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同情ですか? となじるような口調を向けると、頭にもたれかかられるような重みを感じた。頬を寄せられているのだと察した私に、神崎さんはさあ、と前置きする。
「なんなのでしょう。ただ、同情とはそこまで忌避されるべき感情でしょうか。気持ちを相手と同じ位置まで持っていこうとする心の動きは、ある程度情緒が発達した生物の美点だと、誇るべきだと思います。一時で過ぎ去ってしまっては困りものですが、最後まで貫き通せば立派なものだ。実際、この感情に助けられた人間は世の中にごまんといるはずです。ただまあ、私のこれは同情とは少し違うような気もします。とはいえ、恋ではないでしょうね。どうしようもなく瑞穂さんを切望するような気持ちではない。ただ……」
「ただ?」
「例え瑞穂さんが数ヶ月先には存在しなくなっても、それまでの時間、少しでも長く傍にいられたらと。辛い症状に気分が尖ってしまったらぶつけてもらいたいですし、現実の重さに耐えきれなくなれば支えていきたいと思う」
そこまで言ってから、神崎さんは理解を促すように私の背中をポンポンと叩いた。
「この感情を愛だとカテゴライズする人もいるかもしれませんが、私の性には合わない。ただ、瑞穂さんの残された人生全てに関わっていきたい」
そう思います、と神崎さんは締めくくった。
本当に、口の回る人だ。恋ではないという言葉が神崎さんらしいと、顔がほころんだ。飾らずに正直な心情を吐露してくれたスーツの背中を、ぎゅっと握り締める。
「神崎さん、私、結婚してるのに処女なんですよ」
世界の果てまで逃亡してしまいたい心持ちを我慢し、意を決してカミングアウトした。
「それはそれは」
「いい歳して、男の人にこうやって抱き締められるのも初めてなんです」
「なるほど」
「もうすぐ二十九になるのに、キ、キスしたこともなくって」
上擦った声になった。頭上から、喉の奥で堪えるような笑いが聞こえてきていたたまれなくなった。
「やっぱり引きます?」
埋めている顔をさらに押しつけるようにした。笑い含みの声が答える。
「四捨五入したら四十になる三十男をなめるんじゃないですよ。こちらはそれなりの経験を積んできてるんです。年を取るほど他の手がついていない状態をありがたがるものだ。瑞穂さんにとって私が最初で最後の男になるということでしょう。引く要素なんてどこにもない」
「めげませんね」
「図太いもので」
妙なやり取りに心が軽くなり、私は二、三日考えさせてほしいと告げた。
「せかすつもりはありませんが、リミットがあるのも確かだ。私は少しでも長く瑞穂さんと過ごしたい。それを忘れないでください」
神崎さんは私の両肩に手を置いて、標準装備だったように和やかな顔で言った。
返事を保留したとはいえ、私の心はほぼ決まっていた。けれどいざ実行という時に迷わないよう、自分の中で気持ちに整理をつけたかった。
神崎さんが落とした発言の『私を縛っているのは私自身』という部分を考えていた。その台詞がふと、結婚して間もなくおじさんが言っていた『このまま続けるのが二人にとっていいことだとは思えない』に重なった。
見える人には初めから見えていたのだ。私と大芽の歪な関係が、何も産みださないことを。下手な罪悪感に駆られ、私は筋違いな行動をとり続けていた。そのくせ被害者意識を燻らせて僻んでいたり。
大芽のためじゃない。罪の意識から逃れたいために、さらには恋情からくる下心のために、大芽の怒りを利用してしまっていた。
おじさんの忠告通り、あれは大芽の癇癪だったのに。私が真に受けなければ、大芽もいつか心から愛する女性と巡り会い、今のような不倫関係ではない、誰にも憚ることのない家庭を築けていたかもしれない。
もう六年も大芽の時間を奪ってしまったけれど、今からでも遅すぎるということはないはずだ。
私に残された時間が少ない分、大芽には失われた時間を少しでも取り戻し、幸せになってもらいたい。今までの仕打ちを恨む気持ちは微塵も起きず、純粋にそう願った。
神崎さんが受け入れてくれたからこそ、そう思えたのかもしれない。
日本には、八百万の神がいるという。慈愛の神。憤怒の神。トイレの神様だったりとか、役割もまた種々さまざま。
名前にその存在を戴く神崎さんは、私にとって救いの主そのものだった。
私の歩む道を照らし続けてくれたあの人には、何度感謝しても足りない。
神崎さんに出会えて、本当によかった。
そうやって、三日の間に色々思いを巡らせていた。その間、神崎さんは返事を催促するようなことをしなかった。何事もなかったかのような無表情でいつも通りの日々を過ごし、私の容態に目を配ってくれていた。
私はといえば下痢は治まったものの、背中から腰にかけて骨が溶け出すような痛みに襲われるようになり、痛み止めが手放せなくなった。貧血は相変わらずだった。
明日、神崎さんが来たら返事をしよう。そう決意して諸々の薬を飲み、ベッドに入った晩だった。背中の痛みでなかなか寝つけず、何度も体勢を変えてやっとうとうとしてきた頃。
廊下を慌ただしく駆けてくる音で、目が覚めた。暗い中、何時だろうと思って携帯を表示させると、十一時を過ぎたばかりだった。以前は宵っ張りだった私も、体調を崩してから早めに寝るようにしている。
どうしたのだろうと身を起こしたところで、ドアが乱暴に開かれた。廊下から差し込む光を背に、沢村さんが血相を変えて飛び込んでくる。
あまりの勢いに度肝を抜かれていると、息を荒くした沢村さんが悲鳴を上げるような大声で言った。
「大芽さんが!」
ありとあらゆる悪い可能性を想起させる一言だった。全身が耳になって沢村さんの次の言葉を聞き逃すまいとした。私の身体は硬直し、口だけが続きを急かす。
「大芽が、どうしたんですか」
「事故に遭ったと……」
第一声で大半の気力を使い果たした、というような返事を受けた私はすぐさまベッドを離れ、着替えのためにクローゼットへ向かった。医師には、立ちくらみで転倒する危険もある。だから行動は常にゆっくりを心がけるようにと注意されている。けれど、この時ばかりは念頭になかった。
実際気を張っているおかげか、少しふらつく感じはするものの、意識している暇がない。詳しい容態は訊いていなくても沢村さんの表情が物語っている。腹の底が冷えていくような大芽の姿ばかりが思い浮かび、焦る思いで服を引っ張りだしてきた。
着替えながらも、動転して単語しかしゃべれない沢村さんから引き出した内容を、繋ぎ合わせたところ。
大芽は遅くまで残業し、帰宅途中だったらしい。街灯が照らす広い道路の中、大芽はバイクを走らせていた。日中は人で賑わうオフィス街。けれど夜中は閑散としていて、車も通行人もほとんどいない。
その人が、どうして突然現れたのかはまだ分かっていない。付近に飲み屋も酒の自販機も、コンビニさえもない。歩道でもない大芽の進行方向に、酔っぱらって前後不覚になったサラリーマンが、大の字で寝転んでいた。
咄嗟にハンドルを切った大芽は路側帯に突っ込み、衝撃で何メートルも向こうへ放り飛ばされたという。
たまたまそこを自転車で通りかかり、大芽と同じく帰路についていた男性が、救急車を呼んでくれたそうだった。
私は、大芽がいつバイクの免許を取ったのかも知らない。
私たちは急いでタクシーを呼び、大芽が運び込まれた総合病院へ向かった。深夜の受付で尋ね、向かった先は手術室の前だった。磨りガラスの自動ドアに手術室とプレートがかかってあり、テレビのワンシーンのようだと頭の呑気な部分が考えた。
扉の前、側面の壁に長椅子が置かれてある。おじさんが駆けてくる私たちを見て手を上げながら立ちあがった。
「瑞穂ちゃん、沢村さんも。二人とも、こんな時間にすまなかったね。あの子が心配かけて」
おじさんはスーツのままで、緩めたネクタイと外された第一ボタンが不安と憔悴を表しているように見えた。心配で倒れてしまいそうな沢村さんを手伝って座らせているおじさんに、私は立った状態で早口に質問した。
「大芽は? 今、手術中なんですか?」
「地面に身体を強く打ちつけたらしい。ヘルメットを被っていたし、幸い頭に異常はないそうだよ。ただ、数カ所の骨折が見られるようで、特に折れた肋骨が肺に突き刺さっているらしく、重体だそうだ」
想像していた事態を補強するような説明に、予想では太刀打ち出来ない現実の質感を体験させられた気分だった。両手を口に当て、呼吸を繰り返すことしかできない私の肩を、おじさんが軽く押す。
「座りなさい。まだまだ時間がかかりそうだ。瑞穂ちゃんの方が参ってしまう」
そう言われても、膝は関節に石を挟まれてしまったように曲がらなかった。命を屠ろうとする傷と大芽が戦っている最中に、私が腰を落ち着けていいはずがない。
「運び込まれるのが早かったおかげで、手術が成功する確率は高いそうだ。最近は仕事が忙しくてサボっているようだが、あの子は昔から身体を鍛えている。何より若い。きっと大丈夫だ」
諭すように言われ、優しく加えられた両肩の重みに抗えず、私は落ちるように沢村さんの隣に腰かけた。次いでおじさんも静かに横へ収まる。
険しい横顔を窺い、穏やかで強い人だと感じ入った。この人は、きっと私が死んだら悔やみながら悲しむ。考えてみれば、思考の上でも、言葉に出してもお義父さんと呼んだことがなかったと気づく。せっかく家族となったのに、娘らしい親孝行もできずに終わってしまうことが、申し訳ない。
私に残された命の期間。
あと四ヶ月もいらない。
だからせめて大芽は。
お祖父さん、史織ちゃん。まだ連れていかないであげて。
誰も、一言も発さない中、時折救急車のサイレンの音が小さく響く。沢村さんがくぐもった嗚咽を漏らすたびに、私は小さく上下する背中をさすった。
同じ椅子に並び、きっと三人が、三様の言葉で同一の内容を願っている。
どうか、大芽が助かりますように。