イサナのすくい
収監から七日が経ったが、彼女は本格的におかしな囚人だった。
まず第一に、要求がほとんどない。最初の要求以降に求めたものは、本が数冊と紙とペンだけだ。
完全に抜け殻と化してしまったケースならばともかく、まともに(見える)受け答えが出来るのに何も求めないことは今までの経験上、まずなかった。
正直なところ、この頃ぼくは表面には見せていないが、その内心ではおおいにうろたえ、完全に右往左往していたと言ってもいい。
恐怖から逃れるために快楽に逃げる者。
王侯を気取って目先の贅沢に溺れる者。
見境を失って八つ当たりに破壊する者。
その他、傍からは理解不能なものを求める奇人変人怪人狂人。
誰も彼も処刑を前にして眼を閉じ耳を塞ぎ、自己に籠って滑稽に踊り狂っていたというのに、彼女はまるで平静だ。
明日を恐れず、今日に溺れず、昨日を悔やんでいる様子でもない。死刑囚である現状に何の不安もないような態度は今まで見たことのないものだった。
朝目覚め、一般囚人用の質素な食事を平らげて、後は夕食まで軽い運動や読書。
飽きるとつれづれに絵や言葉を走り書きしてみたりして、たまにぼけっと天井を見上げ、ぼくに適当な話題を振ってくる。
名を忘れた歌。植物の種の味。かつて滅んだ王国。謎の尻尾。色のある風を見た思い出。美味い水の飲み方。そしてぼくと彼女のこと。
夕食はなぜかあまり食が進まない。大体三割ほど残して、それをもったいないからと言ってぼくに食べさせた。
後は睡眠。最初の日以降、ぼくと彼女は鉄格子で隔たった同じ部屋に眠っている。
実は三日前の夜、ぼくは『要求するなら檻の中で一緒に眠ることもできる』と言ってみた。
自分から要求を催促するような行為をしたことは間違いなく看守生活で初めてのこと。何も求めない彼女に対して、その欲望を知りたいという職務と関わりない個人的感情が言わせた誘いだった。
そしてその結果、何らかの害を受けることになるとは不思議と思わなかったのだ。
それに反してもしも彼女が嬉々として乗ってくれば、多分ぼくは「まとも」に戻れたのだろう。
「んー、いーよべっつに」
だが彼女の返答は、そんなことより眠いんだから邪魔スンナ。と言わんばかりで。
「こっちでもそっちでも、変わんないよ。今は一緒にいんだぜ、あたしたち」
だから何も問題はないと。幸せそうなあくびを残して、彼女は眠りに落ちていた。
ぼくが本格的に自身の変調を自覚しだしたのは、つまりこの夜からだった。
◆
「……起きていますか」
十日後の夜半、ぼくは鉄格子の向こうの彼女に声をかけた。身体は寝台に横たえたまま薄暗い天井を眺めている。
独房の窓からぼくの寝台にまで届く月明かり。夜空に光を放つ月の姿は金色に輝いているのに、なぜ地に注ぐのはこんなにも冴え冴えとした銀光なのだろう。
「……何さ」
少し間が開き、ぼくが寝ているのだろうかと思い始めた頃、微かな応え。
彼女は頭から被った掛け布から眼を覗かせ、こちらを見た。
珍しいな、と声をかけたぼくの方が意外に思った。彼女は毎日、一度寝付くと朝までずっとよく眠っていたのに。
「眠れないのなら、温かいお茶でもいかがですか。あと今日は夕食をあまり食べていないので、軽く何か用意しましょうか」
彼女はしばしそのまま、じっとぼくの様子を窺っていたが、やがて身体を起こす。
「食べるのは嫌。飲み物だけ」
ぼくは頷き、二人分のカップに茶を注いだ。ショウガとハチミツ、それから輪切りのレモンを浮かべて彼女に差し出す。
そして鉄格子越しに伸ばされた彼女の手が、ぼくの手と触れた。
「――あ、ああっ」
その瞬間、彼女が叫びを挙げた。誤って灼熱の炎に触れたように、手を引っ込める。
カップは床へと落下し、鉄格子の角にぶつかって砕ける。
中身も飛び散り、飛沫がぼくと彼女の服にもかかる。飾り気のない白い囚人服に、染み込むような痕が月明かりに浮かぶ。
それを意に介さず、彼女は床にへたり込み、そのまま身体を引きずるように壁際まで下がる。
「大丈夫ですか、すぐに始末をします」
ぼくは鉄格子の鍵を開き、独房の中に入る。この鍵が開いても、ぼくらがいるのは死刑囚用のフロアだ。外部はおろか、監獄からも封鎖されているので問題はない。
(本来死刑囚はこの区画は自由に動けるのだが、彼女は必要なしと断っていた)
「来るな――」
彼女は、怯えていた。
その姿にぼくは足を止める。囚人の希望は遵守すべしという理由からではない。今までずっと平然と牢獄での生活を過ごしていた彼女が、今更何に怯えているのか理解ができなかったのだ。
「どうしましたか、なにか問題でも……」
ぼくはその場に膝を着いて彼女に目線を合わせる。
「――死ぬぞ」
そこにあった眼には、底なしの殺意と、崩れかけの自制。
「夜のあたしに触れたら、皆死ぬんだ」
そう呟いて、彼女はさっきぼくに触れた手を抱え込んでいた。まるで勝手に飛びかかるその腕を抑え込むかのように。
「なあ、早く鍵を掛けろよお、じゃないとあたしはあんたを殺す」
震えながら、彼女はぼくに命じる。瞳からは、今まで見せたことのない、涙のかけらが零れ落ちそうになっている。
特事看守の禁則、その第三項。
「命を損なうことを許すことなかれ」。
これは基本的に、死刑囚の自殺と、看守自身への殺害を禁じる項目だ。
囚人に死刑を待たずに死なれてはいけないし、看守が死刑囚に殺されてもいけない。
死刑囚のあらゆる要求を受け入れる特事看守もこれに関わる命令は拒否できる。
逆にこの場合、ぼくは彼女の言う通り、身の安全を確保し、彼女を隔離しなければならないということでもある。
しかし。
「いいですよ」
ぼくは、その禁則を一顧だにせずに踏みにじった。
「お望みのまま、殺してください」
◆
そもそもぼくが特事看守になったのは、死刑囚の不様な醜態を眺めたかったからだ。
僕の母は十年前、幼いぼくの眼の前で通り魔に殺された。
あの日、ぼくを庇った母の背を刃で貫いた男の下卑た笑い顔ほど醜いものは見たこともない。母を殺しながら、その男は心底それを楽しんでいたのだ。
直後に警邏軍に捕らえられた男は死刑判決を受け、およそ半年後に死刑が執行された。
ぼくは、それを酷く悔しく思った。あの男がどんな顔で死んでいったか、この眼で見て、嘲笑ってやりたかったのに。
母を殺した男が顔を歪めて涙を垂れ流し、命乞いしながら死んでいくのを是非とも観賞したかったと。
そして成長したぼくは特事看守となった。あの死刑となった男の代わりに、やつと同じクズの死に様を見ることで、せめてもの代償としたかったから。
必死で勉学に励み、誰にも文句の付けようのない成績で国務官の資格を得て、迷うことなく特事看守を志望した。
周囲の人間からは狂人扱いされ、友人からも絶縁されたが、ぼくは構わなかった。
そして見た死刑囚たちの姿は、予想以上に滑稽だった。
いつ死刑の日が来るか、毎日びくびくしながらぼくに世間の動向を訪ねる姿は、人としての貴さなど欠片もない醜悪さ。
ぼくには、この死刑制度を考えた二百年前の執政官は、決して罪の浄化などを求めていたわけではないと断言できる。
彼は、怯え慄きながら屠殺される犯罪者たちの末路が見たかっただけなのだと。
特にぼくが気に入ったのは、己の罪から眼を逸らし、快楽に溺れ、当たり散らす彼らの様だ。
冷たい床に組み敷かれている時でさえ、その憐れみすら誘う不様さに、笑いを堪えるのが一苦労だった。
なんと汚らわしく醜い姿だと。
そして、『その時』が来ると、ぼくは決まって満面の笑みでこう言ってやるのだ。
「残念ながら、貴方とは今日でお別れです」
その瞬間の奴らの顔こそ、ぼくにとっては最高の見せ物だ。
それまでぼくが受けてきた屈辱も痛みも、全てがこのカタルシスに昇華される。
ぼくにとって特事看守は天職だと、心から思っていた。
◆
「でも貴女は、何も求めなかった。死刑に怯えもせず、快楽を貪ろうとすらしなかった」
ぼくは、へたり込んだままの彼女に語って聞かせた。ぼくがここにいる目的を。やっと見つけた彼女の衝動、それを見逃すなどあり得ない。
「貴女は殺したいのでしょう。ではどうぞ。その欲望に溺れてください」
殺すことしか望みが無いなら仕方がない。ぼくを殺して耽溺するがいい。
そしてそこから引きずり出されて、絶望の死に様を晒せ。
「その為なら、この命など惜しくはない」
死刑囚に安らかに死なれるなど、それこそ死んでも我慢がならない。
「……お前は」
「呼び方が変わりましたね」
笑い、動かない彼女との距離を詰める。
彼女は眼を見開いて、ぼくをじっと見ている。何を思っているかは知らないが、その手はまだ殺意を宿して蠢いているのだから浅ましい。
そっと手を伸ばし、彼女の頬に触れる。さっきは接触が切っ掛けとなった。ならばこれで駄目押し。
「さあ――」
直後、牙を剥くように覆いかぶさる彼女の身体を受け止めて、ぼくは限りない満足感とともに眼を閉じた。
……。
……。
……。
「――え」
何時まで経っても何の痛みも感じないことに気付き、ぼくは眼を開ける。
「……辛かったな」
その眼に映る、涙を流してぼくを抱きしめる彼女。
「狂った人間に呪われて、お前はこんなところに来てしまった」
「……なに、を」
呆然と、声から疑問が流れ出る。
何をやっている。
貴女はぼくを殺すのではないのか。
なぜ、ぼくがあなたに憐れまれる。
「憐れなのは、貴女の方でしょう――」
ぼくの言葉に、彼女はゆるゆると首を振る。
「あたしは、憐れなんかじゃないよ。同情の余地なく愚かな、穢れそのもの」
そして、彼女はぼくの額に唇を落とす。
「でもお前は、そんな愚かなものに歪められて、穢れに落ちてしまった」
教えてやるよ、と彼女は囁く。
「お前はあたしが望みを言わないと思ってたみたいだけど、それは間違い。あたしは自分の欲しいものはちゃんと言ったよ」
「そんな筈は……」
彼女は、ロクに物も行為も求めなかった。貧相な食事や紙とペンなど、どうでもいいようなものばかり、そして後は――。
「あたしの傍で、寝て欲しい、いつも一緒に居て欲しいって――最初に頼んだじゃないか」
彼女は、静かにそう言った。
「夜を、生きた誰かと過ごせるなんて、あたしにとっては夢のような時間だった」
だから、自分は満足し、十分快楽に溺れていたのだと彼女は言った。
ぼくは何も言えない。まさか、そんなささやかなねがいをする人が、この独房にやって来るなど思いもしなかった。
「今日は、朝まで一緒に夜を明かしてくれないか。こうしていれば、少しだけ気が収まるから」
囚人にそう頼まれては、看守のぼくに拒むことはできない。
ぼくと彼女。二人はそうして朝まで重なり合って、言葉と心を交わし続けた。
◆
その夜からおよそ三カ月、ぼくと彼女は独房の中で生活を共にした。
ぼくは最低限の物資の受け取り以外、常に彼女の隣で過ごした。
とは言えやっていることはそれまでと変わらない。とりとめもない話をして一日一日を過ごしていくだけだった。
ただ時折、お互いの手や髪、他のどこかに触れ合うことだけが変化と言えは変化だった。
今までの人生の出来事を包み隠さず交換して、その時のぼくと彼女は、ひと続きの命になっていた。
朝は一緒に眼を覚まし、昼間を静かに笑いさざめきながら埋めて、夜は互いの熱を近くに感じて眠りに落ちる。
どちらがそれを望んだのか、そんなことはどうでもいい。ただぼくらにとってそれは完全に満たされた日々だった。
そして、そんな日々も当たり前のように終わる。
新たな、死刑囚の訪れとともに。
◆
「今日が最後か……」
彼女は、そう言って淡く笑う。目前に迫った死を、ただ当たり前のものとして受け入れたものの顔で。
「……」
ぼくは何も言わない。言葉にしなくとも、分かっていた。ぼくが彼女にできることはもはやなく、彼女もこれ以上は望んでいない。
ただ――。
「今夜はまた、エイと一緒に夜を明かしたい」
その夜のことは、ぼくは生涯忘れないし、また誰に語ることもないだろう。
ぼくと彼女だけに許された最後の時間は、ただ静謐に閉ざされて消えていくことこそ相応しい。
翌朝、彼女は独房を出て、ぼくの前から永遠に去って行った。
◆
彼女の名はイサナ。
罪状は、殺戮罪。
その殺害数は十五人。死刑制度成立以後、四番目に多くの人を殺めた連続殺戮犯だった。
この凶悪性から裁定官は全員の合意により死刑を決議。
被害者の数に合わせ、十五丁の斧によってその身を断たれ、処刑された。