18
日記をつけようと思い立った。神崎さんにお願いすると、赤いハードカバーの随分立派な日記帳を買ってきてくれた。気分のいい時を選んで思い出せる限り、今までの出来事を書き綴っていった。自分史、というほど大袈裟な物ではなく、楽しかったことも辛かったことも、ありのままに書くよう留意した。ある時ページをめくっていると、神崎さんに読ませてほしいと頼まれた。恥ずかしいから私が死んだ後だったら特別に読ませてあげます、と言っておいた。
億劫な身体を宥め、神棚のお奉りはずっと続けていた。大芽の事故以降はこの行為も贖罪の一つになるかと、動作の一つ一つをより丁寧にするよう心掛けた。お祈りの時に延命を願おうとは思わず、大芽の回復を思い描いた。
病気は確実に進んでいるようだった。微熱がずっと下がらず、時には高熱になった。貧血は相変わらずだったものの、痛みがますます酷くなっていた。薬はより強いものになり、飲む回数も増えた。
腰骨を貫くような痛みに苛まれ、二度ほど意識を失った。どちらも神崎さんがいる時で、病院へ運ばれて医師に入院を勧められた。三度目の時は必ずと約束して、家に帰った。せめて大芽が退院するまで、彼の耳に余計な情報を入れたくない。神崎さんは、私の意志を尊重してくれた。
薬の影響なのか病気のためなのか、食欲が落ち、固くて味が濃い食べ物は胃が受けつけなくなった。
幸い沢村さんの料理は薄味の煮物が多くて助かっていたけれど、それも段々残すようになった。残した物から沢村さんに体調を気づかれてはいやなので、でも捨てるのが忍びなくてタッパーに入れていると、神崎さんが食べてくれるようになった。時には持ち帰り、自炊の手間が省けていいとまで言ってくれる。白米までもが食べ辛くなる時がある私に、おかゆを買ってきてくれるようになった。
巴には、当分仕事はできなくなったとメールで断りを入れた。なんでも打ち明けて相談に乗ってもらっていた巴に、病気を告げられなくて心苦しい。何度も教えようとして、考え直した。訳を問いただそうとする巴には、次に会った時に理由を話すと返事して、納得してもらった。閑散期でよかった。会える時が来るかどうかは考えないようにした。
沢村さんの態度は目に見えて軟化した。大芽の見舞いに行こうと誘ってくれ、申し訳なく思いながら断ると、彼の様子を教えてくれるようになった。回復は順調なようで、聞く度に私も安堵した。大芽は事故日から三週間後に退院予定なのだそうだ。
夜、ベッドへ入るたびに死の恐怖に襲われる。痛みにもがき苦しむ自分がそのまま冷たくなり、翌朝神崎さんに発見されるという想像が何度か頭をよぎった。そんな自分を、もう一人の私が冷静に観察しているように思えた。日が昇ると、個々の営みは大きく絶対的な流れの一部として組み込まれていると、なんとなく感じるようになった。
朝から蝉が凄い勢いで鳴いていた。日射しが強く、まだ正午まで何時間かあるのに、座っているだけで汗が噴き出てくる。高台の涼しい場所に立っているこの家も、酷暑の中では恩恵が薄れるようだ。
大芽が退院してから約一ヶ月経ったある日、私はとうとう入院を決めた。薬だけでは痛みを抑えられなくなり、自宅療養に限界を感じてしまったからだ。大芽はギプスも外れ、元気にリハビリへ通っているらしい。もう頃合いだろうと思った。
部屋を出る時に、室内を見渡した。腰と背中に燻る痛みを意識して、もう戻れないかもしれないと考える。
不思議な感覚だった。一時期は決して出られない檻のように感じていた場所が、無性に懐かしく愛おしい。神崎さんと過ごした私の姿が貴重な時間の中に漂っているようで、かつての私に羨望に近い気持ちさえ覚えた。
首を巡らせる私を、いつもの無表情な神崎さんは黙って見ていたようだった。
「行きましょうか」
荷物を持って待ってくれている神崎さんに告げ、先に立って部屋を出る。
「ミズさん」
肩が跳ねた。
柔らかい音が、私の耳をくすぐったと思った。この声に呼ばれると、どうしようもなく私の心臓は激しくなる。耳も目も、身体全部が踊り狂う鼓動にだけ支配される。私は切なくなる想いで下階と吹き抜けになっている廊下の先を見た。
背の高い、大人の男性が歩いてくる。ジーンズにTシャツというただそれだけの砕けた格好が、雑誌から抜け出てきたかのようだった。横たわっていた弱々しい姿からは想像もつかない、生気に溢れた姿。足取りはしっかりしていて、リハビリ中だと感じさせない。
長い足を何歩か動かして、大芽が目の前に辿り着いた。見上げる端正な容貌には刺すような気配はなく、躊躇うような雰囲気に私は戸惑った。さっき呼ばれた声にも、棘は含まれていなかったような気がする。
「あ、神崎さんに用事なら」
まとまらない頭のままで、身体を横へずらした。
「違うんだ。ミズさんに話があって」
引き留めるように手を上げて紡がれた言葉が遠慮がちで、私は寄る辺ない思いで神崎さんを窺った。表情を動かさないまま問題ない、というように頷かれ、私は再び大芽に向き直った。
大芽がきまり悪そうに、首の後ろへ手をやる。
「事故った日、来てくれてたって聞いてて、お礼をいわなきゃと思って。遅くなったけど」
ありがとう、と礼儀正しく大芽は頭を下げた。
顔を上げ、先程よりもわだかまりが解けたような表情でさらに言う。
「病院から出る時具合悪そうにしてたって聞いたから、それも謝らなきゃって。大丈夫だった?」
「え? あ、ああ、あんなのはなんでもないから」
なんでもないどころかこれから入院するつもりなのだけれど、反射的に私は手を振りながら否定していた。緊張しすぎて指先の感覚がない。答える声を、大芽は変に思わなかっただろうか。家の中に音波をねじ込ませている蝉にまで、何をやっているんだと呆れられているような気がした。
ふと、大芽が目線を落として苦く笑う。
「ああこんなんじゃ駄目だな。もっと大事なことを言いにきたのに」
真面目な視線が私を捉えた。透明感のある、真っ直ぐな目だった。
「散々なことをしておいて、今さら何を言っているんだって腹が立つと思う。許されるとも思ってないし、僕にできる限りの償いはする。どれほど罵倒しても、殴ってくれても構わない」
「どうしたの。一体何を――」
「ミズさん」
たじろぐ私の注意を引くように名前を呼び、決然と大芽は続けた。
「史織の死には、ミズさんとお祖父ちゃんは関係なかったんだ」
目を見開き絶句する。そのまま時間が止まったような気がした。胸辺りの服を掴み、無意識に後ずさると、背中が神崎さんに当たって止められた。
「お祖父ちゃんの初七日が終わった次の日、また史織の家へ行ってたんだ。ご両親に謝ろうと思って。そうしたら、すぐに否定されたよ。お祖父ちゃんは確かに見舞いに来ていたけれど、婚約のことは何も言っていなかったって。それどころか、僕のことをよろしく頼むと史織に告げていたって」
六年越しの真実に、私は血が沸騰するようなショックを受けていた。あの次の日にはもう、大芽は何もかも知っていた。
じゃあ、今までの私は――
私を憎む大芽の目。過ごしてきた辛い日々。もう取り返せない時間たち。言葉にできない竜巻のような思いばかりがぐるぐる頭の中を回っていた。
怒り狂うべきなのか、歓喜にむせぶべきなのか。混乱して二の句が継げない私を見て、大芽が恥じ入るように俯く。前髪が、さらりと零れた。
「史織はね、僕に容態を隠していたらしいんだ。ずっと危なくて、でも僕にだけは知られたくないって。史織の死は誰のせいでもない、必然だったんだよ」
史織さんの気持ちが分かるような気がした。私の場合は大芽の反応が怖かっただけだけれど、誰だって好きな人の悲しむ顔は見たくない。元気に笑う自分の姿だけを留めていてもらいたい。
「でも僕はそんな事実も、気づいてしまった自分自身の勝手な部分も認めたくなくて、全部ミズさんに被せてしまった。あの時に、あんなことを言うからと。僕自身で処理しなければならない問題だったのに。ミズさんは昔からどんな我が儘でも受け止めてくれたから。自分でもガキだったと思う。何年も辛く当たってきておいて、甘えてしまってなんて言葉で片づけていい問題じゃないんだけど……」
ごめん、と俯いた頭をますます深く下げ、泣きそうな声で大芽は呟いた。
――お祖父さんは、分かってくれていた。誰も、何も悪くなかった。
突然頭の中にきらきら輝く綺麗な光が射し込んできて、澱んだ闇が取り払われたような感覚だった。
なんだ、そうだったのか。
全てが詰まった言葉で、心が凄い勢いで満たされていくのが分かる。
もういいの。
いいんだよ、大芽。
例え真実が異なっていたとしても、用意された環境、感じたこと、与えられた事実こそが私にとっての本当だった。思い込みの真実の中で、私が二人の気持ちをないがしろにし、一人で逃げようとした罪は消えない。無くならない。
私には、責められない。
「大芽、もう――」
彼の頭を上げさせようと、一歩前へ出たその刹那。
腰から背中にかけて、氷柱で突き上げられたような衝撃に見舞われた。身体が伸び上がるように硬直する。息が止まり、こんなに暑い日なのに悪寒で全身に鳥肌が立った。
大芽はまだ謝り続けている。
幼い頃から、ありがとうもごめんなさいもきちんと言える子だった。同じ悪さをして叱られた時、シンは不満げに頬を膨らませ、大芽は素直に謝った。
史織ちゃんがいなくなって、どうしようもなかったんだよね。
悲しすぎて、心が潰れそうで、私にぶつけてしまったんだよね。
大丈夫だよ。お祖父さんとも約束したから。私はお姉ちゃんなんだから。
「瑞穂さん!」
前のめりに身体が傾ぎ、後ろから鋭い声で呼ばれた。
異変を察知した大芽が顔を上げ、咄嗟に伸ばした両腕に受け止められる。
「ミズさん? 顔色が」
リハビリが終わっていない大芽にはさぞかし負担だろう。それに、まだちゃんと言ってあげてない。
身体を起こそうとするものの、手にも足にも力が入らない。息を吸い込もうとしても、腹部に妙な圧力がかかって痙攣するだけだった。身体は凍りつきそうに冷え切っていて、それなのに汗が背中をじっとり濡らす。目の前は真っ暗になっていた。
私の名前を呼び続ける大芽の声の向こうで、蝉が音で網を張るかのように鳴いている。
弾むような歓声をあげているのは、木陰の中を走り回る幼い私たち。
大芽の家ではかくれんぼ。私が隠れる場所は、いつも決まってお祖父さんの机の下。
もしも。
もしもお祖父さんが信じていた通り、輪廻というものがあるとしたら。
生まれ変わったら。
ねえ大芽、私たち、今度は本当の姉弟として産まれてこよう。
仲間はずれは可哀想だから、シンも誘ってあげようか。私が一番上のお姉ちゃんで、シンが二番目。二人で大芽の誕生を、心待ちにしているから。
そうしてみんなでツナギ様へ行って、くたくたになるまで遊ぼう。イジメッ子が来たらやっつけてあげる。疲れて歩けなくなったらおぶってあげる。おやつの分けっこもしよう。とっても仲良しの姉弟になって。
大芽は史織ちゃんを連れてきてあげて。可愛い弟の彼女に、最初は嫉妬するよ。
でも、世界中の誰が反対しても、私だけは二人の味方でいるから。
今度こそ、心から二人の仲を祝福するから。
心配そうに名前を呼ぶ大芽の声が聞こえる。
苦痛から解放された意識が闇に沈む中、抱き締めてくれる大芽の腕が陶酔するほど気持ちよくて、私は充足感に包まれていた。
神様、あなたは残酷で――そしてとても慈悲深い。