赤い瞳
赤い瞳――純粋な水属性の家系に稀に生まれることのあるという特別な力。クラドールの能力が高い者に能力者が多いとも言われている。
それは、人の身体の中に直接手を加えることができる能力。
本来、呪文という気を源とした精神力のようなものを媒介して治療を行うのがクラドールであるが、リアはこの“赤い瞳”を使ってダイレクトに人の体内を操作できる。媒体を通さずに細胞の再生を促すため治癒が速く、瀕死の状態の人間や大量に出血している人間を救うことも可能であり、また逆に、細胞を一瞬で破壊することもできるのだ。
そんな神のような力を使うことは、本来人間には許されないのだろう。その能力を使えば、体力的にも精神的にもかなりの負荷がかかる。
力を解放した後は、高熱や嘔吐、頭痛に苦しめられ、眩暈はかなり長く続く。レオが知る限り、リアが力を使ったのは1度……正直、見ていられないと思った。その1度以外にも、まだリアが精神的に不安定だった幼い頃に何度か力を解放しかけ、その度に寝込んでいた。実際に力を使うよりは軽いけれど、決まって高熱が2、3日続く。
きっと、今回もそうなるだろう。
レオはベッドでだんだんと呼吸の荒くなるリアを見て顔を歪めた。
人間とは醜いもので、能力者が現れるたびに争いが起こった。能力者の奪い合い――戦争を有利に進めたり、他国の重要人物を暗殺したり、とにかく利用したい。彼らにとって、能力者の苦しみなど二の次なのだ。
先代の王、オビディオがオルフィーノ家を城に迎え入れた理由は赤い瞳を持つリア。彼女を守るため。
この国で1番安全な場所と言えばヴィエント城。
リアの故郷、マーレ王国は小国だが優秀なクラドールを多く輩出しているため、侵略しようとする国は少ない。力で従わせるよりは、何かしらの報酬と交換という形でクラドールを派遣してもらうほうがお互いに犠牲がなくて良い。ただし、赤い瞳の能力者が現れた場合は別だ。どの国も……我先に手に入れようとする。少なくとも、それが歴史上の記録だった。
リアの存在を知ったマーレ国王は、リアの争奪戦が起こることを危惧して懇意にしていたオビディオに依頼した。リアを匿って欲しいと。
ヴィエントとマーレは昔から親交が深い。オビディオは彼の依頼を快諾し、また、マーレ王国でも指折りのクラドールであったリアの両親は怪しまれることなくヴィエントの王家専属クラドールとして城に入ることができた。
幸か不幸か、幼くして能力に目覚めてしまったリアは、両親に守られてひっそりと暮らしていたため、彼女が赤い瞳の所有者であることを知っている者は少ない。
レオがリアの能力について知ったのは、1番初めにリアが力を暴走させてしまったときのこと。幼かったリアは鍛錬の途中でうまくいかないトラッタメントを無理矢理に完成させようとして、力が解放されてしまったのだ。リアの鍛錬を見ていた父親のリベルトが止めたが、やはりリアは副作用で寝込んだ。
そして、オビディオがレオに教えてくれたのだ。
すでにリアに淡い恋心を抱いていたレオ。そのとき、リアは改めて最優先で守るべき人となった。リアが苦しまないように守るのは自分でありたい――そう、強く思った。
それなのに……
「俺の、せいだな……」
いつだって、リアを苦しめてしまうのは自分だ。初めてリアに想いを告げたときも、記憶をなくした今も、エンツォとの因縁に巻き込んでしまっているこの瞬間も。
一番安全だと思われた場所から連れ去られ、記憶をなくし、恐れていた力を無理矢理引き出されて。
「……レオ様」
「っ、ぅ……」
セストがレオに声をかけ、レオがハッと現実に戻ってくる。
苦しそうな声にベッドを見ると、リアが眉を顰めている。まだ意識はないようだが、すでに大量の汗をかき、呼吸もつらそうな様子を見ると、すぐに目覚めてしまうだろうと思えた。
「カタリナ、水を」
「は、はい」
呆然と今までの出来事を見ていたカタリナは、レオに声をかけられてようやく我に返った。レオはカタリナから水を受け取り、ベッドサイドの机に置く。
「セスト、今日の残りの執務はここに持ってこい。カタリナ、今日はもういい」
「承知しました」
「は、い……」
セストとカタリナはそれぞれレオに頭を下げると部屋を出て行った。
静まり返った部屋、リアの呼吸音だけが響く。
「ぅっ、はぁっ」
少しでも苦しみを和らげてやりたくて、レオはそっとリアの手を握った。すると、リアが微かにそれを握り返してきた。
「リア?」
リアのまぶたがゆっくりと上がり、ぼんやりと視線を彷徨わせた。そして、レオの方を向く。その瞳が、ちゃんとレオを映しているのかどうか、レオにはわからなかった。
「くる、し……はっ、はぁっ」
レオはリアの言葉にギュッと強く手を握った。
『苦しい』
リアがレオの前でそう言ったことがあっただろうか。心配をかけまいと、寝込んだときさえ微笑んで、いつも『大丈夫』と言っていた。
記憶がない分、レオが誰だとか心配をかけたくないとか、そんな壁もなくなっているのだろう。これがリアの本音。苦しくて、つらくて、きっとレオの想像を遥かに超える恐怖と戦っている。
守らなくてはいけない……自分が。
「ここにいるから。俺が、そばにいる」
「っ、はぁっ……」
リアの目から耳元まで、スッと涙の道筋ができる。
「ずっとそばにいるから、もう少し休むんだ」
目じりに溢れた涙にそっと口付けてやると、リアは少しだけ口元を緩めた気がした。
***
――自分の呼吸音が、だんだんと大きく聞こえるようになってくる。
「ん……」
リアが目を開けると、天蓋が映った。
頭がくらくらする。手の甲を目元に当てて、ぐるぐる回る視界を遮った。深呼吸をしてからゆっくりと上半身を起こすとソファでレオが山積みの書類に何か書いてはまた別の山に置いていくのがぼんやりと見えた。まだ少し視界が歪む。
「――っ」
目を開けていられず、ギュッとまぶたを閉じた。
「リア?気がついたのか」
シーツの擦れる音でベッドの方へと視線を向けたレオが、リアに気づいたようだ。リアはゆっくりと目を開けて、ベッドに近づいてくるレオを見る。
「水、飲むか?」
レオがグラスに水を注いで渡してくれる。それに手を伸ばそうとするのに、腕が思うように動かない。
「ほら」
そんなリアの様子に気づいて、レオはベッドの淵に座ってリアの手にグラスを持たせた。自分の手も添えて、リアの口元に持っていく。
「ん……」
リアはゆっくりとグラスの水を飲んだ。
冷たい水が、喉を伝って身体に染み渡っていく。けれど、それはすぐにリアの熱に溶けていった。
「頭痛や吐き気はあるか?」
レオが空になったグラスを机に置いてリアに向き直る。リアは小さく首を横に振った。
「そうか……横になったほうがいい。眩暈がするんだろ?」
リアはぼんやりとレオの顔を見つめた。
(前、に……)
同じことがあった気がする。いや、あったのだろう。そうでなければ、頭痛と吐き気の有無を確認などしないだろうし、眩暈がすることもわからないはずだ。
「リア?」
ぼうっとしたままのリアにレオが声を掛ける。
(あのときは……)
リアは無意識にレオに手を伸ばした。しかし、身体が重くて腕が持ち上がらず、手のひらがゆっくりとシーツの上を滑る程度だ。
レオは少し驚いたように目を開いたが、リアの手をそっと掴んで引き寄せてくれた。レオの胸に頬が当たる。規則正しい心臓の音が、リアを安心させてくれるようで……リアは目を瞑ってその音に耳を傾けた。
同じだ……この温もりも、音も、全部、自分は知っている。
「……こわ、い……っ」
自然と零れた呟き。レオがギュッと抱きしめてくれて、自分の小さな声が届いたのだとわかった。
「使いたく……ないの。私、の力は…………っ、だめ、なの」
「ああ、わかっている」
レオは少しだけリアから身体を離し、翡翠色の瞳を覗き込んでくる。
「使わせない。俺がちゃんと……止めてやるから」
力強い、迷いのない言葉。
リアは……その言葉を、信じている。どうしてかはわからない。ただ、本物だとか偽物だとか、そんなことが霞んでしまうほど心の底から強く沸き上がってくる何かがあって。
「…………ん……」
リアが微かに頷くと、レオは微笑んでくれた。
(あのときと……)
たった一度、力を使ってしまったときと。
(同じ……)
ぼやけて思い出せない影はきっと、レオだ。そうだとしたら……
リアはレオの顔が近づいてくるのをおぼろげな視界に映していた。記憶の中の映像と重なっていく。
……けれど、2人の唇は重ならなかった。レオが呼吸の混じる寸前でそっと顔を逸らし、代わりに頬に口付けを落としたから。そして、リアをベッドへと横たえた。
「食事の時間まで、寝ていろ」
優しい声に促され、リアは目を閉じた。
「れ、ぉ……」
「あぁ」
彼の名は……抵抗もなく、するりと口から零れた。紛れもなく、リアの声。それに答えてくれたのは、リアの求める心地よい音。レオの、優しい風。
(私は、きっと――)
すぐに寝息を立て始めたリアの頭をそっと撫でる。
リアの記憶は少しずつ拘束が緩んできているようだ。レオに手を伸ばしてきたとき、今の状況に“あの日”を重ねて見ていると確信した。レオはリアの髪の毛を一房掬って口付ける。
思い出して欲しい。しかし、今の不安定な状態では植えつけられた記憶をうまく浄化できないかもしれない。それに……
(何か……)
確かに城で生活することで既視感から記憶の鍵が緩むことはあるはずだ。けれど、その外れ方が急な気がする。特に、リアの口からレオの名前がこぼれるときや、今のように何か前と同じようなシチュエーションでぼんやりと記憶回復の片鱗をみせるときはいつもリアが混乱しているとき――不安定なときだということが引っかかる。
そういう状態で記憶が戻ってしまっても、本来の記憶と偽物の記憶の区別をつけられないかもしれない。
自力で思い出すというのは、その者自身が偽物の記憶を“偽物”だと認識し、納得しなければいけない。記憶を取り戻しても偽物を本物だと信じたいと願ったり、本物のほうを捨ててしまったりすれば精神の均衡は壊れ、簡単に迷宮へと足を踏み入れてしまうのだ。
(わざと、緩めている?)
エンツォが故意に呪文の威力を弱めているとしたら……
そう考えて、レオは頭を振った。
エンツォがリアを苦しめる理由がない。レオが見ていた限りでは、エンツォはリアに好意を持っていたように思う。無表情であまり喋らないエンツォだったが、リアには少し心を開いていたようだった。実際、リアはたまにエンツォから聞いた話をレオにも話してくれた。
それは、リアを油断させるための演技だったのだろうか。
レオに対する復讐の方法として、リアというレオにとっての最愛の人を利用する。リアを攫うために、リアの心に入り込んだだけ?
だが、リア自身をここまで傷つけて……確かに、レオはボロボロになったリアを見てつらいと思う。だからといってレオにとってのダメージはおそらくエンツォが望むものの半分にも満たない。
それともそうやってじわじわと追い詰めるようにやる方が、痛みが長引くと……それがエンツォの望みだというのだろうか。
どちらにせよ、エンツォが壊したい本当の人間は――
(俺のはずだろ?)
レオはリアの手をギュッと握った。
リアは、無関係だったはずだった。レオだけを、傷つければいいのに。エンツォが本当に求めるものは、一体何だと言うのだろう――…




