表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巡る軌跡  作者: せおりめ
14/21

14

 週明け、朝の挨拶をしながら訪れた神崎さんに、開口一番で私は告げた。


「らしくないです」


 部屋に入ろうとした神崎さんは仁王立ちする私を見て一瞬動きを止め、机に向かいながら訊いてきた。


「なんの話です?」

「気を使ってくれてるのかもしれませんけど、全然嬉しくない」


 開いたままだったドアを閉めて振り向くと、神崎さんがこちらを見ていた。


「大芽の愛人の出産、知ってるんでしょう?」


 真意を測るように、神崎さんが私の目を捉える。頭の中まで覗き込まれるような視線だった。

 この土日で心の整理はつけたつもりだ。どれほど無関心にされようと、精神を掻き毟られるような思いをさせられようと、実態はなくても私は大芽の妻という立場にある。他人が周知の事実を私だけが知らないなどという屈辱は、もう味わいたくない。

 だから。


「ちゃんと教えてください。大芽のことで、知ってることは」

「瑞穂さんはまだ」


 じっと私を見ていた神崎さんが、返事を待つ私から目を逸らさないまま片手を机に置いて言った。


「それでもこの家を出る気になりませんか?」


 二年前、初めて会った時にも似たようなことを告げられた。あの時は、からかうような台詞に憤りが込み上げ、神崎さんを殴ろうとした。けれど今の私は神崎さんの人となりをなんとなく理解し始めている。

 それでも私から出てくる返答に進歩はなかった。


「神崎さんには関係ないです」


 私から興味を失ったように目を外し、机に座りながら神崎さんは「これからはお知らせします」と口にした。

 そんな神崎さんを私は見るともなしに眺めていた。

 もう自分でも、大芽を愛しているのか憎んでいるのか、ただ意地になって妻という座にしがみついているだけなのか、分からなくなっていた。



 約束通り神崎さんは、大芽の身辺で目立った内容を知らせてくれるようになった。もう一人の愛人の、妊娠出産も。そして二度目の妊娠も。感情を交えず伝えられる情報に、私の心も特にゆさぶられることはなかった。もう、そんな情動は失われてしまったのかもしれないとさえ考えた。

 仕事は私の気を紛らわせてくれた。閑散期には月に二度ほど。忙しい時にはノルマをこなしたそばから新しい原本が舞い込んだ。入力作業をしている間は余計なことを考えなくて済んだから、私は優先的に仕事を回してもらえるよう、巴に頼んだ。


 そうやって、停滞した平和に微睡むような時間を過ごしていた結婚六年目の六月。

 梅雨が始まって肌寒い日、生理がもう三ヶ月も訪れていないことに気づいた。そのくせ最近貧血気味で、立ちくらみがよく起こる。ただ、結婚してから不順が続いていて、この程度の期間生理が来ないなんてままあることだったから、特に気に留める必要もないだろうと思った。もちろん行為自体がないのだから、妊娠の可能性なんて最初から疑わない。貧血は、ただの体調不良だろうと片付けた。

 しかしその三日後からは下痢が続くようになり、鉄剤を飲んでいるにも関わらず、立ちくらみはますます頻繁になっていった。ある日どうしても立っていられなくなり、しゃがみ込んだところに吐き気が込み上げ、そのまま部屋で戻してしまった。

 異変をばっちり目撃していた神崎さんに抱えられてトイレに行き、胃の内容物を全て吐き出したところでやっと楽になった。

 荒い息を吐き、よろめきながら部屋に戻ると、神崎さんが吐いたものの後始末をしてくれていた。


「すみません、こんなことさせて」

「謝っている暇があったら着替えていなさい」


 床を拭く神崎さんは振り返らず、私の謝罪をぴしゃりと跳ね返した。手伝うと申し出ようとした私は、スーツを脱いだ背中に早くしろという無言の圧力を感じ、慌てて替えの服を抱えて洗面所へ向かった。


 双方一通りの作業が終わった後、私は冷蔵庫から出したペットボトルの水を飲みながら、ソファ下のラグに腰を落ち着け、膝詰めで神崎さんに白状させられていた。


「具合が悪かったなら、どうして早く言わないんです」


 珍しく目元に苛立ちを乗せた神崎さんに再びすみません、と謝ってから、私は言い訳した。


「大したことないと思っていたので。それに、生理不順やお腹を下したなんて、口にし辛いですし……」

「思春期の繊細な小娘でもあるまいし、いい年をした女性が何を躊躇う必要がある。健康診断では異常なしと出てましたよね」

「はい。問題ありませんでした」


 古谷の家では、毎年三月に健康診断を受けることが伝統的に義務づけられているらしい。名ばかりの嫁である私も、馴染みの病院で必ず受診させられていた。各項目の正常範囲に収まらない数値が出る時があっても概ね健康と診断され、再検査を受けたことはなかった。


「それから悪くなった可能性も充分ある。とにかく、今から病院へ行きましょう」


 素早く立ち上がってドアへ向かう神崎さんとは対照的に、私の動作は鈍かった。腰を上げたもののそれ以上動こうとしない私に、開いたドアのノブを持ちながら神崎さんが問いかける。


「どうしました。また具合でも?」


 いえ……、と言い淀んでから、私は口を開いた。


「いつもの病院ですか?」

「あそこは総合病院で検査器具も揃っている。それに、行きつけの場所の方があなたの変調具合も分かりやすいでしょう」

「それはそうなんですけど」


 神崎さんの理屈が正しいのは承知しているのに、どうしても一歩が出なかった。

 いつもの病院へ行けば、もしも何か病気が発覚した時、恐らくはおじさんか、もしくは夫である大芽に連絡がいくだろう。おじさんはもちろん、沢村さんだってそうなれば心配してくれるかもしれない。沢村さんは良くも悪くも一般的な感覚を持っている人だから、病気の人間には同情心を持つと思う。

 でも大芽は。

 もしも私が病気だったとして、大芽がそれを知ったら。

 そうしたら、大芽は私を気にかけてくれるんだろうか?

 それでも無視されたら、私はどうすればいい?

 切り裂かれるような柔らかい箇所など、私の心のどこにも残っていないと思っていた。なのに、瞬間的に思い知らされてしまった。神崎さんが教えてくれる大芽の様子に何も感じなかったのは、傷つかないように頑丈な蓋をしていたからだ。私はまだ、大芽がもたらす感情に、こんなにも怯えている。


「何か思うところがあるようなら」


 立ち尽くして俯いている私の態度に何かを察知したのか、神崎さんが提案してくれた。


「医療センターの方にしますか。設備も申し分ないですし、ツテがあるから事前予約無しでも診てもらえるでしょう」


 その言葉に私は顔を上げ、感謝を込めて頷いた。


 病院では色んな検査を受けた。血液検査、レントゲン、etc。具合が良くないというのに、広い院内様々な場所をたらい回しにされた。不調の者に優しくない場所だと若干の不満を抱いた。

 生理不順だということで念のため生まれて初めての婦人科を受診し、整腸剤や貧血の薬を貰って帰宅した。その日はもう休めと神崎さんにベッドへ押し込められ、それから検査結果が出るまでの一週間、外出を控えさせられた。薬を飲んでも、貧血と下痢はあまり改善しなかった。

 検査結果が出た日、再検査が必要だとまた医療センターに連れていかれた。以前の結果は神崎さんが受け取ってくれていて、数値の並んだ紙を見せてもらった。項目の何カ所かに異常があるのは見て取れたものの、それが何を表すかは理解できなかった。

 初めて受ける再検査に不安はあったけれど神崎さんも特に何も言わなかったので、そう深刻には受け止めていなかった。まあ体調不良なのは確かなのだし、どこか悪いところがあるのだろうという覚悟だけは持っていた。検査結果は今回は早いようで、三日後には出るらしかった。


 この日のことはよく覚えている。梅雨の晴れ間で朝から蒸し暑く、身体の中にまでカビが生えそうだった。

 なんといっても神崎さんだ。いつもなら出勤時間丁度にドアを叩くのに、九時を過ぎても来なかった。午前中は結構体調がいい。今は閑散期で持ち込まれる仕事もなく、暇だった私は何年か前のように、ソファに座ってワイドショーを見ていた。画面の時計が九時五分を表示しても神崎さんは現れず、遅いなと思ってなんの気なしに歩いていき、ドアを開けた。


「なっ!?」


 心臓が胸を突き破るかと思い、奇声を上げてしまった。目の前には、直立不動の姿勢で神崎さんが佇んでいたのだ。


「何してるんですか」


 驚きのままに声を張り上げると、神崎さんは諦めたように息を吐く。彼を入れようと私が後ずさった分前進し、すっかり中へ入ってからドアを閉めた。不機嫌そうに眉をしかめる顔を見上げながら私は、一体どうしたのだろうと疑問に思う一方で、最近の神崎さんは無表情、無感動の仮面が剥がれてきていると思った。以前より人情味のある反応をする時が増えてきたな、と失礼なことを考えていた。

 いつもなら真っ直ぐ机に進んでいく神崎さんは、その場で立ち止まったまま前にいる私を通り越した先の、目的地に目を向けていた。意識だけをいつも通り机に向かわせているかのように見えた。


「どうしたんです?」


 僅かに首を傾げて問いかけると、無表情に戻った顔の位置が下がり、私と視線が合った。ああ、そういえばこの人は私よりも背が高い、と全く関係ない感想を巡らせた。


「医療センターで、医師に私は瑞穂さんの夫だと偽りました。だから検査結果は私に伝えてもらえるよう頼んでいた」


 いつもの声音で話す神崎さんの言葉を聞きながらも何かを予感して、私は胸に手を持っていった。人が無意識に取る行動には心境が表れる。胸に手を当てることで、今しも襲いかかろうとする衝撃から心をかばおうとしていたのかもしれない。だって神崎さんの目が、私を激しく揺り動かそうという、強い決意を宿していたから。


「医師は夫である私に判断を委ねました。あなたに伝えるか、伝えないか」

「何を、ですか」


 私の問いには答えずに、神崎さんはある病名を口に出し、知っているかと逆に尋ねてきた。


「確か、史織さんの――?」


 神崎さんは顎を引いて肯定した。今まですっかり忘れていたけれど、耳にしたことで思い出した。史織ちゃんの命を奪った病気の名前だ。


「この病気にかかる原因はまだハッキリと判明していません。人の間での感染はなく、遺伝子の突然変異による疾患だと予測する研究者もいるようです。慢性のものと急性のものがあり、慢性の場合は緩やかに症状が進み、軽い人なら定期的な病院通いだけで常人と変わらぬ生活を送ることもできる。かつて大芽さんの恋人だった三和史織嬢もこちらのタイプでしたが、この方はいささか症状が重かったようです」


 そこで神崎さんは一度口を噤み、次いで重そうに開いた。


「私はこういった場合、告知するかしないかは、やはり人を見て判断するべきだと思っています。残された時間を貴重なものだと受け止め、悟ったように穏やかになる人もいれば、悲観して自ら命を絶つ人もいる」

「急性の場合はどうなるんですか?」


 こういった場合とは、どういう意味だろう。無意識下では答えの出ている問いを理解したくなくて、でも中々本題に入ろうとしない神崎さんに焦れて、遮るように私は別の疑問をぶつけた。


「病気は急速に悪化します。人によって表に出て来る症状は違いますが、ある人は重度の貧血に陥り、ある人は生理が停止する。食欲が減退し、身体にむくみが表れることもある。大抵は、複数の症状が併発する。そうして数ヶ月をかけて身体の機能が徐々に蝕まれ」


 神崎さんは私を見据えたまま、言い辛そうに最後の言葉を口にした。


「――死に至る確率が高くなります」


 死神のような発言をする男の前から消えてしまいたかった。神崎さんが視線の先にいる人間に語りかけているのなら、何もそれが私である必要はない。そう訴えたかった。でも、私を見返しているのは、確かに神崎さんの目の中にいる私で。

 消えることができないなら、消してしまえばいい。非論理的なことを思い立ち、願うように強くまぶたを閉じた。そうして、隔絶された視界の中で自分の息遣いと鼓動を感じて、私は今ここに、確かに存在しているのだと、とうとう身に沁みて納得した。

 観念して声を押しだす。


「私が、そうなんですね」


 目を開くと、神崎さんは何かを堪えるように口を引き結んでいた。絶望を告げられた私よりも、告げた当人の方が辛そうだ、なんて印象を持った。ドアの前でこの人の表情を不機嫌そうだと感じたのは間違いだった。きっとこの人は、自分が与える私の反応に不安を抱え、緊張していた。


「瑞穂さん自身のことだ。あなたには、知る権利がある。そう思って伝えました」


 神崎さんは、私が自暴自棄にならないだろうと、ある意味信頼して告知してくれたのだろう。

 そんな信頼、いらなかった。知らないなら知らないままの方が、よほど幸せだった。


 これは、罰なんだろうか。

 毎日お奉りをして祈りを捧げようが、私の罪はなくならないと突きつけられているんだろうか。

 人から生きるための気力を奪った私には、その人と同じ病で逝くことこそ相応しいと、あなたは判断したのだろうか。

 神様、あなたはやはり残酷だ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ