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「多分、大芽は焦ってるんだと思う。今も史織さんは入院してるから。大芽はいつも史織さんを喪ってしまう可能性に怯えてるから。少しでも早く、より多くの繋がりを持ちたいんだと思う」
私、どうして大芽のフォローをしているんだろう? 私以外の人と結ばれるために応援するなんて、自虐行為もいいところだ。
それでも言葉を重ねてしまうのは――。
私はお祖父さんに向けて頭を下げた。さっきから、お祖父さんは穏やかな様子を崩さない。揺らいだところが見えない。私が何か言っても、説得されてくれるかどうか。
さすがに手強い。
でもどうしても、と膝頭を隠すスカートを見つめながら懇願する。
「お願いします、お祖父さん。私と大芽の婚約話、破棄させてください」
自分の感情よりも、大芽の幸せを優先させたいのは――。
弟のように扱っていた昔からの、習性のようなものなのかもしれないと、そう思った。お祖父さんが指摘する通り、大芽が私を頼りたいのであれば、それにできる限り応えてあげたい。
視界から外れたお祖父さんは黙っていて、反応が分からない。
だったら、引き出すためには、繰り返すしかない。
「大芽の意志を、尊重してあげてください」
もう一度。
「大芽だけではなく、史織さんのためにも」
史織さんのため。
微塵も思ってないくせに、と自分の中から嘲笑う声が聞こえた。でも、開き直る。好きなだけ糾弾すればいい。それでお祖父さんが頷いてくれるなら、どんな台詞でも喋ってやる。
それが、私がお祖父さんに見せる意志だ。
さらに言い募ろうとした時、お祖父さんの静かな声が降ってきた。
「瑞穂ちゃん、顔を上げてください」
「顔を上げたら、お祖父さんは承知してくれますか?」
スカートのボーダー模様を辿りながら訊く。
「少なくとも顔を上げてくれないと、お祖父さんは承諾しません」
少しおどけたような口調に、渋々顔を持ち上げた。案の定、お祖父さんはおかしがるように表情を緩めている。
「瑞穂ちゃん、さっきお祖父ちゃんは、熱意が何より響くと言ったね」
問いかけるように眉を動かされ、顎を僅かに引いて返事した。
「自分のためでもないのに、どうして瑞穂ちゃんは頭を下げるんだい? 態度も口調も受ける雰囲気も、大芽より余程必死に思える」
「だって、大芽はシンのように、弟みたいなものだから。弟には幸せになってほしいし……」
「弟のようだと言っても、実際に大芽は家族ではないね。積み重ねてきた時間もシン君には遠く及ばない。お祖父ちゃんに瑞穂ちゃんの考えを伝えてくれて、後はそちらの方で話し合ってくれと終わらせればいい。それを無責任だと避難するほど、大芽も腑抜けてはいないと思うよ」
そりゃあ客観的な第三者からすれば、何をそこまで入れあげてるんだと不思議ではあるだろうけれど。私にとってはとても自然なことで。滲みだすように内から湧いてきた衝動による、他に対処の仕様がない行動なのだもの。
大芽と積み重ねて作り上げた絆の塔が、家族や友人たちとは比べものにならないくらい低く頼りなく見えていても――私からすれば、それは他の誰とのものより密度が濃く、どうやっても打ち崩せないほど頑強なのだからどうしようもない。
「でも、そういうのって時間じゃないでしょう?」
大芽に対する想いがかけがえのないものだと、自分の中で確認を深めていたせいかもしれない。ろくに検討もせず、出てきた考えをそのまま声にしてしまった。
失言に気づき、急いで口を押さえてお祖父さんを見た。さらにその行動で、裏づけてしまったと悟る。
私の本心、知られてしまった……?
お祖父さんの目から視線を外せなかった。冬の日射しのような眼差しは、目を見開くしかない私の心情を暴こうとはせず、ただゆるゆるとした和やかさで透かし、浮かび上がらせようとしている。
お祖父さんが、少しだけ悲しそうに眉尻を下げる。
「そうだね、時間じゃない。瑞穂ちゃんが正直になってくれたら、お祖父ちゃんは全面的に味方をするよ。その方が、大芽のためにも絶対いいと確信している。あの子は若い熱に当てられ、のぼせ上がっているだけだ。守らなければいけないと思い込んでいる存在に、浸っている。いざという時、誰に心を預けようとしているのか、傍から見ているとよく分かるのに」
「あの二人はもう二年以上付き合っているのに? それでもお祖父さんは一時の熱だと言うの?」
「お祖父ちゃんからすれば、二年の交際期間だけでは確かなものだと言えないね」
「大芽はお祖父さんが思うほど私を頼ってないよ。それに、お祖父さんはさっきから私を買い被り過ぎてる」
「あの子の話と、今の瑞穂ちゃんと会話して感じたままを口にしたんだがね」
私は、都合良く聞こえるお祖父さんの言葉に負けないよう、必死で首を振った。
「そんなの、決めるのは本人、大芽なんだもの」
絞り出した私の声はか細く揺れていた。大芽が誰よりも大切にしたいのは史織ちゃん。私だって同じだ。こうした方が絶対にいいからと他者から勧められても、例えその助言が一般的な目で見て十割の確率で正しいのだとしても。差し出されたものが自身にとっての欲求の対象でないのなら、決して満足感は得られない。ただの押しつ行為にしか感じられない。
鼻の奥が痛くなってきて、必死に堪えた。お祖父さんといると、自分が子供の頃に還ったように感じられる。
でも、抱き囲い込もうとするお祖父さんの意見に乗って、己の行動を委ねてしまってはいけない。絶対的な庇護者に辛いこと全てから覆い守られる時期は、とうの昔に過ぎてしまった。
「お祖父さんみたいな年配の人はよく、恋は熱病のようなもので、その内冷めるって言う。けど、渦中にいる本人にはそれが全てなんだもの。自分が想う相手以外は見たくないし、そんな自分であり続けたい。熱が冷めたら後は、相手を包み込む優しい感情が残るだけでしょう?」
「相手を包み込む優しい感情、ね」
瑞穂ちゃんは中々詩人だなぁ、とお祖父さんの目元が緩む。そして改まったように言う。
「二人の間にある縁が結ばれるようになっているならね。瑞穂ちゃんは、大芽と史織さんがそうだと?」
縁だなんて。お祖父さんらしい神様チックな考え方に、溢れて零れようようとする感情が少しずつ押し戻されていった。心が鎮まり、口の端が思わず持ち上がる。
私の気持ちを汲み取ってくれない意地悪な神様。でも、他の誰かにとっては救いの主なわけで。
私の表情に、お祖父さんの口元も笑みを漏らす。
「お祖父ちゃんはね、感情というものを絶対的に信用してはいないよ。その時の体調、状況、蓄えた知識によって容易に変わってしまう。後になって、大芽が史織さんを選んだことを後悔するようになれば、誰にとっても不幸な結末になると思わないかい?」
「お祖父さん、なんだか、女性関係で困難なことでも乗り越えてきたように聞こえるんだけど……」
「そうかい? まあお祖父ちゃんも長い間生きてきたからそりゃあ色々あったし、様々な人間関係も見てきたよ。本人同士では分からなくても、周りから見れば明らかなこともある。熱を持つ感情は強いけれど、燃えずに残るものがあるかどうかは分からない」
「でも、人を揺るがすことができるのは、その強い感情だとお祖父さんは言った」
そう、何にも勝る、巨大で絶対の気持ち。私の中でも消えてくれない熱がうねりを上げている。どうやっても燃え尽きてくれない剛くて柔らかい塊が居座っている。同じだから。分かるから。だからこそ大芽が宿している塊を、私は別の方へ向けさせようとは思えない。大芽の望むようにしてあげたい。
報われなくてもいいなんて、偽善だから口に出せる、耳に聞こえのいい言葉だと思っていた。本心に抱ける感情だなどと、考えたことすらなかった。
「私は、大芽のその感情に動かされてしまったの。そして自分の中の感情が命じる通り、今ここにいて、お願いしているの」
弟だからなんて関係ない。もっと痛くて、生々しくて美しい部分が、大芽の幸福を願っている。
何よりも。
他の人間と結ばれるなんて許せない――なんて願わない自分でよかった。
切実に、そう思った。
「それにお祖父さんがいくら私と大芽を結婚させたくても、それこそ私たちの間に結びつけられるべき縁があるかどうかは、疑問じゃない? 神様が定めたカップルは、大芽と史織さんなのかもしれないんだし」
――案外、恩返しにこだわったお祖父さんの目が曇ってるだけなのかもよ。
してやったりの顔を作ってそう言うと、お祖父さんは「一本取られたな」と額を叩いた。リアクションの古さは、お年寄りならではだ。
解っていただろうに最後まで、お祖父さんは私の気持ちをはっきりと指摘しなかった。それに、感謝。
「受けた恩義云々ではなく、やっぱりお祖父ちゃんは瑞穂ちゃんがいいなあ」
家を辞去する時、沢村さんと並んで見送ってくれたお祖父さんが未練がましく言う。
「もう勘弁してよ。今度は疎遠にせずに、度々会いにくるから」
わざと頬を膨らませて返事をすると、晴れやかに笑ってくれた。
帰りの道中で、私は大芽に向けて首尾報告のメールを打った。
講義に出ていたらしく、家に辿り着いてから返事の電話がかかってきた。喜びに溢れる大芽の声を聞いて、これで一区切りがついたと感じた。
味方でいてくれてありがとう、お祖父さん。だからこそ私は大芽に伝えられなかった想いを胸に沈め、そして皆がそれぞれ進むべき方向へ歩んでいける。
この時は、心からそう信じていた。