッと駆け寄ってきて、リアの身体を支える。
「う、く……はっ、ぁ……」
ズキズキと痛む頭と、大きすぎる心臓の音。リアは左胸に手を当てた。ギュッとドレスの布を掴む。
「リア?苦しいのか?カタリナ、セストを呼べ!」
「は、はい!」
レオがリアの背中を擦りながら、カタリナに向かって叫んだ。カタリナはすぐに踵を返し、部屋を出て行く。
「はぁっ、はっ、う、ぁ……はっ」
「リア、しっかりしろ」
レオがリアの顔を上げさせる。リアは視線を彷徨わせて、レオを映した。自分の呼吸の音がうるさい。汗が額に滲む。
今、苦しいのはリア?それとも“リア”?
「リア?大丈夫か?」
リアはその漆黒の瞳に映る自分を見つめた。
(私は……私は、誰――?)
「リ――!?」
突然、リアはレオの首に両手をかけた。思いきり体重をかけると、何の警戒もしていなかったレオは後ろに倒れてリアはその上に馬乗りになる。
『殺して』
そう、頭の中に声が響く。すべてが真っ黒に塗り潰されていく。
これで……“リア”も、いなくなるのかもしれない。リアは暗闇に沈んで意識の中、レオの首にかけた両手にありったけの力を込めた――
「ぅ、ぐっ」
力のこもったリアの手首を押さえながら、レオは呻いた。なんとか身体に力を入れて、肘を床に着いて肩を浮かせる。リアの瞳が虚ろになっていくのがわかる。
「リア様!レオ様!」
そこにちょうど駆け込んできたセストが、目の前のあり得ない光景に一瞬動きを止め、しかしすぐに我に返るとレオとリアに駆け寄ろうとした。カタリナは声も出ないようで、立ち尽くしている。
レオはセストを目で制した。
「リ、ァ……っ」
「殺して……殺して、殺して……」
何度も繰り返して呟きながら、一層リアの手に力が込められていく。
「くっ――」
レオがリアを引き剥がそうと全力で引っ張っているのにビクともしない。どこにそんな力があるというのだろう。
「リ……ア……」
レオは顔を歪めて、声を絞り出す。
「ぅっ……」
リアの身体がピクリとして、ほんの少し力が緩んだ。その一瞬で、レオはリアの手を自分の首から引き剥がした。
「ぐっ、げほっ……はっ、はぁっ」
レオは床に片手をつき、上半身を起こして咳き込んだ。
「レオ様!」
「来るな!」
セストが近づこうとするのを、レオは叫んで止めた。リアがまた“殺して”と呟き始めたからだ。
「リア!しっかりしろ!!」
レオがリアの肩を掴んで揺する。リアはゆらりと視線を彷徨わせてレオを捕らえる。
「っ!?」
その瞳の色に。
レオは素早くリアの身体を絨毯に押し付けると体勢を入れ替えた。それと同時にリアがまたレオの首に手をかけた。素早く反応したレオだったが、掴めたのはリアの片手。もう片方の手は強くレオの首を締め付けようとしてくる。
顔を歪めるレオを見て、リアは薄っすらと笑い、そして、綺麗な翡翠色であるはずの瞳が真っ赤に染まっていく。レオは舌打ちをして、呪文を唱え始めた。レオの左手に風が渦巻いていく。
(許せ、リア……)
呪文を最後まで唱えると、レオはリアの心臓――王家の紋章が刻まれた場所――に左手を押し当てた。手のひらの風が吸い込まれるように、リアの中へ消えていく。
「う、っ……ぁ、あぅっ、ぐ」
リアは苦しそうに呻き、身体を捩った。
「ぅ、あ……はっ、はぁっ、はぁ……ゃ……」
リアの瞳がスッと色を取り戻し、そこから大粒の涙が零れた。そしてレオの首から手が離れる。レオがリアの身体を抱き起こすと、リアはレオにしがみついて泣きじゃくった。
「っ、いや……ころ、した……っ、くな……はっ、ぅっ……」
リアが呼吸の合間に掠れた声を出す。レオか心臓に入れた気が引き起こす痛みと、人を殺してしまうという恐怖に、レオのシャツを掴む手が震えている。
「リア。もう大丈夫だから」
レオは優しく背中を撫でてやった。
それでも、彼女の痛みはレオが呪文を解除するまで続くのだ。だから――
「はっ、はぁっ、れ……ぉ……?」
「あぁ、俺だ。ここにいるから……“おやすみ”」
レオがそう言うと、リアの手からフッと力が抜けた――
誰も何も言わなかった。
レオの腕の中、リアは先ほど恐ろしい言葉を呟き続けていたとは思えないほど、静かに規則正しく呼吸をして眠っている。寝顔にどこか幼さが残っているような気がするのは、涙の跡のせいだろうか。
そうして、どのくらい経っただろう。
レオはリアの身体を抱き上げてベッドに降ろした。髪飾りを外し、結っていた髪も解いてやる。真っ白なシーツに波打つ綺麗な栗色の髪。
「記憶だけではなかった、というわけか」
レオは思わず乾いた笑いを漏らした。
これは、明らかに呪いだ。リアが自らこの能力を使うことはない。何かがトリガーとなって、彼女がこの城へと来ることになった理由である特別な力――“赤い瞳”を使うようにインプットされている。
「レオ様……」
珍しく弱々しい声を出した主に、セストはどう声をかけたらいいのかわからないようで、視線を泳がせた。レオはフッと笑って首を振り、じっと眠るリアの顔を見つめた。
「リアを……よりによって“赤い瞳”の力を……っ、俺を!俺だけを苦しめればいい!殺せばいい!」
レオは吐き捨てるようにいい、グッと拳を握った。爪が食い込むほどに強く。
「レオ様。とりあえず、リア様に処置を施しますから……オビディエンザを解いていただけますか?」
「……あぁ」
セストに言われて、レオは長く息を吐いて心を落ち着けた。
レオはリアの心臓に手を当てて呪文解除を小さく唱えた。先ほど吸い込まれていった風が、レオの手のひらへと戻ってくる。
オビディエンザ――服従の呪文。王妃に刻まれた紋章と合わせて使われる呪文で、王に服従させることができる。
遥か昔、王が自分の見初めた女性を無理矢理王妃にしたことがあった。彼女は王の寝室に行くことはもちろん、公務を共にすることも拒んだ。そんな彼女を王に従わせるために生み出された呪文だ。
元々、王家の婚姻など政略結婚が多いものだ。王家との縁談に、喜んで嫁いでくる者が大半ではあるが、中には恋人と引き離されて嫁がされる貴族の娘もいる。そういうときに重宝されるのだ。
王の気――呪文の源となる精神力のようなもの――を心臓に入れることで紋章が反応し、王妃に苦痛を与える。それでも抗う場合、王の言葉で彼女の行動を制限することができる。レオが、リアにそうしたように……
レオは奴隷のように人――愛するべき存在――を扱うことのできるそれが嫌いだった。使おうと思ったこともなかったし、リアとは愛し合って結ばれた自分にこの呪文を使う日がくるとも思っていなかった。
「痣の処置と解熱でよろしいですね?」
レオの手のひらの風が消えたのを見て、セストが問いかける。
リアはものすごい力でレオを押さえつけてきたため、それを引き剥がそうとしたレオも強くリアの手首を握ってしまった。そのせいで、リアの真っ白な肌が鬱血して赤黒くなってしまっていた。その痕を見て、レオはまた顔を歪めた。
「あぁ……なるべく、強めにかけてやれ」
「承知しました」
少しでもリアの苦しみを和らげてやりたくて、そんなことをセストに頼んだ。セストもすべて承知の上で、それでもレオの言う通りにトラッタメント――治療――を施してくれる。痣はすぐに消える。けれど、おそらく解熱効果はあまり――いや、全くないだろう。
いつか、リアが力を使ってしまったときも嘔吐を繰り返し、頭痛と眩暈で起き上がるのも大変な状態だった。高熱も2、3日続いたと記憶している。あのときは完全に赤い瞳の能力を使ってしまったから特にひどかったのだろうけれど、今回は寸前でレオが止めたため症状は少し軽くて済むはずだ。
大きな力には、見返りが必要。それを、こんな小さく儚い存在にまで課す神は……人々が思い描く彼の像とは掛け離れていて、残酷な存在なのかもしれない。
セストがいくら優秀であっても、彼のトラッタメントはリアの苦しみを和らげることができない。
“赤い瞳”の副作用は病気ではなく、代償だから――