5
大芽の家、古谷家は高台の高級住宅地に建てられている。お金持ちはやはり一等地に居を構える、というわけではなく、古谷家が昔から持っていた土地の値が戦後吊り上がった結果のことらしい。古谷家の敷地は分譲しても広大で、庭から直接山に入ることもできる。私が幼い頃から知っている綺麗に整えられた庭も、事業で成功する前は野手溢れる雑木林に近かったそうだ。
乗ってきたスクーターから降り、外国映画にでも出てきそうな真鍮製の柵状門を見上げる。私の身長よりも大きく横幅も広いけれど、瀟洒な装飾が施され厳つい印象はない。右寄りに、人が楽に通り抜けられる手頃な大きさの門がくり抜かれており、通常、歩きや二輪の場合はここから出入りできるようになっている。
幼い頃はこの門戸部分だけでも全力疾走できていた。さすがに今は無理そうだ。
この場所は高さがある上周りに緑が多いために涼しく、吹き抜けていく風も冷たさを孕み、肌に心地いい。セミの声も暑さを助長するというよりは夏の風物詩の一部といった感で、塀からはみ出した枝に止まり、虫を食べている鳥もどこかのんびりしているように見える。怯みそうになる気分を和らげてくれる光景に目を飛ばしながら、深呼吸を一つし、私は支柱のインターホンを押した。
「ごめんください、立川瑞穂と申します。午後から――」
その先を言い淀む。今さらながらに気づいた。名前を知らない。この歳で情けない、と若干へこみながら続ける。
「お祖父さんと約束をしていたんですが」
喫茶店で別れてから、改めて大芽と電話で打ち合わせた。私が都合のいい日を決め、大芽がお祖父さんにそれを伝えておく。会長職にあるお祖父さんは時間に融通が利くそうで、大抵は私に合わせられるということだった。
手当たり次第の就職活動の結果、私は運よく中堅企業の事務に内定をもらうことができた。あとは卒論の進行だけを気にしていればよく、今日は一コマ目の講義に出席し、ランチを食べてからここまで来たというわけだ。手ぶらというのもなんなので、一応手土産も持ってきた。
ちゃんと大芽が伝えてくれていると思うんだけれど。
来意を述べた後、緊張気味にインターホンの前で待っているとハキハキした声で返事がきた。
「はいはい、伺っておりますよ。いま門を開けますから、どうぞお入りください」
年配の女性の声。多分、聞き覚えがある。声が導く通り手頃な方の門が開き、私はそこをくぐり抜けた。
玄関に辿り着くまでの通路は二つ。車道と、レンガの花壇。
幼い頃は、絶対に車道の方を通ってはいけないと言い聞かされていた。危ないからね、と優しげに注意してくるお祖父さんの顔を思い出しながら、スクーターをつきつつ歩いて夏の花々の間を通り抜け、家の前に到着した。
――子供の頃は、もっと距離があると思っていたものなんだけれど。
それだけ私が大きくなったということか。さっきの門でも抱いた感慨といい、この家との関わりから離れて過ごしてきた時間の長さを実感する。手でひさしを作りながら、少し下がって家全体をグルリと眺めた。
玄関の車寄せは幅広く作られ、和風とも洋風とも形容しがたい、趣味の雑誌にでも出てきそうな外観。ちょっとした二階建てのアパートならすっぽり入ってしまいそうな大きさだ。内装は完全にお祖父さんの好みを反映している。
お祖父さんは興味を示す分野の和洋に拘らず、趣味も幅広い。神様好きなので、神棚をお奉りする専用の板敷き間で祝詞をあげたりする(一度傍で見させてもらったこともあるけれど、何を言っているのか訳がわからなかった)し、トランジスタラジオを組み立てる専用の部屋(ここはただの物置にしか見えなかった)も用意してある。自室の書斎もおもちゃ箱のようだった。
かくれんぼの度に訪れた部屋と、ワンセットになって椅子に座る穏やかなお祖父さん本人を思い出し、自然に口の端を緩めていると玄関の扉が開いた。五十がらみでやせ形の、いかにもクルクル元気に動きそうなおばさんが「まあまあまあまあ!」と歓迎ムード一杯に出迎えてくれる。
「懐かしいわあ、瑞穂ちゃん。おばさんのこと、覚えてるかねえ?」
「沢村のおばちゃん、ですよね。よくおやつをいただいたこと、覚えています」
家中をバタバタ走り回って叱られたことも、といたずらっぽくつけ加えると、「あらいやだ」とおばさん特有の顔の前で手を振る動作を返された。
昔は漠然とお手伝いさん、と認識していたこの人たちの職業を、家政婦さんと知るのはここへ来なくなってさらにずっと後のことだ。沢村さんは住み込みで家事一切を取り仕切り、後は通いの人がもう一人と、週三回、掃除の人が二人通ってくるらしい。庭の手入れは他業者に任せているそうだ。
子供は騒ぎ出すと周囲が見えなくなり、遠慮なく家の中を破壊して回る。だから沢村さんには大芽とシン共々いつもガミガミ叱られていた。でもよく相手をしてくれる気さくな人で、苦手意識はない。おやつを出してくれていた、という点も子供心には大きなポイントだったと思う。
玄関前にスクーターを置かせてもらい、手土産を渡してほんの二言三言近況を聞き出された後、お祖父さんの部屋へと送り出された。案内をしてくれようともしたけれど、部屋の場所は分かっているからと断っておいた。
「よく来てくれたね、瑞穂ちゃん」
十数年ぶりに見るというのに、お祖父さんは昔のまま年を取っていないかのように思えた。顔や身体の至る所に走る皺も、本当の孫を前にしたように歓迎してくれるところも、優しそうで嬉しそうに柔らかい、目の光も。ほとんど変わっていないように見える。
机の椅子から応接セットへ移動する足取りもしっかりしたもので、全く衰えを感じさせない。大芽の背は高いけれど、お祖父さんは意外と小柄な方だ。その分、動作がきびきびしている。
やがて沢村のおばちゃんが、冷たい緑茶と私が持ってきた手土産の水ようかんを置いて、ちょっと喋ってからすぐに出ていった。話の妨げにならないように気を使ってくれたんだろう。さすがにベテランさんだけあって、上手に空気を読んでくれる。
斜め向かいに座るお祖父さんが、水ようかんに視線を落とす。
「瑞穂ちゃんが持ってきてくれたのか。あの小さかった瑞穂ちゃんが……」
やはり子供だった私のイメージが強いのか、立派な大人になってまあ、とうんうん頷いている。それに綺麗な娘さんになって、と目頭を押さえられ、私は慌てて口を開いた。お年寄りって涙もろい。
「大芽に、お祖父さんが甘い物が好きだって教えてもらって。お口に合えばいいんだけど」
「ああ。もちろん、喜んでいただくよ」とお祖父さんが機嫌よさげにスプーンを手にとってくれたので、安堵した。なんというか成長をしみじみと喜ばれるのは、腰の据わりの悪さを覚えるような気恥ずかしさを感じる。妙に居心地が悪い。
あの日、再会した時に散々からかったものだけれど、大芽も今の私のように思っていたんだろうか?
お茶を飲みつつこの十数年間について談笑していると、ふいに会話が途切れた。わざわざアポをとっておきながら、中々本題に入ろうとしないことを気にかけていたのかもしれない。お祖父さんが口火を切った。
「ところで瑞穂ちゃん、忘れられていなかったのはお祖父ちゃんにとっても大変喜ばしいんだが」
今の私に対しても、自分のことを『お祖父ちゃん』と言う。大芽とは連絡をとっていたのに、自分には音信不通だったことに対してつむじを曲げた、というような表情をした。ああ、これは私がなるべく気楽に言いだせるように雰囲気を作ってくれているんだろう。予想通り、お祖父さんが続ける。
「お祖父ちゃんに何か話があるんじゃないのかな?」
私は幼い頃から変わらない、温かい眼差しを見つめてから目を逸らせた。お祖父さんは私と大芽が結ばれることを願っているという。私だってそう。でも、大芽の意志は別の人を向いている。
いい加減、断ち切らなきゃ。
終わらせられるのは、私だけだ。目を戻し、お祖父さんと視線を合わせた。
「お祖父さん、大芽との婚約はなかったことにしてほしい」
自分の望みとは真逆の要求を口にした。がっかりする姿を覚悟していたのに、お祖父さんはどういうわけかさらにまなじりを柔らかくする。
「瑞穂ちゃんは、大芽のことが嫌いかい?」
――ミズちゃんは嫌?
お祖父さんの質問に、昔大芽に似たような言葉を言われたことを思いだす。二人の血の繋がりを思い、奇妙に感心すると同時に、いつまでも過去の大芽に救いを求めてはいけないと自身を叱咤した。
問いかける表情に、かぶりを振る。
「嫌いとかそういう問題じゃないの」
自分の答えまで一緒にしてしまった、と少しだけ笑いたくなった。今回は、眉根を寄せずに微笑んでみせる。
「こういうことは、やっぱり当人同士の気持ちが大事でしょう? 大芽には、心に決めた人がいる」
「史織さんだね。家にも何度か遊びにきてくれたよ」
「お祖父さんは史織さんのこと、どう思った?」
「どう思った、か」
お祖父さんが一度息を吐く。
「とても心根の綺麗なお嬢さんだと思ったよ。辛い病気を抱えているのに拗ねたような部分もなく、また境遇を引け目に思っていない。変に諦めたような態度は取らず、好奇心も旺盛で、生きることを楽しんでいる。家政婦の沢村さんも、今時珍しいお嬢さんだと気に入っていたようだった」
大芽が惹かれる理由もよく分かる、とお祖父さんは言い添えた。
史織ちゃんの病気は一般には知られていない原因不明の珍しいもので、病名も教えてもらったそばから忘れてしまった。人によっては数ヶ月で命を落としてしまう危険もあるけれど、史織ちゃんの場合、そこまでの心配はないらしい。
私は史織ちゃんに会ったことがない。大芽に会ってほしいと頼まれても、色々と理由をつけてやんわり断ってきた。二人が笑い合う所なんて、見たくない。
おじいさんが評する史織ちゃんの人物像は、大芽から常々聞かされているものとピッタリ当て嵌まる。大芽、あなたの目は正しい。例え史織ちゃんが私と同じ状況に置かれても、彼女なら恋敵を本心からの笑顔で祝福するんだろう。
自嘲的な方向へ思考が進んでいくのを感じながら、お祖父さんに提案する。
「だったら、こうするのが一番いいんじゃないかな」
それにお祖父さん、と少し口を尖らせた。
「私は両親に、自分の意志で決めればいいって言われたんだけど。大芽が、僕の方からは断れないって打ち明けてきた時は驚いたんだけど?」
「あの子はそんなことまで話したのか。絶対に言ってはいけないと念押ししておいたんだけどね」
お祖父さんは呆れたように上を向いた後、今度は呟き落とすように言う。
「どうしても瑞穂ちゃんには甘えてしまうようだな」
「でも、大芽の立場だったら当たり前の頼みじゃない?」
「いいや、それは違うよ。どうしても史織さんと一緒になりたいなら、瑞穂ちゃんに助けを求めるべきじゃない。問題解決のための賢く合理的な手段は、必ずしも人の心を動かせるとは限らないからね。何度駄目出しされても諦めない熱意が何より響くんだ。特に、これは一生の問題だ。あの子はまだまだ若いとはいえ、だからこそこういう楽な手段を今から覚えてほしくはないな」
「大芽はお祖父さんの所へお願いに来なかったの?」
「二、三度話を聞いてほしいとは言ってきたね。でも、お祖父ちゃんの、瑞穂ちゃんと結婚してほしいという意志の方が勝っていたかな。大芽の意向を無視しているという自覚はあるけれどね。あの子にはまだ、お祖父ちゃんの意志以上の決心を見せてもらっていない」
大芽を会社の跡取りとして育てているお祖父さんならではの、厳しい意見ではあるんだろうけれど。私はお祖父さんの背中を支えるベージュ色のソファの背もたれに目をやりながら、考え考え言葉を探した。