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巡る軌跡  作者: せおりめ
19/21

日記 1

「ねえちゃん、服破けた!」

「あーあ、それ、昨日お母さんが買ってきてくれたばっかりのやつ。お母さん、怒るかも」

「だって、枝に引っかかった」

「じゃあちゃんと、ごめんなさいすればいいよ」


 口を尖らせて立っているシンの服の裾を、膝を着いた瑞穂が手で摘む。しょうがないなぁ、という表情で。

 ほんの些細な、家族だけに関係する会話。瑞穂もシンも大芽と仲良く遊ぶ。けれど二人が大芽が知らない従兄弟の話をする時、大芽が見ていない昨夜のテレビを面白可笑しく思い出す時、割って入れない疎外感を覚える。いつも面倒をみてくれる、優しい瑞穂と同じ家に帰れるシンが、ひどく羨ましかった。



 開け放った窓から覗く日射しは強く、空気は熱せられている。エアコンはついていない。じっとり浮いてくる汗を、時折木々の間を通って吹いてくる風が冷やしてくれる。蝉の声がシャワーのように降り注ぐ午後の昼下がり。

 生活必需品がほぼ揃っている十二畳の部屋の隅。座椅子に座る大芽が赤いハードカバーの表紙を閉じると、部屋の中央にあるソファのさらに向こう、ほぼ対角線上にある扉が開いた。

 顔を上げ、入ってきた人物に呼びかける。


「徹さん」

「いたんですか、大芽さん」


 感情を窺わせない声音と表情で神崎が答える。いつも冷静沈着な男は長居するつもりはないというようにドアを開けたまま、向かいにあるシステムデスクへと歩いていった。


「私物を取りにきました」


 そう言って、机の上に乗っているノートパソコンの配線を纏めだす。

 大芽は座ったままの姿勢で片膝を立てた。全身の骨折箇所は、何かの折りに小さく痛む程度にまで回復している。


「昨日はミズさんの葬式に出席してくれてありがとう」

「大芽さんに礼を言われる筋合いはありません。瑞穂さんにお別れをするために参列したんですから」


 相変わらずこちらを見ようともしない、そっけない態度に日記の内容を思い出す。大芽は忍び笑いを漏らした。


「徹さん、服装センスが悪いんだってね」


 揶揄を込めた大芽の言葉にようやく神崎がこちらを向く。これに書いてあった、と大芽が瑞穂の日記を掲げて見せると、僅かに目を細められた。剣呑に。

 視線の先にいる男は出勤しているわけではないから、スーツではない。しかしストライプの七分袖シャツ姿は適度にきっちりして見え、小物を使用しなくても存在感のある様子は、服の値段とスタイルだけではない、感性の良さを思わせた。日記にはぴっちりと撫でつけているとあった髪も、服装の雰囲気を壊さない格好にセットされている。髪質を上手く利用した髪型だが、瑞穂は神崎がクセ毛であると気づいていただろうか。

 パソコンへと目を戻し、神崎が無言で作業に戻る。

 気にせず大芽は続けた。


「そういえばミズさんに謝りに行った日、確かにそんな感じだったよね。あの日は突っ込むどころじゃなかったけど。お祖父ちゃんの秘書をしてた時は、モテてモテて困ってたぐらいなのに。ミズさんに好きになられると困るから、わざと四角四面な格好をしてたの?」


 大芽の祖父が存命だった頃、自宅や会社で顔を合わせていた神崎は、今と同じく男の目から見ても憧れたくなるようなスーツ姿だった。瑞穂の様子をしたためた報告書は緊急時以外、週に一度手渡しで受け取っていたが、間違っても役所の職員を連想させる外見ではなかった。

 それがどうして、と純粋に、不思議に思う。


「逆です」


 不意に神崎が淡々と呟く。大芽は「え?」と聞き返した。それでも神崎は振り返らないまま言う。


「瑞穂さんについては、会長からよく伺っていました。好意的にしか語られない人物像に、親しみ寄りの興味を抱いてしまうのは当然というものでしょう。まあそうでなければ大芽さんの依頼など受けませんでしたが。相手は夫に放って置かれている人妻だ。しかも室内では常に二人きり。妙な気を起こさないように、形だけでも整えておいた方がいいと思ったんですよ」


 あまり面白いとは取れない返事に、今すぐ立ち上がりたくなるような焦れる気分が湧き上がってきた。抑えるように立てた片膝を抱き、大芽は問いかけた。


「徹さん、ミズさんのこと好きだった?」


 配線を纏め終えた様子の神崎が身体ごと大芽に向き直る。机によりかかって腕を組み、からかうように口を歪めた。大芽の手にある赤い表紙の日記を指さす。


「そこに書いてあったと思いますが」


 大芽は立てていない方の膝に日記を乗せ、指の腹で赤い表紙をそっと撫でた。固くざらついた手触り。棺に納まった、温度と滑らかさを失った瑞穂の頬と、よく似た感触だった。


「まさか、徹さんがミズさんに落ちるとはね」

「大芽さんの方こそ」

「何?」


 日記に手を置いたまま、大芽は顔を上げた。神崎の表情には、もう笑みは残っていなかった。


「出棺前のあれは、どういうパフォーマンスです?」

「パフォーマンスって?」


 問いかけるような表情を作り、大芽は白々しくとぼけた。神崎が、ピクリと片眉を動かす。


「御遺体にキスする人間なんて、私は初めて見ましたよ」

「死さえも断ち切ること能わぬ美しき夫婦愛、とか」


 大芽の軽口には取り合わず、さらに神崎が詰問する。


「それにその指輪」


 今度は左手を、鋭い目つきで注視された。


「今さらなんのつもりですか」


「これ?」と大芽は神崎によく見えるよう、甲を向けて左腕を挙げた。薬指には、瑞穂と揃いのデザインの、結婚指輪がはまっている。なんだか芸能人の記者会見みたいだと、呑気なことを考え微笑した。


「奥さんが死んだからって、外さなくちゃならないって決まりはないでしょ」

「その奥さんが亡くなる前は、していなかったでしょう。愛する妻を失った悲劇の夫でも演じているんですか、くだらない」


 神崎の声に苛ついたような調子が混じっている。瑞穂に関することではこんな風に感情を覗かせるのか、と大芽は内心で目を瞠った。報告書のやり取りで定期的に会ってはいたが、事務的な会話を二、三して、神崎はすぐに席を立っていた。


「そりゃあ悲劇の夫だよ。配偶者なのに奥さんが致命的な病気になっているのも知らされないで、やっと分かった四日後にはもうお別れになってしまっただなんて」

「そうさせたのは誰です。日ごとに酷くなっていく辛い症状が、恐ろしくなかったはずがない。不安を誰に一番和らげてほしかったのか。誰に一番分かってほしかったのか――。教えてあげましょうか。瑞穂さんが、どうしてあなたに知られるのを嫌がっていたか」

「そんなのこれ見りゃ分かるよ!」


 思わず声を荒げてしまい、肩が上下する。いつの間にか、身を乗りだし神崎を睨んでいた。気を落ち着かせるために深呼吸し、汗が滲んだこめかみを腕で拭う。対照的に神崎はエアコンが効いている部屋にいるような、涼しげな顔をしていた。この人は温度を感じているのだろうか、と常識外れな疑問を抱き、すぐに一蹴した。知らず、力を込めて日記を掴んでいたことに気づき、手を緩め、詫びるように赤い表紙をまた撫でた。

 日記には、全てが書かれていた。幼い頃の思い出。再会の日から瑞穂がどれだけ大芽を想っていたのか。そして、大芽の行動がどれだけ瑞穂を苦しめていたのか。倒れる間際、瑞穂が自分の気持ちにどう決着をつけていたのか。

 内心では激していた様子の神崎も、冷静さを取り戻したようだった。相変わらず腕を組んだまま、静かな声と無表情で言う。


「当ててみましょうか」


 大芽は力を抜くために、両膝を伸ばして座り直した。瑞穂の日記を胸に抱いてから、何を? と返事した。


「大芽さん、あなた瑞穂さんのことを愛していたんでしょう。――三和史織嬢よりも」

「愛してるなんて、よくそのポーカーフェイスですごい台詞を吐けるよね」


 茶化して見えるように無理して口の端を持ち上げながらも、しらを切り通せるとは思っていなかった。否定する意味もなかった。

 胸から瑞穂の日記を少しだけ離し、赤い表紙を見つめたまま大芽は答えた。


「好きだったよ、ずっと。事故るまで認めてなかったけどね」



 子供の頃、大芽は単純に瑞穂と家族になれたらいいと願っていた。大芽には母親がいない。しかしほぼ産まれた頃からそうであり、父も祖父も、それから母親代わりの沢村がいたため、親に類する人間は特に欲しいと思わなかった。けれど立川家に行くと、大人ではない同じ年代の子供が二人以上、同じ屋根の下で住んでいる。夜になってもお別れしなくていい、いつでも一緒に遊べる存在がいる。

 特に瑞穂は年下の大芽に優しく、よく面倒をみてくれた。転ぶと慰め、おやつも分けてくれた。昼も夜も瑞穂といられるシンを、羨ましく思った。兄弟が欲しいと父親に告げようと思ったことはあったが、幼いなりに無理だと感づいていたからやめておいた。それに、瑞穂でないと意味がないと思った。

 だから祖父から瑞穂との婚約を知らされた時、幼い大芽は喜んだ。自分が好き嫌いの多い、弱虫の子供だということは知っていた。強くなれば、大人になる頃には瑞穂と家族になれると教えられ、克服するよう務めた。小学校に上がって立川家と疎遠になり、自分を鍛えようとした理由が何だったのかが曖昧になっても、習い性のような努力は続けていた。


 中学三年の夏。ふと思いつき、普段であれば用のない駅に降りた。テスト期間中で帰宅時間が早く、また週末ということもあり、心の一部分が退屈を起こしていたのかもしれない。かつて立川家との行き来は常に車で、そこが最寄り駅であるとは知りもしなかった。またその時は、幼い頃に数年間遊んだだけの人間のことなど、頭に浮かんでもいなかった。

 駅を出て周辺に何があるのだろうと見渡し、自転車に乗った一人の姿を目にして突然記憶が渦を巻いた。いまわの際に浮かぶという走馬燈のような記憶とは、こういう状態を指すのではないかと脳の一角が感想を述べた。

 本人だと確信した喉が、逃してたまるか、と大芽の意志よりも早く行動を起こしていた。

 成長した瑞穂は特に目を引く容姿をしていなかった。大芽を目下の、弟のように扱おうとする態度には酷く懐かしさを感じた。ただ、瑞穂の目線が大芽よりも僅かであるが下になっているのを発見し、幼い頃との違いに無邪気な嬉しさが込み上げてきた。記憶の中の大芽は、常に瑞穂を見上げていた。

 彼女は別にいたが、瑞穂と会うのを止めたいとは思わなかった。背が高いせいか、人混みの中でも瑞穂の姿は目立ち、すぐに見つけられた。シンを交えて三人で遊ぶのも昔に戻ったようで楽しかった。

 瑞穂と二人で過ごした後日、彼女に浮気だと責められた。大芽はその子とは合わないと判断し、じゃあ別れようと告げた。大事な幼馴染みと会うことに邪推を挟まれても、迷惑なだけだった。先程まで彼女という立場だった女の子が泣き出しても、特に慰めようとは思えなかった。

 その後二年経っても瑞穂との関係は変わらず、彼女は大芽を弟扱いしたがった。お互いが高校生と大学生では、それもしょうがないかと頭で折り合いをつけていた。その間も大芽は新たな彼女との出会いと別れを何度か繰り返した。


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