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小さい頃、私は大芽を従兄弟か何かだと思っていた。月に何度か決まった日になると、黒塗りのピカピカした車が家の前に停まる。それが大芽がやってきた合図だった。
引き戸の玄関をガーッと勢いよく開け、幼い子供の声が家中に響く。
「ミズちゃん、シンくん! 来たよ。何して遊ぶー?」
大芽との思い出で、一番古い記憶はこのシーンだった。夏の暑い日、開け放たれた玄関から音波攻撃のような蝉の声が、強烈な日射しと共に入ってくる。五歳の私と、三歳の大芽と同い年である私の弟、心は、もつれ合いながら廊下へまろびでる。大芽は、くっきりと明暗の分かれた光と影の中に立っていた。
「タイちゃんっ! 今日はウチで遊ぶ番だよね。ツナギさまに行こ!」
「行こ! 行こっ!」
「うん、しゅっぱーつ!」
大芽が来た時は、ウチで遊ぶか彼の家へ行く。それが毎回交互に繰り返されていた。
「行ってきまーす!」
三人で声を揃え、後ろから追いかけてくる「帽子被ってくのよー」という母の声に押されるようにして、お揃いの麦わら帽子を被った私たちはいつも飛びだしていった。
ウチの近所には湾があり、十分で一周できるくらいの小さな島が二つ連なって浮かんでいる。手前の島には堤防から続く朱塗りの橋が渡っていて、小さな神社が佇んでいる。潮が引くとそれぞれの島を繋ぐように道が現れ、行き来することができる。それが所以でその神社はツナギさまと呼ばれていた。大芽が来た時は、大抵ここで遊んでいた。
大芽はおっとりとしていて私たちの中でも一番チビで、活発な弟と比べてトロかった。転んで全身濡れ鼠になった大芽をおんぶして、ビシャビシャになった彼の靴を弟に持たせて家に帰ったことも幾度となくあった。
大芽の家へは、彼が乗ってきた大きな車で向かう。中にはカーナビの画面よりもっと大きなテレビや冷蔵庫、それから向かい合った広い座席があり、私と弟はこの車に乗るのが好きだった。これがロールスロイスのリムジンであると知ったのは、もっと大きくなってからの話だ。
運転手さんは狭い住宅街を巧みに走り抜け、国道を通る。その間、私たち三人は家に着いたらかくれんぼしようよとかはしゃぎ回る。大きな門に入ってもまだ大きく迂回し、やっと辿り着く先が大芽の家だった。
大芽のお母さんは、彼が生まれた時に亡くなっている。難産が原因だったそうだ。会社の社長であるお父さんは常に忙しく、大芽はかなり寂しい思いをしていただろうと思うけれど、彼はそれを私と弟に見せようとはしなかった。ただ時々、私たちを見て「ボクにも兄妹がいたらよかったな」と羨ましそうに呟く時はあった。
大芽の部屋に沢山あるオモチャを一通り触った後、お手伝いさんが持ってきてくれたおやつを食べる。この家で食べるケーキも楽しみだった。それからかくれんぼをするため、広い家中に散らばるのが大体のパターンだった。
「お祖父さん、隠れさせて」
「やあやあ瑞穂ちゃん、よく来たね。さあ、こっちへおいで」
手招きしてくれるお祖父さんに笑いかけて、後ろ手に扉を閉める。
数年前と違って息子に事業の大部分を任せたお祖父さんは、大芽のお父さんほど忙しくなかったようで、私たちが訪ねていった時は大抵家にいた。いや、本当は多忙だったのかもしれないけれど、それを私たちに悟らせようとはしなかった。今思えば、他に家族のいない大芽の為だったのかもしれない。
お祖父さんの部屋は、透明なボールの中に青い地球が入っている天球儀、飛行船のモービルや魚の骨のパズル、壁一杯の本棚なんかで埋め尽くされていて、私は入る度にわくわくしていた。サファイアブルーの海と白い浜辺を模した箱庭には、イルカと海パン姿の少年が交流する一場面が切り取られていて、それを眺めながら自分が一緒に泳ぎ回っているシーンを夢想したりしていた。
机に向かっているお祖父さんは、私に色んな話をしてくれた。
「瑞穂ちゃんは輪廻という言葉を知ってるかい?」
「りんね? 何それ?」
「ははは。ちょっと難しかったかな。生まれ変わるって意味だよ」
「うまれかわる? どういう意味?」
「人や動物は死んでも、また別の何かになって生まれてくるってことだね」
「生まれるって知ってる。大きかったお母さんのお腹がへっこんで、赤ちゃんのシンが家に来たことだよね」
「そうだよ。死ぬとはどういうことか分かるかい?」
「……タイちゃんのお母さんがいなくなった」
「お利口だね。よく分かってる。生まれることと死ぬこと、どう違うと思う?」
「んー。シンを初めて見た時は、柔らかくて小さくて可愛くて、胸の中がフワフワした。タイちゃんのお母さんには会ったことがないけど、タイちゃんが寂しいのは嫌だな。こっちまで胸の中がモヤモヤする」
「大芽が寂しいと言ったの?」
「ううん。タイちゃんはそんなこと言わないし、私も言わない。言っちゃいけないの。でも、なんとなく……」
「そうか。大芽を気にしてくれるんだね、ありがとう」
「お姉ちゃんだもん!」
「頼もしいな。あの子はのんびりしているからね、心強いよ」
「任せて!」
「はい。大芽のことをよろしくお願いします。ところでなんの話だったかな? ああ、輪廻だ。瑞穂ちゃんは神社とかお寺に行ったことある?」
「あるよ。ツナギさまだって近くにあるし、お墓参りはお寺に行ってる」
「そうかい。お祖父ちゃんもよく神社にお参りに行くよ。家には神棚と言って神様の場所もある」
「神様がおうちにいるの?」
「そう。住んでもらってるんだ。神社にもお寺にも神様がいて、おじいちゃんは神社の神様をお奉りしている。でも、輪廻を説いているのはお寺の神様の方で、神社の神様は別の考え方を持っているんだ」
「お祖父さんは神社の神様が好きなのにりんねを信じてるの?」
「そうだよ。だって、お別れした誰かにまた会えるなんて、凄いことだと思わないかい?」
「じゃあ、タイちゃんはまたお母さんに会えるのかな?」
「もしかしたらね。今の生では会えなくても、次の生でまた親子になっているのかもしれない」
「へー。そうだったらいいな」
一言一句覚えているわけではないけれど、確かこんな内容だったと思う。五歳の子供に輪廻なんて単語を使うなんて、お祖父さんは随分とアカデミックな人だったのだろう。当時は言っていることの半分も理解できていなかった。でもそれを見透かされるのが嫌で、私はそれらしく聞こえるような答えを一生懸命考えて返していた。
それからしばらくして「またじいちゃんのところにいる! ずるい!」とわめく鬼役のシンに私は発見された。
全てが楽しかった。見る物、体験する事柄、何もかもが虹色にコーティングされてキラキラしていた。
降り注ぐ蝉の声。太陽の光を弾き、宝石のように輝く水しぶき。そよぐ風に揺れる木漏れ日の涼しさ。かくれんぼで見つからないように息を潜めるドキドキ感と、探し当てられた時の嬉しいガッカリ感。明日もきっと浮き立つような出来事が待っているはずだと、何も憂える必要のなかった透明な時間。泥にまみれてもただただ無邪気でいればよかったこの頃が、私が大芽と過ごした中で一番幸せな時期だったのかもしれない。
小学三年生の頃、シンが風邪で寝込み、私だけが大芽の家に行ったことがあった。その頃になると私は学校の友達と会う方が楽しく、彼とは月に一度遊べばいいくらいになっていた。でもシンと大芽はまだ仲が良くて、せっかく迎えにきてくれたのだから、と母に説得されて頷いたのだった。友達と約束があったのに。不承不承だった。
大芽の部屋で二人、カーペットに座ってプレステをしていた時だった。視線は液晶画面に向けたまま、コントローラーを握った指を動かしながら小一の大芽は言った。
「ミズちゃん知ってる? 僕たち大きくなったらケッコンするんだって」
「僕たちって?」
「だから、ミズちゃんと僕」
大芽と同じく画面に目を向けていた私は、そこで初めて彼を見た。すると、やった! と大芽が片手でガッツポーズを作る。視線を元に戻すと、画面の右半分、私の方はゲームオーバーになっていた。でも彼の落とした発言に度肝を抜かれていた私には、勝ち負けなんてどうでもよかった。その時点で私はまだ父から何も聞いていなくて、婚約のことなんて知らなかったのだ。
「結婚って、大人の男の人と女の人がする? なんで私が大芽と?」
昔と違い、私は大芽を呼び捨てにしていた。下級生をちゃん付けするなんて、年上のすることではないと偉ぶっていたのだ。私が再び大芽に目をやると、勝利の余韻に浸っていた彼もこちらを向く。幼い顔がニコニコと笑っていた。
「お祖父ちゃんとミズちゃんのお父さんで決めたんだって。僕はミズちゃんのことが好きだから嬉しいな。ミズちゃんは嫌?」
「嫌とかじゃなくて……」
私はカーペットにコントローラーを置き、キュッと眉根を寄せた。さすがに九才にもなると、結婚が表す大体の意味は掴めてくる。まあ具体的なことはともかくとして。少なくとも、幼稚園の先生と結婚する、という気軽さで口にできる単語ではなくなる。でも、大芽はまさに『幼稚園の先生と結婚する』というおおらかさで言っているように思えた。彼は子供である私よりもさらに子供で、私にとっては弟と同じような位置にいた。弟と結婚なんてできるはずがない。
上級生のお姉さんとしては、はっきり断って傷つけていいものか迷う。
拳を口に当てて考え込んでいる私を見て、断られそうだと不安に思ったのか、大芽が両腕を広げ、振り回しながら口を開く。
「お祖父ちゃんとお父さんは、僕が泣き虫でワガママ言うとミズちゃんとケッコンできないよって脅かすんだ。道場にもちゃんと通って強くなるよ。タマネギも好きになるよ、夜も早く寝るよ、オモチャだって全部あげる。だから僕とケッコンしようよ!」
焦ったように早口で大芽は言った。私は幼稚園の時、リョウタ君にプロポーズされたサヤ先生の返事を思い出して、大きく頷いた。
「分かった。いいよ。大芽がいい子になって、強くなって大人になったら結婚しよう」
成長の過程で忘れることを前提に交わしたいい加減な約束。後年、それに縋りつきたくなるのが大芽ではなく私の方だなんて、想像もしていなかった。
ともかくも、この出来事はすぐに私の記憶から追い払われた。それぞれの生活が忙しくなった私たちは疎遠になり、大芽と再開したのは私が高校生になってからだった。