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「大芽さん、二人目が出来たらしいですよ」
低く、もっと聴きたいと思わせるほど耳に触りがいいのに、抑揚のない声。世間話をするように何気なく告げられ、私は読んでいた本から顔を上げた。
声の主に目を向けると、スーツ姿の男がパソコン画面から目を離さないままキーボードを叩き、時々マウスを操作している。
私は壁際に置いた座椅子に座っていて、パソコン男は反対側の壁際に設えた机に向かっている状態。十二畳のフローリング部屋。そのほぼ端と端。ここまで離れていると、液晶ディスプレイが何を映しているかなどこちらからは見えない。また、興味もない。どうせ、私に関する報告書をしたためているか、株の動きでも見ているのだろう。買う時期と売る時期を見逃さない彼は、株で一財産を築くほど儲けているらしい。
こちらに向けたまま動きそうにない後頭部に向けて、返事をした。
「マンション? 一軒家? どっちに」
「一軒家の方です」
画面の方に気を取られているのか、おざなりに答えられる。マウスを何度かクリックし、やっと神崎さんは私の方へ振り返った。
髪は、いつも通り一筋の乱れもなく後ろへ撫でつけられている。筋肉が凝り固まっているのではないか、と邪推してしまうほどの無表情が破顔したところなど、もう四年の付き合いになる今でも見たことがない。顔立ちが整っていることで余計に硬質に感じられ、家政婦の沢村さんたちが密かに『仮面男』と名付けていることにも納得がいく。唯一の動きを見せる口が、淡々と言葉を紡ぐ。
「マンションの方はもう男の子を産んでますからね。これ以上体型を崩したくないでしょうし、第一あそこの方は子育てを楽しむタイプではないでしょう。もうしっかり避妊しているんじゃないですか? 対して一軒家の方は女の子だ。焦りもあるでしょう。男女平等の世の中とはいえ、まだまだ跡継ぎは男だという風潮が根強い」
「そう……。では、今度は男の子だといいですね」
「おや、余裕だ」
神崎さんが、皮肉るように口の端を持ち上げる。情を感じさせる面持ちは作らないくせに、この人はあらゆる意味で、口だけはよく動かす。
何を今さら、と私も唇を歪めた。
「だって、私には関係ないもの」
「妻はあなたなのに?」
「戸籍上の関係だけを指すならそうなんでしょうね。実質的なことを言えば、あちらの人たちの方がよっぽど奥さんらしい」
会社関係、取引先で開かれるパーティーや公の場に、私は一度も出席したことがない。大抵が妻同伴で招待される華やかな席には、いつも秘書と称する女性が大芽の隣に寄り添っていた。外聞がいいとはとても言えないこの行為も、妻が病弱という説明がつけばすんなりまかり通る。真実が違っていたとしても、公式に発表されたことが事実として認識されるのは、世間一般の常識というやつだ。時々送り届けられるお見舞いの花や果物に、複雑な感情を抱けていたのは最初の頃だけだった。
私が古谷姓になって六年が経つ。
大芽が私に向けるのは、好きな人を理不尽に奪われた悲しみに伴う憎悪。私が大芽に向けているのは、一方通行な愛情と執着。
当初は、例え感情が交わらなくても一緒に生活していくことで、大芽の心を徐々に溶かしていくことができるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。なんだかんだといっても人間は、傍近くいる者に対して情が芽生える。夫婦としての時間を重ね、やがて子供が生まれれば、いつかは普通の家族としてやっていけると思っていた。まあ、ただの願望にすぎなかったのだけれど。
そんな甘い考えは結婚当日の夜、初夜から微塵に打ち砕かれた。ホテルの部屋に戻ったのは私一人で、大芽は一晩中、それどころか朝になっても姿を現さなかった。半ば予想したことではあったものの、式で交換した薬指の指輪を眺め、涙が滲むのを抑えきれなかった。
古谷家に帰った後、その夜を彼が他に付き合っている彼女と過ごしたと教えてくれたのは、家政婦の沢村さんだった。沢村さんは、大芽が小さい頃から面倒を見ていた。同じ家に寝起きし、食事を整え、衣服を洗濯する。ずっと大芽の成長を見守ってきた沢村さんからすれば、彼は我が子も同然だ。その大芽が大好きな女の子だと言って連れてきた史織ちゃんは、可愛らしく気立てもよくて、沢村さんも一目で気に入った。二人の間を心から祝福していた。
史織さんを死に追いやった私をどう思っているのか。初夜を共に迎えるはずの妻を無視した大芽を別段咎める風でもなく、なんでもないことのように告げる沢村さんを見て、これから先の生活に不安を覚えた。その後、端々に棘を含ませる口調で案内された部屋を目にして、もしかしたら、とさらにいやな予感に襲われた。
六畳間に慣れていた身としては、破格に広く贅沢な部屋だった。十二畳の居間スペースにはソファや机、大型液晶テレビ、丈の高い観葉植物など、明らかに安物ではない家具がちゃんと備えられている。部屋の奥、両側には中央の空間を大きく残して壁がせり出し、それを仕切りとして一段下がり、さらに奥にも広い寝室スペースが広がっていた。ウォークインクローゼット、それからバス・トイレへと続く二つの扉が設えられている。
広い部屋、広いベッド。それなのに、個人の所有物はあらかじめ送っておいた私一人分の物しかない。隙間の目立つクローゼットには女物の衣服、小物類だけ。洗面所には、ひげ剃り用カミソリのひとつもなかった。
日々は、拍子抜けするほど平凡に過ぎていった。どんなに辛辣な扱いをされても耐えようと思っていた。大芽は史織ちゃんと同じ扱いを期待するなと言っていた。だから彼が向けてくる態度や言葉がどれほど冷たくても、怒ったり取り乱したりはするまいと心に決めていた。事実、私という婚約者がいるのに他の彼女を作っても、こちらから口出しはしなかった。その事実を知って憤慨していた弟のシンもなんとか宥めておいた。
けれど婚儀の後、大芽は徹底的に私を放置した。古谷家はいくつかマンションも所有しており、大芽は普段そこで生活した。結婚したとはいえ学生の大芽は、まだこの頃は愛人を囲ってはいなかったようだ。なんにしろこちらに帰ってくるのは週に一度あるかないかくらいで、それも沢村さんに顔を見せる程度だった。
大芽が私の処遇をどうするのか、それをはっきり思い知ったのは、式を終えてから十日後のことだ。
私の部屋は二階にある。玄関からの空間は吹き抜けになっており、庭に出ようと部屋の扉を開けると、盛り上がる弾けたような声が聞こえてきた。
どれほど憎まれていたとしても、この声を聞くと無条件で心が浮き立つ。手すりを伝って移動し、玄関が望める位置から見下ろすと、大芽と沢村さんが笑い合っていた。大芽は沢村さんの向こう側、私から顔が見える位置に立っている。
「もう行ってしまうんですか? せめてお昼でも食べていってくれればよろしいのに」
「うん、ごめんね。この土日、お父さんについて出張に行ってたんだ。お父さんはそこからまた別の出張先に行ったけど、僕は明日外せない講義があるからね。もうくたくた。こっちの方が若いのに、お父さんのバイタリティには頭が下がるね、本当に。あっちの家に帰って寝ようと思って。お土産だけ沢村さんに届けにきた」
みんなで食べて、と大芽がお土産入りの紙袋を沢村さんに渡す。バームクーヘンで有名な、関西にある店のロゴがプリントされていた。ふと、大芽がこちらを見る。目が合う。鼓動が強くなった。
手すりを掴み、身を乗り出して声を上げようした途端、何事もなかったかのようにすいと顔を逸らされた。
「大芽!」
咄嗟に声を張り上げても、反応して振り向いたのは沢村さんだけだった。
「じゃあ、また様子を見にくるね」と大芽が手を上げて出ていこうとする。彼の反応を特にいぶかしがる様子もなく、沢村さんが顔を戻す。
「昔のように、大芽さんがこの家にいらっしゃればよろしいのに」
不満げな沢村さんの背中が、お前の方が出ていくべきだと訴えているようで、いたたまれなくなった。
大芽はなだめるように沢村さんの肩を叩き、「また来るよ」と言い置いて行ってしまった。
それ以降も、大芽は私を見ても、背景に溶けこんだ置物か何かを目にしたように視線を留まらせない。意を決してかける言葉は、添え物のBGMのように彼の中を通り過ぎた。いないものとして扱われた私はまるで幽霊のようで、そんな存在に大芽が指一本触れるわけもない。かつては再会を懐かしがってくれていた沢村さんも、必要以上に関わりを持ってはくれなかった。
私はそれほど気が弱い方ではない。けれど、人を形成させるのに大きな役割を持つのは環境だ。自分を好く見てくれる人がいない場所での生活は、私から外交に必要な積極性をそぎ取っていった。待遇に抗議する意気はそもそもから持っていない。私は段々、この家の中で誰かを見かけるたびに、緊張するようになってしまった。
ある意味罵倒され続ける日々よりも希望がない日常に、否応なく慣れてしまうしかなかった。
結婚に際して仕事はしないでほしいと言われた私は、内定をもらっていた会社に断りをいれていた。本当は働きたかったものの、負い目も後押しし、大芽の有無を言わせぬ態度には逆らえなかった。辞退の理由として古谷家の系列企業に受かったと告げると、相手方にも納得してもらえた。そのあっさりした様子に私の変わりはいくらでもいるのだな、と世間から取り残されたような気持ちが湧き上がり、次いで何を勝手なことを、と自分を戒めた。
家事は全て沢村さんたちがしてくれる。沢村さんが教えたのか、家に来る他の家政婦さんにも良い印象を持たれていない私は、もちろん手伝いもさせてもらえない。特に手慰みな趣味も持っていない私は本を読んだり庭や近所を散歩すること以外で時間を潰せず、暇を持て余していた。友達に連絡をしようにも、普通、平日の日中は皆忙しい。家族の顔を見ると弱音を吐いてしまいそうで、実家にも近寄れずにいた。
古谷家の一員として金銭的な不自由をさせるのは体裁が悪いと思ったのか、ひとつきに七桁程度の買い物なら余裕でできるカードを渡されてはいた。気晴らしに思いっきり買い物をしてやろうと思い立ったものの、生来の貧乏気質が邪魔をして何も買えず仕舞いだった。以前は次々新しい洋服や化粧品が欲しくなっていた。でも、新しい服を買っても見てくれる人はいない。一緒に出かける相手もいないのだから、着ていく先もないのだ。無駄に終わると思うと買う意欲も削がれてしまった。お金を遣うにも、才能がいるらしい。
大芽のお父さんは社長という立場もあってやはり多忙を極め、ほとんど家には帰ってこない。帰ってきても私の方が顔を合わせ辛く、なるべく接触は避けていた。それでも結婚して数ヶ月経ったある日、一度何かの折りに玄関口でバッタリ出会い、そのまま会話したことがあった。
おじさんは、私の顔をひと目見るなり眉尻を下げ、元気がなさそうだと言った。
「瑞穂ちゃん、私は史織さんが亡くなったのは瑞穂ちゃんのせいだとは思わない。責められるのは私の親父であるべきだろう。まだ大芽には整理がつかないだろうが、あの子の癇癪に付き合う必要はないよ。親父の分まで君が背負い込むことはない」
おじさんは、言外に離婚を勧めていた。家にいない割にどうやって知ったのか、私たちの冷え切った関係も分かっているようだ。ひょっとすると、こうなることは予想済みだったのかもしれない。結婚前も、本当にこれでいいのかと確認を取られたことがあった。
なじろうとしない提案に、飛びつきたくなる。
私だって、悪いのが全て自分だなどと、驕った考えを持とうとは思わない。無理矢理私と大芽をくっつけようとしたお祖父さんにも問題はあるし、理由はどうあれ今の大芽の所行は如何なものかと思う。
私はおじさんの提案に、「でも」と答えた。
私が大芽のことを好きにならなければ――いや、それは自虐過ぎるか。せめてあんな最悪なタイミングで告白なんてせず、さっさと玉砕していれば、こんな風にこじれることはなかったのではないか。堂々巡りな考えは、ずっと私の根底にくすぶり続けている。
「やっぱり私にも責任があると思うから」
そう言うと、おじさんは困ったように息を吐き、携えていた鞄を持ち直す。
「このまま続けるのが二人にとっていいことだとは、とても思えないんだけどね。大切な娘さんを辛い目に遭わせて、瑞穂ちゃんのご両親にも申し訳ない」
「私はもう成人しているし、自分で決めたことだから」
諭そうとするおじさんに首を振って、言い添えた。
「それに、まだ結婚して一年も経ってないでしょう? そんなに早く離婚させないで」
面立ちは異なるのに大芽を連想させる顔が、目が、私を気遣おうとする。そこにいる、と私を認識して映し出している。
これが彼ならどんなにいいだろう。どうしても、そう思ってしまうのだ、私は。
結局おじさんは諦めたように微笑した後、「困ったことがあったらいつでも言いなさい」と残して会社へ向かった。この家でも完全に一人なわけではない、と少しだけ心が軽くなったような気がした。
とはいえ徐々に、私は必要な時以外は部屋に引きこもるようになった。トイレも風呂も部屋に完備されている。食事は運んでもらえる。終わればトレイを外へ出しておけばいい。テレビに映し出される番組を漫然と眺め、雑誌や本をパラパラめくる。時々店に出向いては、本やDVD、ブルーレイを買い込む。店員が投げかけてくる、「ありがとうございました」というお愛想の言葉や笑顔だけが、生身の人間と交わす温度のあるやりとりに感じられた。
食事を運んでくれる沢村さんが呟く「いいご身分で」。掃除に来てくれた業者さんが興味なさげにぶつけてくる目線。その全てが、怠慢に生きる私を役立たずと蔑んでいる。私も自分自身に同じことを思っていた。
大体の人間は、他者のために何か役割をこなしているものだ。そうして、存在意義を確認する。生活するための仕事。その仕事も、社会のためになっている。家族のためにこなす家事、学生は将来のために勉強する。何もできない赤ちゃんでさえ、親の原動力になっている。
私は大芽の怒りを受け止めるために結婚したつもりだった。もちろんそれだけではなく、大芽に向けた恋心もあった。
でも、今の私は何をしているんだろう。ここにこうしていることが、本当に大芽のためになっているんだろうか。
ふとした疑問が湧くごとに、おじさんに大見得をきっておきながら何を? と思い直し、かぶりを振って胸の奥に押し込めた。