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昔、無邪気というには成長していて、実際的というには幼すぎる、小学校高学年の頃。もし自分が不治の病に罹ったら、と夢想したことがある。子供が考える内容に現実の苦痛なんて欠片もなく、儚い風情の自分が病室の窓から散る花を眺める。そんなイタイ場面を脳内に繰り広げるばかりだった。
死を待つ悲しい運命に、心地良く浸る子供の私。あの頃の私が、未来で想像通りの道筋を辿ると知ったら、一体どうしていただろう? 十年以上先の出来事には実感が湧かず、それでも自らを待ち受ける悲劇に酔いしれていたかもしれない。
今現在の私はといえば、過酷な状況から少しでも逃避しようと頭が働きかけたのか、そんな場違いな図を思い描いて笑いたくなる気分にさえなっていた。
なるべく気楽な調子に聞こえるよう、私とは温度差のある表情の神崎さんに尋ねる。
「こういうの、大抵余命宣告がセットで付いてきますよね。お医者様は、あとどのくらいって言ってたんですか?」
「長く見積もっても、四ヶ月ほどだと」
そんなに深刻そうにならなくてもいいのに。神崎さんはやり場のない感情を押し込めるように拳を握り締め、それでも冷静な声で続けた。
「希望するなら入院しての延命治療も可能なようです。ただし有効な手立ては現在確立されておらず、大した成果は期待できないだろうと。無理に辛い治療は行わないで、投薬でその時々の症状を緩和していく方を勧めると」
「そうやって、静かに死ぬ時を待った方がいいって言ってたんですね」
神崎さんは、かけるべき言葉がないというように口を噤んだ。その反応を見て、私は狼狽えることを知らない神崎さんをやりこめたような、暗い愉悦を覚えた。勘違いした口が、ますます滑らかになる。
「医者にさじを投げられるってこんなシーンで使うものなんですね。分かりました」
「瑞穂さん……」
「いいんです。どうせ今までもこの部屋からほとんど出ずに過ごしてきたんですから。食事は運んでもらえるし、掃除だって洗濯だって誰かがやってくれてる。せっかく見つけた仕事だって私じゃないとダメってわけでもない」
「瑞穂さん」
「大芽にはちゃんと別に守るべき家庭が二つもある。私はただ、具合が悪くなればベッドへ入るだけでいい。入院してるのと変わりません」
「瑞穂さん!」
「なんで私が!」
段々声を荒げて制止しようとする神崎さんに負けないよう、私も声を張り上げていった。
結婚してからずっとそうだった。
なんで。
どうして私がこんな目に遭わなきゃならない。
どれほど納得しようとしても、疑問は消えなかった。罪を犯した報いだと思い込もうとしても、被害者意識が湧いてくる。
身体の奥から次々に迸ってくる抑制不能な感情が、言葉として音に乗ることによって増幅されていく。
結婚してしばらく、こんな無為な時間を過ごす人生に、なんの意味があるのかと考えた時期があった。それから神崎さんに出会って沢山救ってもらい、仕事を持って楽しいひとときが増えた。
どうして底辺にいたあの頃でなく、浮上してきたこのただ今から突き落とされなければならない。
こんな思考も悲劇に酔いしれるという範疇に入るんだろうか。だったら、私は子供の頃と何も変わっていない。
思えば神崎さんも災難だ。赤の他人の重い事情に巻き込まれ、告げたくもない内容を伝えさせられている。
それでも私には、自分の辛さをぶつけられる人が神崎さんしかいない。
私を拒絶しない彼に、無表情の下に豊かな心を隠しているこの人に、助けてもらいたかった。
頬を濡らす冷たさを感じながら私は、なんとか私を落ち着かせようと身動きした神崎さんのスーツの襟を掴んだ。見上げると、涙の膜の向こうには、仮面を取り払った顔が滲んでいる。
「なんで私なんですか」
感情が覗く目に向けて、私は喉を振り絞った。
「私の周りには、私を必要としないものばかりが溢れているのに。代用が利かない唯一のものが、病気だなんて」
「ここを出なさい」
きっちりとネクタイを締めた首が迫ってきた。微かな線香の匂いを嗅ぐと同時に、聴いたことのないような優しい声音が降ってくる。
突然放り込まれた把握できない状況に目を回しかけていると、背中と後頭部を包む温度に気づいた。自分の身体とは全く異なる感触におののき、襟を掴んでいた両手を咄嗟に突っぱねたけれど、思うように力が入らなかった。逆に抱き締める腕を強くして、神崎さんは私を包み込む体温そのものの調子で続ける。
「瑞穂さんの意識を徐々に変え、その気になる時を気長に待つつもりでしたが、もうそんな悠長に構えている暇はなくなった。いい加減もう自分でも分かっているんでしょう。瑞穂さんを縛っているのは、瑞穂さん自身だと。拘束されて鍵をかけられているわけでもない。出ていくのも留まるのも、ずっとあなたの自由だった。なのにこんな所にいつまでもこもっているから、そんな不健康な発想が出るんです。あなたを気にかけている人なんて、思い出せばいくらでもいる。故意に連絡を絶っているようですが、ご両親に弟さん。ご友人の巴さんに、社長だってそうだ。沢村さんもああ見えて、瑞穂さんの様子をそれとなく尋ねてきたりもするんです」
神崎さんの首元に頬を押しつけられたまま、私は目を閉じていた。大きな血管を流れる血の脈動、神崎さんの生きている証が肌を通して伝わってくる。身体中に染み込ませるような声と、神崎さんの温もりを感じていた。
砂嵐に巻き込まれたような頭の中が穏やかになり、遮られていたものが見えてくる。
そうだ、私にはまだまだ心配してくれる人がいる。閉じた殻を破っていけば、いつだって世界は私を受け入れる。
梅雨の季節。蒸しているはずなのに、密着している状態でも暑さは気にならなかった。もうしばらく神崎さんがくれる温かさに浸りたかった。
暫し躊躇したあと、私は胸の前に置いていた手を神崎さんの背中へ回した。後頭部に添えられていた手が髪を梳き始め、許されたと判断して私は思いつくまましゃべり始めた。
「社長って――おじさんのこと社長って呼んでるんですか?」
「ああ、そういえば話していませんでしたか。私は、会長秘書を務めていたんです」
驚きのままに、閉じていた目を開く。
「会長って、お祖父さん?」
「ええ。お亡くなりになるまでの数年間、お世話になっていました」
丸くした目で首筋の血管をなぞりながらも、合点がいったと思った。神崎さんが時々線香の匂いをさせているのは、きっとお祖父さんの仏壇を拝んでいたからだ。今日も、ここへ来る前にお祖父さんに挨拶してきたんだろう。
「会社、辞めちゃったんですか?」
「組織に属する必要性も感じませんでしたし、いい機会だと思って」
「パソコンで稼いでますもんね。でも、それだったらどうして私の秘書なんて引き受けたんです?」
神崎さんは有能な人だ。きっと会社にいた時も、お祖父さんのスケジュールを完璧に調整していた。恐らくは引く手あまただったろうにそれらを蹴って会社を辞めて、数年後には退屈で面倒な私のお守りを聞き入れるなんて。
問いかけると、神崎さんは少し笑ったようだった。
「会長からよく話を聞いていましたよ。孫に、かわいい婚約者がいると。もう何年も会っていないが、きっと綺麗になっているに違いないと、目を細めていらっしゃった」
そ、それは……。お祖父さん、なんて身内の欲目的な願望を誰彼構わず!
「実物を見てがっかりしたんじゃないですか」
こめかみが痛くなる思いで感想を訊くと、繊細に髪を撫でていた手が合図を送るように毛先を引っ張った。なんだろうと私は顔を上げた。
「実物は、会長の話に違わず綺麗な方でした。突然訪れた初対面の男の前でも背筋が伸び、立ち姿が凜とした人だと」
迎える視線の真摯さに、私は今がどういう体勢だったかをやっと認識した。お互いの腕は相手の背後に回され、視線がはたと絡み合っている。
これではまるで、恋人同士が抱き合っているみたいだ。
そう気づくと急に、身の置き所がない気分になってきた。いつの間にか涙は乾いていて、病気のことなど頭から吹き飛び、否が応にも顔が熱くなってくる。それでも神崎さんから目を逸らせなかった。
「ただし、表情が暗かった」
話し続ける口元は皮肉な様子を露ほども見せず、柔らかな弧を描いていた。少し上に位置する鼻が、横から見た時に理想的な線を形作っていることを知っている。決して緩まるはずがないと思っていた目は柔和な姿勢を保ち、まつげが長い人だと羨ましく思った。眉毛が優美というよりはキリッと整っていて、神崎さんから受ける印象は、この部分が造っていると発見した。
そうだった。この人は、結構なハンサムさんだった。
「瑞穂さんの、笑った顔を見てみたいと思いましたよ」
「神崎さんだって、全然無表情だったじゃないですか」
「性格だから仕方ない。それに、ヘタを打ってうっかり変な気分になっても困る」
私のものより大きな手がゆるゆるとうなじを滑る。総毛立つような肌触りに首を竦ませていると、髪の中に差し入れられ、指先で感触を確かめるようにされた。それからようやく、神崎さんの発言の意味に思い当たった。頭が爆発しそうだ。私は、こんな状況には本当に免疫がない。
「だから、私の所に来なさい」
前の台詞がどうやったら『だから』に繋がるのかが分からない。
そうでありながらも労るように紡がれた、存在全てを負おうとする言葉を咀嚼した。信じられないほど優しい面持ちの神崎さんを見ていられなくなり、私は顔を俯けた。背中を支える腕の力が再び強くなったので、目の前にある硬い肩に顔を埋めた。
「どうして私を受け入れようとしてくれるんですか。半年も経たない内に死んでしまう人間を、どうして」