7
異変は、翌日起こった。
図書館で卒論の調べ物をしようと館内に足を踏み入れてすぐ、携帯電話が鳴りだした。
まだマナーモードにしていなかったんだ。
慌てて携帯を押さえながら外へ出る。
着信は母からだった。沈んだ声でもたらされた報せが信じられなかった。
今朝早く、お祖父さんが亡くなったという。脳梗塞が原因なのだと。
お年寄りが脳梗塞で突然亡くなってしまうという話はよく聞く。でもそれは、自分とはなんの関係もない場所で起こった不幸を伝え聞く程度だ。まして、よく見知っていて、昨日会ったばかりの人だなんて。
あんなに元気そうだったのに、とはこういう場合頻繁に耳にする文句で。でもその通りの感想を私は抱いていた。
水ようかんを嬉しそうに食べていたお祖父さん。瑞穂ちゃん、と変わらぬ口調で呼んでくれていた。また会いにいく、と約束していた。
――お祖父さん!
昨日、それからもっと昔のお祖父さんの声や仕草、表情が蘇り、視界がぼやけてきた。胸の中が、お祖父さんと過ごしてきた時間で満杯になる。凝縮され、一粒が涙となって頬を伝ったところでハッと気づいた。
大芽は今、どうしている?
大変な時だろうから通じるかどうか。そう思いながらも急かされるように履歴を検索し、発信した。意外にも、三コールでもしもしと聞こえた。
「大芽? 私、瑞穂だけど。今、お祖父さんが亡くなったって」
「ミズさん、史織が……」
「え? そうじゃなくて、お祖父さん――」
もどかしく言い直そうとした私を、震える大芽の声が遮る。
「史織が、今、息を引き取ったって」
言葉の意味を咀嚼する間もなく、うそ、と自分の口から吐息のような声が出た。
呆然と、大芽が語る。入院はしてたけど、容態は安定していたんだ。夜中に大きな発作があったって。全然そんな兆候はなくて、来週退院したら一緒に植物園へ行くつもりで。その時に結婚しようって告げるつもりで。携帯に着信が残ってたんだ。史織のお母さんが知らせてくれてたみたいで。でも、その時お祖父ちゃんが意識不明になっていて、病院にいて、電源切ってたから。
「知らなかったんだ」
「大芽」
今にも泣きだしそうな大芽の名前を呼ぶ。
「史織が苦しんでいたのに、知らなかったんだ」
「大芽!」
「傍にいてやりたかったのに! きっと僕を呼んでいたのに!」
大芽! 大芽!
私が何度彼の名前を叫んでも、大芽は絞り出すような声で史織ちゃんの名前を呼び続ける。私の声は届かない。
チリリと胸が焼けつくような感覚を受けながらも、私は声を張り上げた。自失状態の大芽に、打ち拉がれている心に、なんとか響くように。
「とにかく大芽、家にいるんでしょう? 今から行くから!」
返事は聞かずに電源を切ると、私は自分の服装が華美すぎないものであることを確認し、一目散に大芽の家へと向かった。
それからは、目まぐるしく時間が過ぎていった。
私の存在でも一応の慰めになるのか、傍にいてほしいという大芽の頼み通り、その晩は泊まり込むことになった。まさか通夜に出席することになるとは思わなかったので、黒のワンピースを貸してもらった。
神様好きのお祖父さんの葬儀なのだからてっきり神式で行うのかと思ったら、従来通りの仏式で進めていくらしかった。その辺りのこだわりはお祖父さんにもなかったみたいだ。ただし、結婚式は神社で挙げてほしいと言っていた、と何かの折りに大芽から聞いたことはあった。
親族でもない私に不審な目を向ける人もいたけれど、名前を告げると納得するような顔つきになった。どうやら、お祖父さんは私の名前を大芽の婚約者として、親族間に周知徹底していたらしい。
規模が大きいとはいえ、お祖父さんが会長を務め、大芽のお父さんが本社の代表取締役である会社は同族経営のため、ここに集まる親族はほとんどが会社役員でもある。次期社長と目される大芽の婚約者を、品定めしようとする目線に容赦なく晒された。もっとも、その話は既にご破算となっているのだから、我関せずではね除けておくことができた。
史織ちゃんの存在を知っている人も多いのだろう。見るからに消沈した様子の大芽にはとても水を向けられないと思ったのか、私からそれとなく詳しい内容を聞き出そうと、何人かから声をかけられた。とはいえ、私としてもこんな席で、自分自身もまだ整理がついているとはいえない話を説明する気にはなれない。それに婚約者でもないと分かってしまったら、この場にいる建前がなくなってしまう。はっきり訊かれなかったことを理由に、よく解らないといったフリをして逃げた。
おじさん――大芽のお父さんは、明日、お祖父さんの式と同日に行われる史織ちゃんの葬儀に参列すればいいと大芽に告げた。ただし、お骨拾いまでに帰ってくることを条件に。
忙しいなりに、史織ちゃんが大芽の中でどんな位置を占めているのか、理解しているからこその発言だろう。普通であっても本家の孫が参列しないなんて、内外に印象が悪い。ましてやお祖父さんは大企業の会長で、葬儀を見守る目も一般よりずっと多い。
おじさんとはあまり顔を合わせたことがなかったけれど、幼い頃に垣間見た、大芽と触れ合う様子は子煩悩なパパそのものだった。父親として、なるべく出来ることをしてあげたいと思っているのかもしれない。
大芽は悩んでいるようだった。お祖父さんの葬儀に出なくていいのか、との葛藤はもちろんのこと。もう目覚めることのない史織ちゃんを見て、彼女の死を実感することが恐ろしい、と心中を告白していた。これについて、私からは何も言ってあげられない。ただ相づちを打って、立て続けに大事な人たちを失くしてしまった大芽に、せめて一人ではないと存在を知らしめてあげるだけだ。大芽自身がどうするかを決めて、乗り越えなくてはならないのだから。
翌日の葬儀はよく晴れ、雲一つない真夏の青空が広がっていた。朝から気温は高く、太陽が燦々と照りつけている。沢山の弔問客が訪れる中、お祖父さんの葬儀はしめやかに執り行われた。
結局、大芽は史織ちゃんにお別れを告げることに決めたようだった。さすがに私が付きそうわけにはいかないので、無理して微笑もうとする大芽に、しっかりね、と声をかけて送り出した。
そして、私も。
固くなってしまったお祖父さん。その身体を柔らかく包む、花の毛布の一輪を捧げ、静かにお別れをした。
輪廻を説いてくれたお祖父さん。いつかまた、巡り会えますように。
初七日は小雨が降っていた。葬儀当日に行われることが多いらしい法要も、古谷家では文字通り七日目に執り行うようだった。庭木や屋根が雨粒を受け止める音を背景に、家中に染み渡りそうな読経を聞く。亡くなった人のためだけの儀式ではなく、残された者もこうして心の整理をつけていくのだと、神妙な気持ちになった。そうして心の繊細な部分へと、時間をかけて仕舞い込んでいくのだ。
全ての手順が終わったあと、大芽に話があるからと自室へ呼ばれた。
「へえ……」
子供の頃に訪れて以来の部屋は、随分と様変わりしていた。子供部屋らしいポップな模様の壁紙は白い無地になり、ゲームの代わりにパソコンが、机の上には経済書が置かれている。その脇にはどこかの水族館で撮ったのか、熱帯魚が泳ぐ水槽の前で楽しそうに並ぶ、大芽と史織ちゃんの写真が飾られていた。
現実を反映しない二人の様子が見ていられないのか、それともまだ根を下ろしたままの恋心が正視を拒んだのか。私はすぐに目を背け、視線を窓に移した。灰色の雲の下、雨脚は強まっているみたいだった。
「そこへ座って」
キョロキョロと部屋を見渡している私に一人掛けの椅子を勧め、大芽自身も机の前に、私の方を向いて座る。
クッションの効いた肘掛け椅子に納まり、大芽に目を向けた。
「私の知ってる頃と大分違ってるね。初めて来た部屋みたい」
「ミズさんが最後に来たのって、僕が小一ぐらいの時だっけ? さすがにこの歳で、あのままじゃちょっとね」
昔の内装を思い出したように薄く笑った後、大芽が軽く頭を下げながら言う。
「色々頼っちゃってごめんね。忙しかったろうに付き合ってもらって、感謝してる」
「付き合ってもらってなんて」
ほとんど口の中で呟きながらかぶりを振った。
「一番参ってたのは大芽の方でしょう? それに私も、お祖父さんのことは本当のおじいちゃんみたいに思っていたから。お通夜とか初七日とか、親族でもないのに参席させてもらったもの。こっちだってありがたかったんだから、あんまり気を使わないでよ」
ね、と念を押すように重ねると、「本当のおじいちゃん、か」と大芽が何かを考えているのか、一瞬目を遠くする。その言葉と反応に僅かな含みを感じ取り、私は少しだけ眉をしかめて問いかけた。
「大芽?」
「ミズさん、あの日さ……」
「あの日?」
そこに記憶の光景が描かれてあるかのように視線を床へ固定し、大芽が続ける。
「ミズさんが、お祖父ちゃんに話をしにこの家へ来てくれた日。メールくれたよね。お祖父ちゃん、納得してくれたって」
「うん、したね」
「納得してくれたって、どんな風だった?」
え? と尋ね返すと、大芽が顔を上げて私を見た。ただ無心に返事を待っているかのような表情に、内心で戸惑う。大芽は、何を探ろうとしている?
「どんな風って言われても……。私がそこまで頼むなら仕方ないって感じだったけど――どうして?」
私の質問には答えずに、大芽はさらに問いかけてくる。
「はっきり約束してくれた? 婚約の話はなかったことにするって」
「なんなの? どうしてそんなこと訊くの?」
「ミズさん、最初に尋ねたのは僕だ。ちゃんと答えて」
一体なんだというのだろう? 意図が掴めずジリジリした思いを抱きながらも、まずは大芽の言う通りにした。
「はっきりと口に出してくれたわけじゃなかったけど……。でも、ちゃんと納得してくれたみたいだったけど?」
「なんで分かるの?」
突然の、責めるような口調に二の句が継げなかった。