17
数時間にも及ぶ手術の末、大芽は命を取り留めた。磨りガラスの自動ドアが開き、医師が満足げな顔で告げる結果を聞いて、おじさんが深く息を吐き、沢村さんはハンカチを握り締めて盛大に泣き出す。私の腰は安堵のあまり抜けてしまった。
その後大芽は集中治療室へ運ばれ、私たちも十五分だけ面会許可が降りた。原則として身内の者以外は禁止らしかったものの、沢村さんは幼い頃から母親代わりに大芽の面倒を見てきた。そう力説し、おじさんが医師にねじ込んだ。この中で一番接触の薄い私が、妻というだけで問題無く許されるのだから、この時ばかりは肩書きに感謝した。
集中治療室に入るのは初めてだった。室内は広く、数台のベッドが等間隔で並んでいる。各ベッドの周りには、一セットのようなモニタや機械が配置されていた。
想像していたような無菌室、といった物々しさはなく、室内へ入る時も手の消毒と履き物をスリッパに替えるだけという簡単さだ。端の大窓に掛けられているブラインドから覗く外は明るく晴れていて、もう夜が明けていたのだと気づいた。院内は一定の温度に保たれているけれど、外は結構な暑さに違いない。
ベッドは半分程が埋まっており、時間外ということもあり、私たち以外の面会人はいないようだった。数人の医師や看護師が手慣れた様子で動き回る中、大芽は部屋の真ん中辺りのベッドに横たわっていた。
顔を見るのはもう四年ぶりになるんだろうか。大芽もそろそろ二十七になるはずだ。そこにはすっかり成長しきった大人の男性の姿がある。面立ちの端正さは変わっておらず、けれど知っているような知らない人だという曖昧な心地を覚えた。
眠っているらしい大芽は呼吸器のマスクを着け、点滴や計測のモニタ、あとよく分からない器具から伸びる管に繋がれていた。熱が出ているらしく、後頭部には氷枕を敷いていた。少し苦しいのか、呼吸が浅く見える。
医師の説明によると、早ければ三日で一般病棟に移れるとのことだった。肺の傷が塞がってしまえば、若くて体力があるからぐんぐん良くなっていくという。
私たちは顔を見合わせて喜び合った。改めて医師と看護師に感謝の意を伝え、眠り続ける大芽の傍で、十五分いっぱい過ごした。
そろそろ時間だと告げられた。案内されるおじさん、沢村さんが入口へ向かって歩き始める。きっと目を覚ませば、大芽は私を傍へ近寄らせない。これで最後と大芽の顔に目を移した時だった。
マスクに覆われた大芽の口元が、動いたような気がした。すぐ近くには医師も看護師もおらず、どんどん進んでいく二人を気にしながらも、よく見ようと腰を曲げ、大芽の顔へ近づいた。
やはり、呼吸の合間に何かをしゃべっている。目は閉じられたままで、少し汗ばんでいる。熱のせいで出てきたうわごとのように感じた。マスク越しだから聞こえるかどうか、膝を着き、試しに口元へ耳を近づけた。
瞬間脳裏に、待受画面で見た、華奢で可愛い女の子の顔が浮ぶ。
私は大きく息を吸い込んだ。
大芽は途切れがちに、「しおり……」と漏らしていた。喘ぐような、呻くような声で。何度も何度も。十九で刻を止めた、最愛の女の子。苦しい時に大芽が思い浮かべるのは、やっぱり史織さんなのだ。
苦笑するしかなかった。
そして、今さらな敗北感を再び植えつけられた私の耳が、どうしてさらに小さな、消え入りそうに落とされた呟きを拾ったのか。
「――史織、ごめん」
私は喉の奥から出てこようとする大きな何かに耐えるため、わななく唇を噛み締めた。大芽が求め探るように布団から手を伸ばす。小刻みに定まらない両腕をなんとか叱咤し、迷い子のような手を包み込んだ。
私よりもずっと温かかった。目頭に、その熱さが移ってしまったと思った。
「大芽」
繰り返し許しを請う顔が、よく知っていた二十歳の青年のものとダブる。私は包み込んだ温もりごと、自分の手を額に当てた。
詰まったような喉からせいいっぱいの声を絞り出した。
「大芽――ごめんね」
やはり、罰だったのだ。
大芽はずっと慚愧の念に苛まれていた。史織ちゃんを守れなかった自分が不甲斐なくて、忌々しくて。
和やかで、気配り上手な少年だった。私の裏切りによる史織ちゃんの死は、素直な性質を歪めるほどの圧力を、大芽に加え続けていた。
大芽は今でも謝り続けているのに。
私はどうだった。ほとんど史織ちゃんのことを思い出さず、ただ日々の不遇に嘆いているだけだった。優しくしてくれる人が傍にくれば、その人の肩に境遇を預け、一人だけ逃れようと。
大芽を恨む気が起きないなどと、勘違いも甚だしい。どうしてそんなに思い上がった考えを持てたのか。大芽が私の姿を見るたび苛立ち、許せないのも道理だ。
手を差し伸べてくれた神崎さん。目を惹きつけられた、仮面を溶かして成形し直したような表情が蘇る。
――背筋が伸び、立ち姿が凜とした人だと。
私がコンプレックスだった身長にも負けず、背中を真っ直ぐにしていられたのは、大芽が女の子扱いしてくれたから。
なんて愚かだったのだろう。
傍にいてくれた人も。
彼が言ってくれたあの台詞も。私を助けてくれたものは、大芽が与えてくれたのだ。
大切なことを全て都合良く忘れるほど、私には自分しか見えていなかった。
覆った大芽の手に握り返すような力を感じ、縋るような思いで私も指を強くした。私の性根を表すような厚かましさの結晶が、まつげから頬を伝って落ちていく。
「大芽、史織さん、ごめんなさい」
二人に向けて、初めて口を突いた謝罪だった。
受け取ってもらえても、そうでなくても、私が人生を台無しにした二人に心底から謝りたかった。
どれほど大変なことをしてしまったのか。
反省のない人間を、神様が見逃さなかっただけだ。
病気は、当然の報いだと思った。
私が来ないことを訝しがったらしい。戻って来たおじさんに肩を叩かれ、やっと私は集中治療室を後にした。入口近くの廊下で神崎さんが待っていて、少し驚く。どうやら、大芽の手術が終わった時点でおじさんが連絡したようだった。
慣れ親しんだ無表情を見て、神経のどこかが非日常から日常へのスイッチを切り替えたのかもしれない。背中と腰が痛みを思い出してしまった。触発されたように顔から温度が抜け落ちていく。貧血症状だ。一気に気分が悪くなり、よろめいたところを神崎さんに支えられた。
「大芽の容態が一段落付いて気が抜けたんだろう。夜中から緊張続きで休まらなかっただろうね。ご苦労様。瑞穂ちゃんは先に帰っていなさい」
「でも……」
神崎さんにもたれかかる私の顔を覗き込み、おじさんが気遣わしそうに言ってくれる。けれど、条件はおじさんも沢村さんも同じなのに。しかも年齢的に二人の方が身体に堪えているだろうにと思うと、素直に頷けなかった。
「無理はしない方がいい。君まで倒れそうな顔色をしているよ。なんなら沢村さんも一緒に――」
「私はまだ帰りませんよ。大芽さんの入院に要る物を色々売店で買わなきゃいけませんからね。これぐらいで参るような年ではありませんとも」
おじさんが振り返って沢村さんを見ると、当人は入院のしおりを眺めながらあれこれ算段しているようだった。さすが古谷家の家事を取り仕切ってウン十年の人。疲れなど欠片も見せず、きびきびしている。
膝を折ってしまわないように、と足に力を込めながらも感心していると、すぐ上から声が降ってきた。
「社長のご配慮に甘えましょう」
神崎さんは言い聞かせるように囁いた後、「薬を持ってきてないんでしょう。早く飲んだ方がいい」と耳打ちしてきた。そしておじさんと沢村さんに私を送る旨を述べると、その場を後にするべく歩き出した。
私を半ば抱えるようにして、なるべく負担にならないように、ゆっくり進んでくれた。
待合室に辿り着くと、私はソファに座らせてもらった。ここの病院は近年建て替えられたばかりで、全てが綺麗で新しい。特に今いる総合待合所は時流を反映して病院というよりは、ホテルのロビーのように見える。広い面積を明るく照らすのはシャンデリアで、自動演奏のピアノまであるのだ。
私は一人がけのゆったりしたソファにぐったりと収まり、神崎さんから薬を受け取っていた。彼は、念のために数回分を持ってくれている。本当に、周到な人だ。
何を飲んでもえづいてしまいそうな気分の中、自販機で購入してもらったペットボトルの水で薬を流し込んだ。
「少ししたら効いてくるでしょう。落ち着いたら帰りましょう」
神崎さんは私の一連の動作を見届けると、薬が入っていた包みをゴミ箱へ捨てにいき、戻ってくるとすぐ隣のソファへ腰かけた。
そろそろ診療開始時刻らしい。待合は付き添いの人や、まだまだ順番までほど遠そうな、時間を持て余している人で静かにざわめいていた。それらの声を邪魔しないように、抑えたピアノの演奏が流れている。神崎さんは表情をピクリとも動かさず、足も組まない優等生な姿勢で黙ったまま正面を向いていた。時折様子を確認するように、こちらをそれとなく気にかけてくれているみたいだった。
私は度々腰をさすったり、みぞおちを撫でたりしながら薬の効果が現れるのを待っていた。何人かが行き交うのを見送っていると、頭の芯が白い煙で覆われるような感覚になってくる。薬が効いてきたのだ。痛みが薄らぐのはありがたいのだけれど、眠くなるのが難点だった。特に、今日はほとんど寝ていない。
きっと車に乗ったら眠ってしまう。神崎さんに、早く告げたかった。
「神崎さん」
明瞭にならない頭で小さく名前を呼ぶ。背もたれに身体を預けたまま、僅かに顔を傾けて神崎さんを見た。仮面の顔は、すでに私の方を向いている。――ああ、この人の目には、今ではこんなにも思いやりが隠れている。
本当はずっと前からこの目に見つめられていたのかもしれない。無表情に紛れて分からなかっただけで。私は、本当に何も見えていなかった。
「あの時の返事をします」
神崎さんはまばたきと同時に「どうぞ」と言って促した。長いまつげの動きに見入りながら、眠い時に伝える内容ではなかったかも、と心の隅が若干後悔していた。
「私、このままあの部屋で過ごします」
先程よりも待合には人が増えていた。精算を終えた受付が、番号を呼ぶ。
神崎さんが、口だけを動かした。
「見舞いに駆けつけたことで、大芽さんが態度を改めるとでも?」
「思いません」
私はゆっくり首を振った。
「むしろ、私が来たことを知ったら大芽は嫌がると思います」
「それでも?」
「それでも……」
名ばかりの妻として、あの部屋に居続けて大芽の悲しみを受けとめる。
「あと少しの時間ですけど、私にできるのはそれだけですから」
私が微笑みを作ると、神崎さんは不服そうに口元へ力を入れた。それからふて腐れたように背もたれへ背中を投げ出した。希少な仕草だ。
目を丸くしていると、神崎さんは指を組んで吐き出すように言う。
「まあ大芽さんが事故に遭ったと伺った時から、なんとなくこうなるような気はしていました。まったく、瑞穂さんが離れていきそうだと察知して、わざと事を起こしたのではないかと勘繰りたくなる」
投げ遣りな態度に可笑しくなった。
「それだけで生死の境をさ迷う人間もいないでしょうに」
「分かりませんよ。泣く子や弱っている子には敵いませんからね」
一通り笑ってから背もたれを離れ、私は重みに引き摺られたように頭を下げた。
「本当に、今まで良くしてくださってありがとうございました」
「おや?」
疑問に満ちた声が聞こえて頭を持ち上げた。
「私はまだ解雇されていませんが」
「え? でも」
私は申し出を断ってしまった。そうである以上、神崎さんとしては病気付きの面倒な人間に関わるなんて、御免蒙りたいはずだ。
口ごもっていると、私の思考を予想したのか、すっかり姿勢を崩してしまった神崎さんが人の悪い笑みを刷く。
「三十路の男を甘く見るなと申し上げたはずだ。そもそも、あの坊ちゃんの事故がなければ、瑞穂さんは私の所に来ていたでしょう?」
ストレートに問われ、思わず素直に頷いてしまった。
「だったらもうそれでいいんです。目に見える事実は残せませんが、私は確かに満足している。あったかもしれない未来の可能性を惜しんでいても、何も得られない。四六時中そばにいられなくとも、最後まで役割は全うさせていただきます。まだ病気のことは誰にも知らせるつもりがないんですよね?」
「――はい」
眠気で鈍くなった頭なりに、私にとって得にしかならない内容を理解し、鼻の奥が痛くなってきた。
「特別な女性の秘密を私だけが知っているという状態も、中々に気分がいいものだ」
本心からそう思っている自分を見いだすかのように、神崎さんは目を閉じて微笑した。
少し離れた場所で、子供が元気よく泣き叫ぶ。あやそうと応じている母親。老人が、咳き込む音。病院というこの場所には生も死も、人の軌跡が詰まっている。
神崎さんは、どうしてこうも優しくなれるのだろう。私にもう少し時間があって、今のこの人に年齢が追いついても、同じようになれるかどうか。
私は潤もうとする目をなんとか開き、鼻の頭を押さえて茶化した。
「秘書の人って、介護まで引き受けるんですか?」
「言ったでしょう。使い走りだと」
「よろしく、お願いします」
皆が騒がないよう務める穏やかな喧噪の中、深く頭を下げる以外、何も思いつけなかった。