戸惑い
金髪の長い髪をひとつにまとめた男がリアに背を向ける。だんだんと小さくなっていく、その背中に向かって大きな声で叫ぶのに、声が出ない。
気づいて。
私を、助けて。
『エンツォ!!』
そう叫んだ瞬間、急に地面がなくなって、真っ暗な闇に落ちていくリアの身体。
「――っ!?」
リアはその浮遊感で目を覚ました。窓からは日差しが入り込んでいる。身体を起こすとまだ残る気だるさが、昨夜の出来事を思い出させる。
「お目覚めですか?温かいお茶はいかがですか?」
「え……」
声のする方に顔を向けると、テーブルにティーセットを用意していたらしいカタリナがリアの方を見て微笑んでいる。
「リア様?」
ボーっとするリアに、カタリナが心配そうに首をかしげた。
「あ……ごめんなさい。あの……」
朝目覚めてお茶が用意されていることは、今のリアにとっては普通じゃないのだ。“リア様”と呼ばれることにも違和感がある。
「今、お召し物を用意いたしますね」
カタリナはリアの動揺も気にすることなく、テキパキと動く。すぐにシルクのガウンを持ってリアのそばにやって来て、リアの背中で広げるようにした。手を入れろ、ということなのだろう。
「先に……湯浴みをされますか?」
カタリナがリアの前に回って、ガウンの紐を結びながら言う。その言葉で、鼻の奥がツンとした。夢であって欲しいと思った昨夜の情事が現実のものだということを、暗に告げられた気がして。
「リア様……」
リアは小さな町の片隅に住む普通の娘、のはずだった。こんな立派な城で暮らすような身分ではない。
レオはリアが両親と同じく王家専属クラドールだったと言った。マーレ王国出身の両親は確かに優秀なクラドールだった。だが、王家専属クラドールは普通のクラドールとは別格の職業。
マーレ王国は水属性の呪文を使う民の国。その呪文の質がトラッタメント――治療――に向いているのか、国民の8割はクラドールの資格を持つ。
王家専属クラドールはそのトップに立つ者のことで、多くの知識や最高の技術を持つことはもちろん、適正試験にも合格しなければならない。それが、いきなり本当は王家専属クラドールとして働いていたヴィエント王国の国王の婚約者だと言われた。
そして、抗えない情熱に絡み取られて肌を重ねた。
リアには、好きな人がいるのに……レオを拒みきれなかった自分が怖い。リアの身体も心も、まるで自分のものではないかのようにレオに翻弄される。
「っ、うっ……」
「リア様……」
泣き出したリアの背中を、カタリナはずっと擦ってくれた。
しばらくして、リアが落ち着いてから専用のバスルームへと足を運んだ。部屋にも小さなバスルームはあるが、もっと大きいバスルームが城の1階にあり、そこへ連れて行かれたのだ。
1人で入るには大き過ぎるバスタブに張られたお湯は丁度いい温度に調節されていて、ふわりといい匂いが漂う。
「今日はラベンダーの香りにいたしました」
湯浴み担当の侍女がそう言いながら、湯船に浸かったリアの身体を洗っていく。他人に身体を洗われるのも、変な気分だ。
リアは黙ったまま、胸元に視線を落とす。侍女に擦ってもらっても、色褪せることのないその紋章と、赤く散らばった華。リアはギュッと目を閉じた。
(どうして……)
リア、と自分の名前を呼ぶ声が心の奥深くから聞こえたような気がした。「どうして」と問うたときのレオの顔が脳裏にチラつく。優しく微笑んだレオの顔。
(どうしてそんな顔をするの?)
その問いは、彼の情熱に焼き尽くされてしまった。彼の優しい愛撫に意識を攫われて、流されてしまった。もっと乱暴に、いっそめちゃくちゃにしてくれたならこんな想いをしなかった。レオを責めることができたのに。
「リア様、そろそろ……」
身体を洗い終えてもずっと湯船に浸かり続けるリアを心配してか、侍女が声を掛けてきた。その声に現実に引き戻されて、リアは小さく頷いて湯船から出た。
脱衣所――にしては広すぎる空間――に出て行くと、何人かの侍女がリアの身体を拭き、下着を着けていく。更に新しいドレスを着せられて、鏡台に座らされた。
まるで人形になったような気分だ。
ドレスは淡いピンク色でホルターネックになっている。スカートはすらりと長いシフォン素材。
城での普段着はシンプルなドレスと決まっているらしい。脱衣所に用意されていた何着もあるドレスは色こそ様々だが、デザインは軽くリボンがついていたり、スカートの裾や襟元にレースがついていたりする程度だった。
侍女がリアの長い栗色の髪を乾かしていき、薄く化粧を施す。髪の毛が乾くと前髪を右の耳元まで編みこみにされ、後ろの髪も右耳のところで1つにまとめられた。そこに挿されるドレスより少し濃い色のバラの髪飾り。
ふいに、鏡の中の自分と目が合ってリアは俯いた。
隠し切れない昨夜の熱の名残りと、ヴィエント王国の紋章。
着たことがないような上質な生地のドレスに滅多にすることのなかった化粧、そして使うシャンプーの違いなのか艶の増した気がする髪。
すべてがリアの目の前に突きつけられて。
見たくない。自分であって、自分でない、こんな姿は。
***
身支度が終わって部屋に戻ると、シェフがちょうど料理をテーブルに並べ始めたところだった。リアが湯浴みを終えて戻ってくるタイミングもしっかりと伝わっていたらしい。何もかもが完璧だ。
カタリナはリアが湯浴みを終える前に部屋の掃除などもしてくれたらしい。最も、掃除する前と変わったことはベッドのレースカーテンが支柱に結ばれ、シーツも新しく変えられて綺麗にベッドメイキングされているくらい。
「さぁ、こちらへ」
カタリナに促されて、リアは椅子に座った。
「リア様、本日はカボチャのパンを作りました。どうぞ」
お皿の上に2つ乗せられたほんのりオレンジ色のパンは、焼きたてらしい。見るからに柔らかそうだ。
リアは笑顔のシェフを見て、困ってしまった。昨日から、リアの好物ばかりを用意してくれる。食べないのはそれを無駄にしてしまうということであり、更にリアのために作ってくれたシェフにも申し訳ない。わかっているけれど、本当に食欲が湧かないのだ。
「あの……」
「リア様、いけません」
リアが言葉を続けるより早く、カタリナが厳しい声を出す。
「――っ、でも、私……」
食べたくない。意地、なのかもしれない。知らない場所で、知らない人に囲まれて……それなのに、周りは自分を知っていて。何でもいいからこの状況に逆らいたい。
「……」
零れそうな涙をグッと奥歯を噛み締めて耐える。そんなリアを見て、カタリナが微かにため息をこぼしたのが聴こえた。
「わかりました。では、後で召し上がれるようにこちらに置いておきます。それから、適当に果物でも切っていただけますか?」
最後はシェフに向かってそう言い、カタリナはテーブルの片付けを始めた。
リアは何も言わないまま立ち上がり、ベッドに突っ伏した。零れた涙が枕を濡らしていく。
「リア様、お好きなときで構いませんから少しでも口にしてください」
部屋を出る直前、カタリナがリアに声を掛けてくる。
わかっている。リアだってクラドールなのだ。食事をしないことがどういうことかもわかっているし、このまま拒否し続けることもできないと知っている。
ただ、今はそんな気分には到底なれない。
リアは扉が閉まる音を聴いてから「うっ」と声を漏らした。泣いても仕方ないけれど……それでも、浅はかな考えに縋りつかずにはいられない。
このまま眠って……目が覚めたときに家に戻れていたなら。
すべて、夢なら――
けれど、リアの願いが届くことはなかった。
毎日同じように「夢ならば覚めてほしい」と眠りにつき、カタリナの用意する紅茶の香りで現実に引き戻される。
シェフが、カタリナが、リアのことを知っていることを十分に理解するのに長い時間はかからなかった。
レオは毎朝、毎晩リアの部屋へとやってくる。
朝は顔を合わせなくてはいけない――と言っても、リアはレオを見ようとしなかったけれど――が、夜は早くにベッドにもぐりこみ寝たフリをすることでやり過ごす。
今日も……
シーツの中で、部屋の扉が開いたのを聴く。レオは、リアが本当に寝ていると思っているのかベッドに近寄ることもしない。
「おやすみ」
と。毎晩、それだけを呟いて部屋を出て行く。
リアも、そのレオの言葉を聴いてから眠りの世界へと誘われる。会いたくない、見たくないと思っているのに……そうやってレオの「おやすみ」を待っているかのような不思議。
(違う……)
ただ、眠れないだけ。城で特にやることもないまま過ごすリアが早い時間に眠れるはずもなくて。
でも。
レオの「おやすみ」は、どうしてかリアの瞼を重くする呪文のようにリアを包み込むのだ――…