エイと奇妙な囚人
その日、空の独房の前で、ぼくは「その人」を出迎えた。
「囚人番号、イ‐001341号。収監いたします」
「囚人番号、イ‐001341号。収監確認しました。ご苦労様です」
護送して来た「ただの看守」から引き継ぎを終了したぼくが所定の席に着くと、すぐに「その人」は声を掛けてきた。
「なああんた、ずっとそこにいんの」
今回は「珍しい」方の囚人か、と、ぼくは少しだけ思う間を置いた。
よくあるのは、しばらく呆然としているか、さもなくば辺り構わず暴れわめき散らすかだ。ひたすら泣き続ける者もいる。こうして会話が成立するのは、つまり変人だということだ。
そんな考えを欠片も面に出さず、ぼくは笑顔で返答する。
「ええ、基本的にこちらで待機することになります。もちろん目障りでしたら他の部屋に移動しますが……」
「あー、いいよ別に。ってか、あたしにケーゴ使うなよ。死刑囚だぜ、あたし」
『その人』――彼女は、一見して大罪を犯した凶悪犯とは思えないほど、泰然としていた。
特別美人というわけでもないが、醜いわけでもない。
ただ、すっきりしたショートヘアに良く似合う切れ長の瞳は印象的で、魅力を感じる男もいるだろうと思う。
だがぼくもそれなりの数の死刑囚を見てきた身だ。食事のメニューを決める感覚で殺す相手を選ぶような壊れた人間がいることは理解していた。
「存じ上げております。だからこそ特殊事犯保護看守のわたくしが応対しているわけですので……申し遅れました。わたくしが、イ‐001341号さまを担当させていただく看守です。エイとお呼びください」
マニュアルを適当に組み込んだ返答に、彼女は、はーっと息をついてみせる。
「たく、変な話だぜ。罵られながら牢にぶち込まれてみたら、変な看守がへりくだってきやがる」
「死刑囚制度を御存じなかったのですか」
意外に思って聞いてみる。この国の国民が、この制度について知らないというのは不自然だ。
「この国に死刑囚は一人だけ。死刑の判決が新しく出ると、その一個前に死刑判決喰らったやつの死刑が執行される。だろ」
「簡潔な御理解ですね。ほぼ正解です」
同時に、彼女が少し古い認識でこの制度を理解していることが察せられた。
確かに、死刑制がこの形に改正されたのと、ぼくらのような「特別な看守」が出来たのは別の時期だ。
こうした内情は、普通は事前に減罪官(※弁護士のようなもの、ただし国家公務員)からの説明があるものなのだが、恐らく聞き逃したか、そもそも聞く気がなかったか。
とにかく、自身の職務を説明するのも仕事の内である。ぼくは気を取り直して説明を始める。
「先ほど仰られたとおり、この国には死刑囚という存在はたった一人しかいません。――今は貴女がその一人ですね。では、貴女が死刑判決を受ける前に居た死刑囚はと言うと、ついさっき、刑が執行されたところです」
言わばこれは罪の玉座だ。
新たに死に値する罪を戴冠したものが現れれば、旧きものはその座を追われる。
「二百年以上前に制定されたこの死刑制度の変わったところは、新たに死刑囚が出ない限り死刑は行われないということですね」
逆に言えば、たとえ死刑判決の翌日に新たな死刑囚が発生しても、即座に刑は執行されるのだ。
最長記録、十一年と十カ月。最短記録、三十四分。
双方極端な例だが、一つの制度内でここまでの差が出ることがあるのは事実だ。
「外界との関わりを断ち、いつ来るかもわからない死の時に怯えながら震えて過ごせ。『どうか自分のような罪深い存在がもう生まれませんように』と、天に祈って懺悔しろ。そんな呪いが込められていると、この制度に賛成する人も反対する人も、口をそろえて言いますよ。正反対の表情で」
彼女はふん、と息をついた。
「この制度を作ったヤロウは、中々ぶっ飛んでたらしい。改めて、そう感じるね。思いついても実行しねえだろう。てめえの悪趣味世間様に見せびらかすようなもんだ」
それこそ世間話だ、とぼくは思った。その悪趣味の渦中に放り込まれた自らを大した問題でもないと言いたげだ。
罪悪感を一切感じないという種類の手合いだろうか。確かにぼくが今まで担当した死刑囚の中にも、最期まで自分が為したことが罪だと感じることができないものはいた。
しかしそうしたものも、死刑宣告を受けた自分の現状に、不満なり自嘲なりの反応は見せたものだ。それに比べて、彼女のまるで他人事のようなこの落ち着きはどうだろう。
「で、『ほぼ』正解ってことは、残りの部分があるってことだろ。その、特殊ナンタラってやつ絡みで」
そう水を向けられてやっと、ぼくは説明も忘れて自分が彼女をじっと見つめていたことに気づいた。
動揺を押し隠して話を戻す。囚人の態度がどうでも、ぼくは自分の仕事をすればいい。
「……まあ、そうですね。要するに、上から目線で『さあ怯えて懺悔しろ』なんて言われて素直に従う人ばかりではなかったわけです」
ある者は舌を噛み、地面に頭を叩きつけ、ある者は精神の殻に籠り、外部の一切を拒絶した。
それぞれの方法で、『悔い改めてたまるか』と、命と心を捨ててでも呪いに抗う者がいたのだ。それも無視できない数が。
過度のストレスに満ちた境遇は人の心を折る一方で、異常な反発も同時に呼び起こしたわけだ。
これはつまり。元々死刑になるような連中には、どんな悪趣味でも所詮『普通の側の人間』が考えた常識や想定が通用するはずもなかったという、ある意味当然の結果でもあった。
「そこで、死刑囚には、正しく死刑執行に殉じてもらうためという名目で、特殊事犯保護看守、通称『特事看守』が付くことになったそうです」
そう言って自分を示す。対して彼女は胡乱気な眼でぼくを眺める。
「で、なにすんのさ、あんたは」
ぼくの仕事、それは――。
「なんでもですよ。一部の禁則以外は、可能な限り死刑囚の要望に沿うことがぼくの仕事です。お望みならすぐに天蓋付きの寝台に一流料理店の晩餐、最高級の葡萄酒を手配できます。さらに宝飾品や美術品、薬物の類でも取り寄せられます」
沈黙。まあ確かに、ぼくらの仕事を知らなければそんな反応にもなるだろう。
「んー……悪いけど意味がわからん」
彼女の表情はまるで酢を飲んだと思ったら甘かった、というような感じだ。ぼくは謹直を装ったまま、詳しい説明を続ける。
美食や贅沢を望めば、豪奢な内装を整えて山海の珍味を供する。
暴力や不満の捌け口を望めば、その身を砂袋として拳を浴びる。
もっと暗いおぞましい望みでも、ぼくらは甘んじて叶えるのだ。と。
死刑囚の望みを全て叶える。それがぼくたち『特事看守』の仕事だ。だから。
担当囚人の脱獄を許すことなかれ。
第三者との接触を許すことなかれ。
命を損なうことを許すことなかれ。
命を増やすことを許すことなかれ。
そして、その罪を許すことなかれ。
「この五カ条に反すること以外は、なんであれ叶えます。国家の力をもって」
そして、死刑囚を耽溺させる。
彼ら彼女らの反骨心を、折るのではなく、融かして崩して腐らせるのだ。
「……なんつーか、最初の建前からずいぶんおかしな方向に歪んでんな。死刑囚を生かすために金と手間暇つぎ込むなんざ、本末転倒だろうが」
明日の恐怖を、今日の快楽で麻痺させろ。そこにはもはや、昨日の懺悔はないけれど。
「死刑囚を裁く制度が、死刑囚によって機能不全に陥った。それは、制度のみならず、司法の、国家の敗北である。ということらしいですよ。国家運営が犯罪者に阻害されることは、あってはならない、と」
国家の事業となった以上、制度の目的を無視してでも、制度そのものは実行されねばならない。たとえ、犠牲を払う手段を執ったとしても。
彼女はしばらく、与えられた情報を吟味するようにじっと黙ってぼくを見ていたが、やがて口を開いて言った。
「あんたは、それでいいわけか。死刑囚の召使いなんぞやってて」
「――」
ぼくは、思わず笑ってしまいそうになった。
それなりの数、死刑囚の相手をしてきて変人にも慣れてはいたが、流石に自分の立場まで気にしてくれるような人間はいなかった。
今回の囚人は、特別おかしい。
「お給料はいいですよ。国勤めでぼくらより高い月給貰える役職は多分片手で数えられるくらいです。ここの生活にかかるお金や、怪我や病気した時の医者も世話してくれます。おまけにうるさい上司もいません」
逆に言えば、そんな待遇を用意しても、彼女の言うところの「死刑囚の召使い」などという仕事をやろうという奇特な者は中々いないのだ。
実際、一度務めて、二度と社会復帰できなかった者も様々な形で存在するらしい。
ある者は手足を失い。ある者は精神を病み。ある者は自身が死刑囚となって檻の内側へと移った。
「では、説明はこのくらいで……どうしましょう。今日はもう日も暮れますし、今日中にご用意できるものは限られるのですが、今のうちにご要望があれば、大抵の物は明日には手配できますよ」
さて、どんな要求が来るか。
ぼくは心の中で身構える。大体において、死刑囚が望むものなど、突飛すぎて予測不能なのだ。
実際、以前ある女性死刑囚には、丸一日ひたすら逆立ちさせられ続けたこともある。あれは今もって完全に意味不明だ。死ぬかと思った。
そして。
「あんたは、ずっとそこにいるわけ」
……何故か、最初の質問に戻った。
「ええ、基本的にはここで待機です。諸々の手配などで席を外すこともありますが」
「休みとかは」
「イ‐001341号さんがいらっしゃる間は基本的にありませんね。複数の特事看守がいますので、死刑囚ごとに交代することになります。他の人の担当囚人がいる間は丸々休みですので御心配なく」
「じゃあ寝る時はどうすんの」
「奥に宿泊室がありますので、そちらで休ませていただくのが普通ですね」
さっきからぼくに対する質問ばかりで要求がない。流石に妙に感じていると。
「そこで寝て」
「え」
妙な事を言われて固まる。
なんだそれは。お決まりのアレな要求かとも思ったがどうもおかしい。
「だから、そこに寝るモン持ってきて、寝泊まりして。それが要望」
「……かしこまりました」
どうにか返答したのは、ぼく自身今まであるとも思っていなかったプロ根性というやつだろうか。
「うん。あとはいいや。今日はもう寝る。あんたも適当によろしく」
「あ、はいよろしくお願いします」
おやすみっ、と言い置いて、さっさと彼女は用意されていた簡素な寝台に潜り込んでしまった。
「……おやすみなさい」
無意識に挨拶を返しつつ、ぼくはしばし宙に眼をやった。
そして思い出したように、自分の寝具の用意に取り掛かったのだった。