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私が大学一年、大芽が高校二年。もうすぐ次の学年へと進級する春の早い頃。私はしつこく大芽に片思いし、それを悟られぬよう押し隠していた。
日曜日、私と大芽はいつものように駅で待ち合わせていた。今、大芽に彼女はいない。その事実に後押しされ、オシャレにも熱が入った。化粧も覚えた。心持ちお姉さんぽく見えるよう。でも、あんまり歳が離れて見えないよう。
電車を降り、目印のベンチへ行くと、既に大芽は座って待っていた。春とは名ばかりの寒風吹きすさぶ中、窮屈そうに折り曲げた長い足が支える身長は、もう10センチ近く私よりも高い。二人組の綺麗な女性が声をかけようかと迷っている、見目好い男の子が笑いかけるのは、この私だ。
「大芽」
近寄りながら少し高揚した気分で名前を呼ぶと、こちらを向いた大芽が予想通り笑顔になった。
「なんだ、彼女持ちか」「そりゃそうだって、あんだけ上等なの」と二人組が囁き合いながら立ち去っていく。
彼女に見えるんだ。そう思うと、胸が高鳴った。胸中そのままの笑顔が滲み出る。
「ごめん、ちょっと遅れた?」
「全然。聞いてほしいことがあってさ。早めに来ちゃったんだ」
「聞いてほしいこと?」
うんそれがさ、と大芽が勢いよく立ち上がる。
「マジびっくり。超ミラクル!」
興奮を抑えきれないというように、大芽が大袈裟に両手を広げた。子供の頃からの癖。微笑ましい、と少しおかしかった。
「一昨日、病院行ってたんだ。あ、歩こうか。ファミレスにする?」
頷くと、大芽が歩き始める。私も横に並んだ。まずは腹ごしらえから。
いくら財布の中身が豊かな大芽だとはいえ、年下に奢ってもらうのはなんとも情けなく感じる。それに大芽が稼いだお金ではないのだし。遊ぶお金は割り勘で、を鉄則にしていたので、入る店のレベルは私に合わせてもらっている。
人の流れに合わせて歩きながら、大芽の顔を見上げる。
「そういえば、病院どうだったの? 大丈夫だった?」
「全然平気」
ほら、と大芽が袖を捲る。腕には包帯が巻かれていた。体育の授業の時に、走っていて友達ともつれ合ってしまい、派手にぶつけてしまったらしい。念のため病院に行っておけと言われたそうだ。包帯は痛々しいけれど、ブンブン手を振っているところを見ると、大したことはなさそうだった。本人は傷の具合などおかまいなしに、最近の湿布は臭くない、と笑っている。
「診察が終わってから自販機へ行ったらさ、入院患者っぽい女の子がいてさ」
その子がヤバいんだって。あり得ないってくらい可愛いんだって!
大芽が嬉しそうに蕩々と語る。その子、史織ちゃんがいかに愛らしいか。大芽よりも一つ年下で、子供の時から病気で入退院を繰り返していること。昨日もお見舞いに行っていたこと。本当は今日も行きたかったけれど、親御さんが来るとかで遠慮したこと。
熱心に話し続ける大芽の声が嫌に遠い。視界に映る車も人も、こちらの気持ちなんてお構いなしに流れていく。私だけが世界から独り、取り残されたように感じられた。私はただ、相づちを打ちながら聞いていた。
歩行者信号が赤になって、私たちは横断歩道の手前で歩みを止めた。大芽が決意を示すように、拳をぐっと握り締める。
「お見舞い、絶対明日は行く。明後日も行く。あ、でもあんまり毎日通ったら、がっついてるって思われて引かれるかな?」
どう思う? と私に意見を訊くようでいて、実は全然問いかけになっていない。その証拠に、写真見る? と私の返事を待たずに携帯を取り出す。ボタンを一つ押しただけで、大芽は私に画面を見せた。電源ボタンを押すだけの、待機モードの解除。その子の写真を待ち受けに設定しているんだろう。
「入院の格好が嫌だからって、カーディガンのボタンを全部留めて、上半身だけってことでやっと許可が出たんだ」
その時の様子を思い浮かべているのか、いかにも愛しくてしょうがない、というような蕩ける声を聞きながら私は機械的に画面に目を落とした。
場所は病院の談話室なのか。長机と椅子を背景に、ミントグリーンのカーデガンを着た女の子がこちらに向かって微笑みかけている。ポーズを作るような性格ではないらしい。大芽の今までの彼女と比べても、群を抜いて可愛かった。病気のせいなのか、線が細い。恐らくは、身長も私よりずっと小さい、華奢で守ってあげたくなるような女の子。
――私とは、正反対。
「ね、可愛いでしょ?」
同意を求めてくる大芽に、不審がられない程度のテンションを作って返事をした。うん、とかやったじゃん、とか。他になんと言ったかよく覚えていない。
「外見だけじゃなくて、中身もすんげえいいの」
べた褒めしながら、大芽が私の方に差し出していた携帯を引っ込める。もう一度、画面の中の史織ちゃんを目に焼きつけるように。眼差しだけで守るようにこの上なく優しい視線を向けてから、携帯を大切そうにパンツのポケットへ仕舞った。
「あ、青になった。行こうか」
大芽の声で、私たちは再び歩き始めた。
この日、私は必要以上に笑顔でテンションが高かったと思う。大芽が時々携帯を取り出しては画面に見入り、それをからかったりして。大芽は一日上機嫌だった。
画面の中の史織ちゃん。大芽に向けた、あの表情を見ればよく分かる。病状を微塵も感じさせない、輝くような笑顔。大体、会ってまだ二日の相手に写真を撮らせるなんて、好意を抱いていなければできるものか。大芽が毎日通ったって、彼女が引くはずがない。むしろ、心待ちにしているはずだ。
第三者からすれば明らかなその事実を、私は大芽に教えてやらなかった。そんなことをしなくても、その内二人は付き合いだす。
今までになく強い不安感が私を取り巻いていた。これまで受け身の恋愛しかしてこなかった大芽が、初めて自分から積極的になった。あんな柔らかな眼差し。あんな甘い声。
今まで見たことない。
今まで聞いたことない。
粘つく不安に焼けるような嫉妬が混じり合い、ドロドロと溶けていく。
危惧していた通り、私が大学四年になっても大芽と史織ちゃんは順当な交際を続けていた。史織ちゃん以外目に入らない大芽とはめっきり会う時間も減り、会えば会ったでノロケ話を聞かされた。どこそこへ行って何をした。こんなことがあった。相変わらず具合が一進一退する史織ちゃんが入院すると心配を口にし、退院すると我がことのように喜ぶ。
ねえ、どうして目の前にいるのは私なのに、史織ちゃんのことばかり話すの? 私の方が昔から大芽を知っているのに、どうしてこっちを見てくれないの?
会っている時くらい、こっちを見て。
目の前にいる私を見て。
それがどれほど身勝手な考えでも、願わずにはいられない。声に出さない叫びを呑み込み、いつも表面上は大芽に同調していた。心配だね、でも大丈夫。今回もまた、すぐに退院してくるよ。
いい加減実らない恋に疲れて、執念深い自分に嫌気が差して、誘われるまま合コンに参加したこともあった。身長の迫力にもめげず、私を気に入ってくれた人もいた。私の方もいいと思い、携帯番号の交換をした人もいた。
でも駄目。どうしても駄目。
大芽の声を聞くと、それ以外の声が色あせる。大芽の姿を見ると、他の存在が霞む。
締めつけられるような想いを与えてくるのは大芽だけ。
デートへと発展する前に、私は自ら数少ない、違う恋への可能性を全て握り潰してしまっていた。
ある夜、大芽から話があると呼び出された。
午後八時。それほど遅い時間でもないけれど、日が沈んでいて危ないからということで、家の近所にある喫茶店を指定された。彼女以外にもこういう気遣いができる大芽につい苦笑する。
夜十時まで開いていて軽食も出す喫茶店は、会社帰りらしき人たちでぽつぽつ席が埋まっていた。家からの距離が近い分、私の方が着くのは早い。大芽の到着時間を織り込んで家を出たつもりだったものの、待ち人はまだ来ていないようだった。
有線が流れる中、紅茶を注文し、飲んでいると間もなく大芽が現れた。私に遅れたことを詫びて向かいに座り、おしぼりと水を持ってきたウエイトレスにコーヒーを注文する。
「それで話って? 結構、真面目そうな口調だったけど」
うん……、と大芽が暫し言い淀む。一瞬だけ目を伏せ、すぐに視線を合わせてきた。
「ミズさん、僕たちの婚約話って覚えてる?」
喉から心臓が飛びでるとはまさにこのことだと思った。まさか、今この話題を出されるなんて。心の準備も何もしていない。
両親からは、二十歳になった時に初めて古谷家と立川家の間で交わされた約束を聞かされた。当人同士の意志が第一であること。選択権は私たちにあるということ。まさか既に私が知っているとは思ってもみない両親は、このデリケートな問題を、娘が傷つかないように、むやみな反発心を巻き起こさないように、丁寧に気を使って説明してくれた。
私は寝耳に水といった風情を装い、それなりにショックを受けているふりをした。
その婚約話の成立を誰より切望しているのは、私なの。お父さん、お母さん。
史織ちゃん以外に目もくれない大芽が、おめでたい意味でこの件を持ち出すとは思えない。何を言われるのか。不安を感じながらも、私は覚悟を決めるため腹部に力を込めながら、返事代わりに一つ頷いた。
「それ、ミズさんの方から断ってくれないかな」
「え?」
意味が分からなかった。私は大芽のことが好きなのに。なんでこっちの方から断らなきゃいけないの? 嫌なんだったら、大芽がお祖父さんに言えばいいじゃない。その方が、よほど諦めやすいのに。
思わず、どうしてと口走りそうになったところで大芽のコーヒーが運ばれてきて、私は口を噤んだ。大芽がコーヒーを一口飲み、物問いたげな私に応えるように話し始める。
「僕の方からは断れないんだ」
首を傾げ、無言で先を促した。
「お祖父ちゃんがミズさんのお父さんに恩を受けたという経緯は知ってるよね。お祖父ちゃんはなんとか立川家と縁戚関係を結んで、恩返しをしたいと思ってる。それしか恩に報いる方法はないと思い込んでるんだ。どうしてだろうね、他にも沢山ありそうなのに。ミズさんはおじさんやおばさんからこの話を聞いた時、なんて言われた? 嫌なら拒んでいいって言われたんじゃない?」
「その通りだけど……」
「そうだよね。でも僕は、絶対に僕の方から拒否しちゃいけないって言われてる」
「どうして? そんな時代錯誤なこと」
家の命令が絶対だなんて、この現代でそんな不条理がまかり通るなんて考えられない。目を見開く私に、大芽がゆっくりとかぶりを振る。
「僕だってそう思うけどね、結構多いよ。企業の取引を有利に進めるためにとか。同級のやつでも一杯いるし、割り切ってるやつも結構いる」
ま、今回はそういうの関係ないわけだけど、と大芽がカップに口をつける。私もつられたように倣った。大芽は高校からの持ち上がりで大学に進学した。お金持ちが集まる学校には、似たような境遇の人たちも多いんだろう。
「そういうわけで、僕に選択権はないんだ。子供の時の好意って、恋愛感情も親愛の情もごちゃ混ぜになってるから別に文句はなかったけど、さすがにこの年になると事情が変わってくる」
恋愛感情も親愛の情もごちゃ混ぜ。
目を背けていた事実を突きつけられた。大芽が私に抱いているのは、今も昔も親愛の情。それが恋愛に昇華される時はこない。良きお姉さん然として振る舞ってきた私は、自分でその見込みを粉砕してきた。
意味を理解したくない頭が、アルコールにやられたみたいにぼうっとする。
「ミズさんだってそうじゃない?」
唐突に、大芽が尋ねてきた。大芽にとっては会話の繋がりからくる問いかけでも、意識を麻痺させていた私には、藪から棒な発言だ。
大芽が、質問の意図が掴めず見返すしかない私に、言わなくても分かっている、というように微笑む。分からない。そうじゃないって何?
「あんまり色めいた話は聞かないけど、隠してるだけなんじゃないの? ミズさんを、周りの男が放っておくとは思えないんだけど?」
周りの男が何。そう言う大芽は放っておくんじゃない。
大芽が無神経に放つ憶測の一つ一つを撥ねつけたくなる。それを抑えるために、奥歯を強く噛んだ。大芽は私の気持ちを知らないのだから仕方がない。
腹の底から湧いてくる苛立ちをなんとか宥めようとしていると、次の瞬間、大芽が視線の力を強くした。
「そう、やっぱり好きな相手じゃないと」
射すくめられたように、身体が硬直する。立っている大地に超重量の岩を落とされたように、心だけが止めようもなく振動する。
言わないで。
それ以上、大芽の真実を向けてこないで。
私の必死な願いを余所に、大芽が鋭く声を出す。
「僕だって、結婚するなら史織がいい。史織以外の女なんて、考えられない」
――僕はミズちゃんのことが好きだから嬉しいな。
幼い大芽の声が、姿が、目の前にいる青年の言葉に穿たれひび割れる。鏡に亀裂が入ったように、ピシピシ音を立てて広がっていく。
――だから僕とケッコンしようよ!
いくつにも分断された記憶の中の大芽が、甲高い音を立てて四方に弾け飛ぶ。破片が私の中に突き刺さり、引っ掻きながらパラパラ降り積もっていく。研ぎ澄まされた切っ先が、あらゆる場所を切り刻む。頭がズキズキする。ヒリつく喉に紅茶を流したいのに、痛みで腕が上がらない。疼く足が小刻みに震えだす。
何よりも、胸が――裂かれた胸の奥が、耐えようのない苦しさに悲鳴をあげている。
大芽、私の表面はなんの変哲もないのに、中身は血塗れになってしまった。
私も、他の誰かなんていらない。
大芽、私が好きなのはあなたなんです。
「今時、親の決めた結婚なんてないよね」
別れ際、同意を求めるように笑いながら話しかけてくる大芽に、私も同じく笑いながら頷き返していた。
神様、あなたは残酷だ。