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声音が静かな分、視線が険しくなっているような気がした。黙ったままの私に、自分のしでかしたことを思い出せというように、大芽が追撃の言葉を投げかける。
「確約の言葉を引き出したわけでもないのに、なんでお祖父ちゃんが諦めたって分かったの?」
「なんでって」
口ごもりながら、なんとか声を引っ張り出した。
「お祖父さんの反応とか、雰囲気とか……」
「雰囲気?」
お話にならないな、と大芽が吐き捨て、目線を私の脇へ薙ぐように移す。豹変した大芽の様子に私は混乱した。育ちの良さを表すように、いつも態度の柔らかかった大芽。初めて見せられた一面に動揺して、心臓が早鐘を打つ。
「何が言いたいの?」
「ミズさんさ、就職内定もらってるのって、事務職だったっけ? よかったね、営業じゃなくて。商談の席で反応や雰囲気がいいから、なんて安心してたら、どこかで足元掬われるよ」
大芽は大学で経営学部に籍を置いている。そして時間が許す限りおじさんやお祖父さんについて、実務も習っていた。ウエイトレス程度のバイトしか経験のない私よりは、余程駆け引きめいたやり取りを解っているんだろう。けれど年下に、しかも人当たりがよかった大芽に出来が悪いと指摘されたようで、ムッとした。
正直に口元が固くなってしまい、私の表情を見た大芽が愉快だと言わんばかりに顔を歪める。
「怒った? でもね、ミズさん。ミズさんにとっては優しいお祖父さんでも、あの人は経営者だ。会社を興し、元の何倍もの規模に成長させた敏腕のね。ミズさんに悟られないように取り繕いながら、自分の思い通りに事を進めるなんて、朝飯前だと思わない?」
「お祖父さんと私のやり取りを、商談と同じにしないでくれる? 会社でのお祖父さんがどういう顔の人だったかは知らないけど、私に見せてくれていた姿は、その場しのぎに騙して人の気持ちを無下にするような不誠実者じゃなかった」
「僕の気持ちは無視していたのに?」
恐らくはお祖父さんに抱く敵意も加え、大芽の目が真っ直ぐに私を射貫く。庇うなら、私も同罪だというように。
「そもそも、お祖父ちゃんが人の気持ちを尊重してくれるような人だったら、僕がミズさんに口添えを頼む必要もなかったと思わない?」
それは違う。お祖父さんには、お祖父さんの考えがあった。でも、あの時の言葉を伝えたところで、大芽に届くかどうか。大体、さっきから大芽はどうしてこんなに私やお祖父さんに腹を立てているような発言を?
まだ続けようとする大芽を遮るように、無理矢理声をねじ込んだ。
「大芽が何を言いたいのか全然分からない。一体お祖父さんがどうしたっていうの? どうして亡くなった人をそんな風に悪く言おうとするの? 大芽、お祖父さんのこと、好きだったじゃない」
「史織の家に」
ふっと力を抜いたように大芽が表情を緩めた。
「昨日、史織の家に行ったんだ。葬儀の時はゆっくり話す暇がなかったから、改めて。史織のお母さんが、変なことを言ってた。あの日、ミズさんがここへお祖父ちゃんに頼みに来てくれた日、史織のお見舞いに行ったらしいんだよ」
「……誰が?」
「お祖父ちゃん」
無表情に淡々と落とした大芽の言葉に、愕然とした。あの日の会話を思い出し、心の中心を冷や水で包まれたような心地がして両手で肘を抱き締める。あの日の晩、史織ちゃんは発作を起こしたという。
容態は安定していた。
そんな兆候はなかった。
電話の向こう、取り乱していた大芽の声が頭を駆け巡る。
大芽が、さっきから私とお祖父さんを責めている理由。
私が大芽をどう思っているか、お祖父さんは看破していた。
そのお祖父さんが、史織ちゃんが発作を起こしたその日にお見舞いに行ったという意味。
それは。
「お祖父さんが、史織さんに、告げたと言いたいの?」
私は躊躇いながらとつとつと、非情を意味する言葉を作った。
大芽は冷たいほどに表情を変えない。端正な顔が、氷像のように動かない。
「私という婚約者がいるから、別れてくれって……?」
お祖父さん、そうだったの、本当に?
分かってくれたんじゃなかったの?
「沢村さんが――あの日、別れ際にお祖父ちゃんは言ってたらしいね。やっぱり、ミズさんの方がいいって。沢村さんはそう聞いたらしいけど?」
「違う。大芽、違う」
無我夢中で肘掛けを掴み、腰を浮き上げた。無垢材のフローリングを踏みしめ、中腰姿勢のままで言い募る。
「あれは、お祖父さんのあの言葉こそが承諾の印だった。あれはお祖父さんの」
――諦めの言葉だった。
「何が承諾だよ!」
私に最後まで言わせず、声を荒らげ、勢いよく大芽も立ち上がる。
「誰が聞いたって決意表明だろうがよ。結局はあのジジイが自分の思い通りにことを運ぼうとして、史織を殺したってことだろうが!」
「違う、違う! 例えそうでも、お祖父さんのせいじゃない!」
肘掛けに手を置いたまま、なんとか彼に届くように叫ぶ私の態度にカッとなったように、大芽が大股に距離を詰めてくる。リビング並みに広い部屋、近い位置で話していた私との距離は二歩分。中途半端な姿勢の私より頭一つ以上高い、怒り心頭といった大芽の顔を見上げる。
「私が……」
これはお祖父さんではなく、私が蒔いた種。
覚悟を決め、ゴクリとつばを飲み込んだ。
「私が大芽を好きだって知ったから」
大芽が目を見開く。
勢いのままに、私は喋り続ける。
「諦めようとしていることを察してしまったから。だからお祖父さんは……」
きっと、私を不憫に思って。
終いまで言い切れず、語尾が掠れた。目は感情の窓。見上げる大芽の目が、尖っていく心を表すように細くなっていく。
「なんだよそれ」
必死で押し殺しているような声が聞こえた。
視線で穴を穿たれそうなほど鋭いのに、向かいにある瞳が悲しく揺れている。
ごめん、大芽。これは手酷い裏切りだ。
今、私は大芽を傷つけた。
「なんだよそれ! あんた、何言ってんだよ。知るかよそんなの。じゃあ何か、史織が死んだのはあんたのせいってことかよ」
両肩を強い力で掴まれ、揺さぶられた。拍子に背筋が伸びたけれど、まだ大芽の方が身長は高い。肩に痛みを覚えてもそれを感覚として捉える余裕はなく、すぐ上にある顔がどんな表情をしているか知りたくなくて、下を向いた。
「今こんな状況で告って、それで僕にどうしろっての? だったら仕方ないとでも思えって? ――なんとか言えよ!」
私を激しく責めている大芽の声が、泣いているように聞こえる。何を言えばいいんだろう。どんな謝罪を口にすれば、大芽は私を許してくれるんだろう。どれほど償おうと、時間は元に戻らない。史織ちゃんという穴は、大芽の胸に開いたまま。
その穴を最悪な形で開けてしまい、なお冷たい風を送り続けているのは、昔を引き摺り、驕った考えで大芽を騙し続けていたこの私だ。
突然、掴まれていた肩を押され、私は椅子に放られるように座らされた。一瞬、息が詰まる。視界の端に、大芽の手が肘掛けに置かれるのを捉え、訝しい気持ちと共に、上を向いた。
心臓が跳ね上がる。目の前、すぐ近くに大芽の顔があった。咄嗟に顔を引くと、背もたれに後頭部が当たった。大芽に閉じ込められている状態に、こんな時だというのに胸が持ち上がっていくような高揚感を抱く。そう自覚し、自分の中の冷静な部分が呆れ果てていた。
私の様子を無感動にじっと観察していた大芽が、冷淡に口を歪める。
「ミズさん。もしかして、ドキドキしてる?」
ここまで温度の低い声で名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「大した根性だよね。案外、史織が病気で死ぬのを待ってたんじゃないの?」
違う、と口を開けたのに、喉で絡め取られたように声が出なかった。凍りついた大芽の瞳が、許してくれない。
「思い通りになって、やったって思った? 僕を慰めるフリして、本心では喜んでた?」
そんなはずない。押し戻される声の代わりに、首がゆるゆると応えた。
「否定されてもね。もう信じないよ。あんた嘘つきだもん」
そうなんだろうか。私は大芽の言う通り、心の中では史織ちゃんの死を願っていたんだろうか。痺れたような頭は考えにつかみ所がなく、自分でも何が本当で、何が偽りなのかが分からなくなっていた。
「じゃあいいよ、ミズさん」
なんについて言っているのか見当がつかず、それでも本能的に不吉な予感を覚えながら僅かに首を傾げた。
「人を殺すほど望まれていたなんて、ある意味光栄だね」
反吐が出そうな気分だけど、と嫌悪感を表しながら大芽は付け加える。
「大好きなお祖父ちゃんの願いでもあるし」
大好きな、の部分で皮肉げに顎を上げ、大芽は途方もない発言を投げ落とした。
「結婚しようか、ミズさん」
「なに、を……」
突き抜けたように明るい声音が紡いだ言葉が理解できず、やっとの思いで問いかけた。
「結婚しようって言ったんだよ。意外だった? この流れでプロポーズされるなんて思わなかった? まさか、断ったりしないよね。なんせ、僕から史織を奪ってまでミズさんが望んだことなんだからさ」
私を閉じ込めたまま、楽しげに思いつきを語り聞かせる大芽を前にして、取り返しのつかない傷を負わせてしまったのだと、改めて強く思い知らされた。大芽は他の誰でもなく、史織ちゃんにプロポーズできる日を心待ちにしていたのだ。
人は狂気を宿すと、大芽のような目をするのかもしれない。奥底に渦巻く暗闇に、身動きを封じられたまま私は恐怖した。
「ああ、でも史織のようには扱えないからね。あんたじゃ史織と比べ物にならないよ。見てくれも、性格も。だからその辺、あんま期待は持たない方がいいよ」
糸が切れたように頷く私を、大芽は軽蔑したような目で見下ろしていた。
その年は喪に服していたということもあり、結婚式は次の年、私の卒業を待って行われた。大芽はかつてお祖父さんが希望していた神社ではなく、ホテルのチャペルで式を挙げることを選んだ。
新郎の希望で誓いのキスはせず、婚儀はつつがなく終了し、私は古谷瑞穂になった。