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それは、高校二年の夏休みを間近に控えたある日のことだった。
私は自転車で通える距離にある、地元の公立校に通っていた。家系的なものなのか、それとも中学から始めたバレーが相乗効果をもたらしたのか。特に牛乳を飲んでいたというわけでもないのに、私の身長は雨後の竹の子のようにぐんぐん伸びていた。
頼れるエースアタッカーとして青春を部活に捧げていた私には彼氏もおらず、また、身長のことで男子から冗談交じりの揶揄を受けていたせいか、クラスの子や部活仲間が恋バナをしているのを、自分とは関係無い世界の出来事だと遠く聞いていた。
暑くなるとトランクス一丁でフローリングに伸びている弟の姿を間近で見ていたし、男の子なんてデリカシーのない、子供っぽい生き物だと達観していたのだ。もちろんそれに当て嵌まらない、気遣いと礼節に溢れ、ついでに顔もいい『オトナ男子』も生息している可能性はある。けれど、それはテレビや雑誌なんかの、ここではないどこかの話だろうと思っていた。
テスト期間中だった。一学期の勉強成果を試される期末テスト。休みを挟んだ月曜日には、恐怖の数学が待っているものの、金曜日の正午は一時の開放感に包まれていた。部活もなく、私は家に帰るため、自転車に乗っていた。
猛暑の夏、三十二度まで上がるだろうと天気予報では言っていたけれど、灼熱の太陽光を受ける肌の体感温度は、それに三度ほどプラスしてもいいのではないかと愚痴を浴びせかけてくる。素足で触れたら火傷しそうな、アスファルトから立ち上る揺らめきが、制服のブラウスが貼りついた背中にさらなる汗を誘う。
そんな中、人で賑わう駅前の歩道を徐行しながら通っていた時、「立川瑞穂さん?」と声をかけられた。
耳に覚えがない男の子の声で、最初、聞き間違いかと思った。でも、耳に届いた名前は確かに私のものだった。ブレーキをかけ、サドルに腰掛けたまま振り返る。沢山の人が行き交う中、一人の男の子が私を見て、そして安堵したように笑った。
雷に打たれたような衝撃だとか、頭の中で鐘が鳴り響いただとかいう表現がある。一瞬で世界が薔薇色に染め上げられた、とも。
私の場合はまず、周囲の音が一切消えた。風景をまるごと覆い尽くす勢いで鳴く蝉の声も、駅の中から遠く聞こえてくるアナウンスも全て。前後左右を通り過ぎる人たちは二次元のように薄っぺらい、実在感を持たないただの影と化した。その彼だけが色彩鮮やかな、際だった存在として感じられる。汗さえスウッとひいていくような気がして、でも心拍数はズンズン上昇していった。何故か泣きたくなるような懐かしささえ覚えていた。
どうして見知らぬはずの彼が私を呼び止め、笑いかけ、人混みを縫いながら近づいてくるのか。理解できなくても、そんなことはどうでもいい気がした。
信じられないくらい容貌が整った男の子だった。眉は綺麗に弧を描き、肌にニキビ一つない。髪はバランスのいいラフさでセットされ、背は身長170センチを越す私よりもまだ高かった。白い開襟シャツに紺のパンツという制服の胸ポケットには、校章らしき意匠がワッペンで縫い取られている。ラインの綺麗なこの制服は有名なデザイナーが手がけたらしい。偏差値と授業料の高さと相まって、初等部、つまり小学校から大学まで続く、有名な私立校のものだ。
目が離せずぼうっと見惚れていた私の傍にやってきて、少し息を弾ませた彼が言う。
「やっぱりミズさんだ。そうだよね」
旧友を前にしたような、とても親しげな口調だった。
え? と私は食い入るように見ていた彼を、さらに視線で後ずさりさせられそうなほどマジマジと見つめた。
「そんなに熱い視線を注がれたら困るなあ。もしかして、僕が誰だか分からない? これじゃ、ナンパに失敗したただの勘違い野郎じゃん」
ショックなんだけど、と彼が頭をかきながら苦笑する。その姿と表情、声の調子と雰囲気を目にして、私の脳裏に一人の幼い子供の姿が浮かび上がってきた。まさかと思う。私たちの間では一番チビだったし、のんびりしていて弱虫で泣き虫だった。目前の彼は背も高く、のんびりしているというよりは、自信を持つ者特有の余裕を感じさせる。二つも年下のはずなのに、クラスメートの男子たちより余程落ち着いていた。
「もしかして、大芽……?」
驚きに目を見開いて呟いた。とても年下には見えない。
「ビンゴ!」と彼が親指を立てる。嬉しそうに綻ぶ顔を見て、ああ、と腑に落ちた。どうしてさっき懐かしさを覚えたのか。こちらに感情をそのまま預け渡すような表情。これは確かに大芽の笑顔だ。
照りつける日射しの下で立ち話、という我慢大会をする必要もないだろうと、私たちは駅に並ぶファーストフード店に入った。二人とも食べていなかったので、丁度いい。お昼時ということもあって店内は混んでいた。長い列に並ぶ時、大芽は自然に私の後ろへ立った。何かの時、たまにシンと来る時、弟はさっさと私の前へ並ぶ。ただそれだけの違いがなんだか面映ゆく、意味もなく後ろの髪を撫でつけてみた。
それぞれ注文を済ませ、番号札を貰って端の方に空いている席へ移動する。
「大芽ってお金持ちなのに、ファーストフードなんて食べたりするんだ?」
何か話題を見つけなければと妙に焦り、椅子に座る時に悪戯っぽく見えるような表情を作ってからかった。前の席に腰を落ち着けた大芽は番号札を机に、肩に掛けていた鞄を床に置く。それから眉間に皺を寄せて言った。
「そりゃ、入るって。吉牛だって好きだし、ファミレスにだって行くよ。それ偏見だよミズさん」
口を尖らせる仕草が年相応に見え、妙に安心した。私の名前も幼いときは『ちゃん』だったのが『さん』に変わっているのが背伸びのようでおかしく、つい声に出して笑ってしまった。私がどういう意味で笑っていたかが伝わったのか、大芽がますます眉間の皺を濃くする。
「やだな。子供の頃を知られてると、すんげえやりにくい。これでもクラスでは大人っぽい方だって見られてるんだけど」
「うん、それは私もびっくりした。身長も伸びてるし。今、中三でしょ? 大きくなったね、大芽」
「ミズさん、僕、今滅多に会わない親戚のオバチャンに対面してる気分」
「誰がオバチャンだ!」
拳を振り上げ殴る真似をすると、大芽がふざけたように腕を交差させて盾を作り、「冗談だって」と笑った。
その時、レジの方から私たちの番号を呼ぶ店員の声が聞こえた。立ち上がろうとする私を、大芽が手振りで押し止める。
「僕が行くよ。ミズさんはいいから荷物番してて」
戸惑う私の返事も聞かず、大芽は席を立ってレジに向かった。男子を交えて友達どうしで来ても、そんな風に言われたことがなかった。各自で取りに行くか、ジャンケンで決める。弟の場合は言うに及ばない。そういう気配りが自然にできる大芽にたじろいだし、さっきから所謂オンナノコ扱いされている自分の状態に困惑した。こんなの、初めてだった。
歩いていく大芽の後ろ姿は姿勢が良く、なんというか、何事に対しても臆していないように感じられた。ふと視線をずらすと、私よりもずっとおしゃれで可愛い子やお昼休みの綺麗なOLたちが、彼の方を見ながら色めき立ったように囁き合っている。中三の子供でも、あれだけ容姿が優れていれば社会人を相手取ることもできるんだ、と妙につかみ所がない、もやもやした煙のような感情が胸に広がった。
今まで考えたこともない、部活のために短くした手入れもしていない爪や髪が、急に気になりだした。
それから私たちは、近況を報告し合った。考えてみれば、小学校低学年の頃から会ってない。
学校のこと、お祖父さんがまだ元気なこと。今までの時間を埋めるための話題は尽きず、食べ終わっても席にしつこく粘った。携帯の番号とメアドの交換もした。
店を出ると、外はもう夕焼け空になっていた。夏の日暮れは遅い。大芽が腕時計を見ながら言う。
「うわっ、もうこんな時間になってる。あっという間だったな。ミズさん、一人で危なくない? 送っていこうか?」
やけに紳士な台詞を吐いてくれる大芽をむずがゆく思い、自転車のスタンドを足で上げながら私は笑った。そうやって騒ぎ出す鼓動を誤魔化していることに、どうか気づかれませんように。
「大芽からそんな言葉を聞くなんて、カルチャーショック」
「心外だなあ。そりゃあ子供の頃はひ弱だったけど、腕っ節は結構強くなってると思うよ。色々叩き込まれてるし」
「本当に大きくなったんだねえ」
「いやだから、そのオバチャン口調止めてったら」
「オバチャン言うなってば!」
激しく反駁した後、ふーっと息を吐いた。
「いつも部活でこれぐらいになってるんだから大丈夫。自転車だしね。それにこんな大女、襲う人いないって」
「大女って」
不満そうに大芽が呟いて、ハンドルを持ったまま立っている私の腕に触れそうなほど傍に並ぶ。近くなった距離に心臓が跳ね上がり、私は小さく肩を竦めた。
「ほら、僕だってミズさんよりちょっと高い。多分僕の身長はまだまだ伸びるよ。ミズさんは女の子なんだから、気をつけなきゃダメだって」
手を頭の高さまで持ってきて、お互いの身長を測りだす。
「わ、分かったから。でもいつものことだから、本当に大丈夫だって」
大芽の仕草にどぎまぎしながらも、さり気なく一歩分前へ進んで離れながら言った。
「ふーん。まあそれならいいか。じゃあ、テストが終わったら今度はシンも入れて、三人で遊ぼうね」
またメールか電話する、と言い置いて、大芽は駅に向かって歩いていった。電車通学しているらしく、ここの駅へはたまたま降りたのだそうだ。あのロールスで送迎されているんじゃなかったのか、とひやかすと、やめてよと顔をしかめていた。
いつまでも見送っていると大芽が振り向きそうで、それが妙に気恥ずかしい。急いで私も自転車に跨り、ペダルを強く漕いだ。頬に手のひらを当てると、やけに熱い。赤くなっていたんだろうか? 落ち着かない気持ちを押し止めるために、ことさら年上ぶってからかいを口に出していたけれど、大芽は気を悪くしなかっただろうか? 私の様子を変に感じたりしなかっただろうか?
こんな感覚初めてだった。心の中央が浮き上がり、どこまでも高く飛んでいけそうなのに、すぐ上にある不安の雲に些細なことで取り込まれてしまう。
かつてない動揺に、私は面白いくらい翻弄された。
でもはっきり分かる。
一時も同じ場所に留まろうとしない、千々に乱れるこの気持ち。
不安を遥かに凌ぐ、煌めく星のように鮮やかなこの感情。
私は大芽に恋をした。きっとこれがそう。初めての恋。
幼い頃に会っていたのだから当て嵌まるかどうかは分からない。
けれど。
こちらへ向かってきた大芽を見た時の、私たち以外を置き去りにしたかのようなあの時間。
それは、一目惚れという名の衝撃だった。
それから私たちは、よく会った。二人きりの時もあったし、シンと三人の時もあった。
大芽一筋だった私には全く縁がなかったけれど――というよりはモテなかっただけなんだけど、大芽もシンもその時々で上手に彼女を作り、学生生活を謳歌していた。大芽はともかく、私と同じで顔が平凡なシンは、同じく身長が高いというただ一点だけで女子の関心を買っていた。男女の差でこうも違うものなのか、と忌々しく思ったのは一度や二度じゃない。それでも私が一般の女子より高い身長を卑屈に思わなかったのは、大芽が私をちゃんと女の子扱いしてくれたからだ。
その大芽に彼女ができる度、私は態度に出さないように落ち込んだ。やっぱり彼女がいる間はその子優先になるうえに、何より自分がその立場にいないことが辛い。けれど、心の中では大丈夫だと自分に言い聞かせていた。携帯の画面に写る大芽の彼女は、みんな私よりもずっと可愛く小さかったものの、彼の方から告白したことはなかった。それに、私たちの間にはあの約束がある。
――僕たち大きくなったらケッコンするんだって。
彼女たちに嫉妬するたびに、幼い大芽が無邪気に言い放つ声を、幾度リフレインしたかしれない。
今は自由な時代を楽しんでいるだけ。時期がくれば、大芽は私を選ぶ。私は待っていればいい。
大芽に会うまで思い出しもしなかったくせに。
子供の約束だと取り合わなかったくせに。
振り返れば後悔ばかりが波のように押しよせる。繰り返し、繰り返し。
大芽が欲しいなら、賢しく澄ましていないで正直に気持ちを打ち明け、潔く玉砕していればよかったのだ。いいや、例え一度は玉砕しても、その姿勢を知ってもらえた上で伝え続けていれば、何かが違っていたのかもしれない。もしかしたら想いが通じていたかもしれない。例え大芽が他の誰かと結ばれて私は引導を渡されたとしても、それで区切りがつき、次の場所へ向かっていけたのかもしれない。
どちらにしても、余程よりよい道が開けていたはずだ。
頼れるお姉さんのイメージを崩せず、ありのままをさらけ出せないこの頃の自分が、どんなに浅ましく醜い心根でいたのか。大芽の目にどれほど滑稽に映っていたのか。
数年後、長い期間に渡り、私は身をもって思い知らされることになる。
そして大芽は最愛の女の子、三和史織に出会ってしまった。