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巡る軌跡  作者: せおりめ
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 神崎さんはいつも九時ジャストに部屋のドアをノックする。逐一確認しているわけではないけれど、おそらく寸分の狂いもない。タイミングを計っているんだろうか。扉の前で腕時計を眺める神崎さんを想像して、おかしくなって一人で笑っていたことがある。勝手に入ってくればいいのにと伝えても、彼は最後まで事前のノックにこだわった。

 神崎さんは出勤してくると、まずはおはようございますと挨拶をする。そして定位置である、パソコンを置いている机に真っ直ぐ向かう。それからは用があるか、もしくは私から話しかける以外、無理して関わってこようとはしなかった。

 どう接したらいいかと緊張気味だった私も、三日経つ頃には神崎さんの存在に慣れていた。友好的に振る舞おうとはしないものの、周りの空気を読んで溶け込むのが上手い人なのかもしれない。秘書に必要なスキルなんだろうか、などとも考えた。

 とはいえ、神崎さんは要求を遠慮無く、ハッキリ伝えてくる。ここにコーヒーサーバを置かせてもらう。必要だから棚を備える。小型の冷蔵庫は元々この部屋にあったけれど、電子レンジまで持って来られてしまった。これじゃ誰の部屋だか分からない。冗談交じりに言うと、職場環境の改善と福利厚生は当然の権利だと返された。かかった経費は大芽に領収書を渡して請求するらしい。

 神崎さんと生活する中、特に諭されたわけではなく、私の外出回数は徐々に増えていった。どこでもよかった。DVDを借りにいくのでもいいし、生活用品の買い出し。それに映画も見にいったし、ランチも食べにいった。

 神崎さんは、どこへでもついてきてくれた。スーパーでも、河原の舗装されていない散歩道でも、ピシッとしたスーツと磨き込んだ革靴を履いて。思い切ってめかしこみ、服を見にいった時、試着した服の感想を尋ねたことがある。

 神崎さんは眉をピクリとも動かさず、無感動に言い放った。


「私がどうしていつもスーツを着ていると思います?」

「生真面目に、勤め人だからこうしなきゃ、って思ってるんじゃないんですか?」


 私の返事を聞いて、神崎さんは無表情ながらもムッツリしたような雰囲気を醸しだした。


「……服装センスに自信がないんです。女性の服は余計に分からない。どれも同じに見える」


 だから店員に訊いた方がいい、と平坦に、そっぽを向いて呟いた。

 意外な弱点に私は瞬いた。美形と表現して差し支えないこの人は、プライベートで一体どんな格好をしているんだろうか。酷い想像をしてしまい、堪えきれなくなって吹き出した。


「こ、今度選んであげます」


 困った。止まらない。


「結構」


 短く却下すると神崎さんは踵を返し、外で待っています、と憮然とした様子で出ていった。

 それからは服を買いにいった時、神崎さんは絶対中へ入ってくれなくなってしまった。それでも律儀にちゃんと待ってくれている。

 相手が仕事だから付き合ってくれているとはいえ、誰かと出かけるのは楽しかった。


 神崎さんがもたらした変化は、メールや電話のやり取りにも表れていたらしい。巴にも、明るくなったと言われた。

 巴は、誘拐事件のことを随分と気にしていた。自分が大野君の窓口になって、片棒を担いでしまったと後ろめたく思っているようだった。決してそんなはずはないのに。巴はどちらかというと、巻き込まれただけなのに。

 だからなのかどうかは分からない。

 神崎さんが来てから二年ほど経った十月のある週末、巴がメールで思ってもみなかったような提案をしてくれた。パソコン入力の仕事をしてみないかというのだ。

 巴が勤めている印刷所には、学校関係の用件が舞い込む。大体が文集を仕立て上げるというもので、生徒が書いた作文をデータ化し、レイアウトして冊子に纏める。

 そのデータ化を頼みたいらしい。一人一人の分量は少なくてもクラス、学年、学校全体となれば膨大になる。さらには小学校、中学校、高校が市内には何校もあるのだから、主に卒業前の時期、繁盛期には人手がいくらあっても足りないのだそうだ。

 パソコンには全く興味がなかった私だったのだけれど、神崎さんがしょっちゅうつついていることもあり、私専用のノートを一台購入している。彼に教えてもらって、文章入力もできるようになっていた。巴が誘ってくれた仕事は基本内職で、家でやってもいいとのことだった。

 四年前、結婚する時に就職は止められた。でもこれなら在宅なんだし、いいんじゃないか。

 出来るかもしれない。

 実をいうと、わくわくしていた。メールを読み終えた瞬間、神崎さんが帰って誰もいない部屋に「マジで!?」なんて独り言を叫んでいた。今の私ヤバイと思う一方で、嬉しい気持ちが声と一緒に空間へ満ちていった。

 学生時代にバイトの経験はある。働いて、報酬を受け取ることができる生活。今の自分を振り返り、本当にそんな生活をしたことがあったのかと、信じられないような気がしていた。立場的には一個人の奥さんとはいえ、実質ニート状態だった私には、夢のような出来事だと思えた。戦後、それまでの価値観はひっくり返り、女性にも参政権が与えられ、社会進出が著しかったという。これまで家に押し込められてきた女性が、職業婦人へ。

 なんて大袈裟な、と自分でも苦笑ものだけれど、その時社会の重しから解放された女性たちと同じ気持ちを味わっているような、そんな高揚感を覚えていた。


 やってみたいと切望し、私は携帯を握り締めた。けれど物事を始める前に、まずは相談するよう神崎さんに含められている。

 この二年間で、私は神崎さんを信頼するようになっていた。初めは行動をことごとく規制してくるような、うるさいお目付役なんだろうと考えていた彼は、私のやることにほとんど反対しない。


 神崎さんが来るようになって半年ほどが経った頃、夜中に突然飛び起きたことがあった。何か夢をみたような気もする。ワケも分からずむしゃくしゃして、攻撃的な気分になった。

 どこまでも私を無視する大芽。家の中の居場所がこの部屋にしかない自分。存在に慣れ、感謝することもあるとはいえ、神崎さんという他人に見張られている状況。取り巻くもの全てから逃げだしたかった。

 結婚してから私は常に、不満と諦めの狭間を危ういバランスで揺れ動いてきた。その均衡が、神崎さんの登場で崩れてしまったのかもしれない。いつも身近にいる存在に、慣れてきたからこそ余裕が生まれた。爆発し、破片をぶつけてみたいと欲求する余裕が。

 ベッドに起き上がった状態で、私は低く唸っていた。冷たい空気の中、忙しない呼吸が暗い空間に白く滲む。私は部屋を見渡し、周りの物を手当たり次第に破壊して回りたくなる衝動にかられた。凶暴さを込めて床に足を着け、力任せに立ち上がるとサイドテーブルの携帯が目に入った。

 何も考えていなかったと思う。それか、いろんな想いが頭を通り過ぎていったものの、言葉に出来なくて忘れてしまっただけなのかもしれない。携帯の番号とアドレスは教えてもらっている。いつでも連絡してくれて構わないと言っていた。――今でも?

 私は、神崎さんに電話していた。午前三時、迷惑極まりない時間帯。コール音を四回数えたところで、「もしもし」と眠さを感じさせない平坦な声が聞こえてきた。

 負けないくらい冷静な声音で、私はいきなり切りだした。


「神崎さん、自分のことはなんでも言うことをきく使い走りだと思え、って言ってましたよね」

「だからといって軽々に命令をきく召使いだと思われては困る、とも申し上げましたが」


 突然の、こんな時でもこの人は、突きつけられた難癖に怯まない。


「じゃあ、今すぐ出かけたいから来てくれって言ったらどうします?」

「……どこへ」


 沈着な切り返しに、私は鼻白んだ。決めてない。

 反射的に、喉が答えた。


「う、海です」

「こんな時間に海へ行って何が見えるっていうんです。冷たく暗い水面があるばかりだ」

「見えなくたって波の音はするし、潮の香りだってします」


 思いつきで答えただけの場所なのに、しらけるような神崎さんの言葉を聞いている内に、どうしても海へ行きたいと思うようになった。ずっと前から思い定めていた場所だというような気さえした。

 しばらく黙った後、返事を待つ私に、神崎さんは分かりましたと言った。落ち着いた声で。


「今から車を出します。門の前に着いたら連絡しますから、瑞穂さんはそれから部屋を出てください」

「え、本気で?」

「あなたが言い出したんでしょう。外は寒い。風邪を引かない格好をしてきてください。ではまた後で」


 通話を切られた画面を眺めながら、私は狐に摘まれた気分でウソ、と呟いていた。


 その後、神崎さんは本当に来てくれた。沢村さんを起こさないように気をつけて抜けだし、神崎さんが運転する車で港に行った。時間外手当を要求する、くらいのことは言われると思ったのに、いつものように「シートベルトを締めてください」と注意されただけだった。

 正月を過ぎた季節。海ではなく湾だったけれど、文句を言う気にはならなかった。車を降りると、遮る物がない海から吹く風が頬を刺した。空気は冷たく澄んで、夜空には地上の灯りに負けじと星が瞬いていた。橋の上を車のヘッドライトが通り過ぎ、遠く聞こえるエンジン音に妙な共感を覚えた。

 神崎さんは肩を縮こまらせてコートのポケットに手を突っ込み、湾を眺めて「やっぱり暗い」と漏らし、ずっと私の隣にいた。

 鼻は寒さで麻痺し、潮の匂いは分からなかった。繰り返し、静かにコンクリートを打つ波の音に、おうとつだらけだった心が均されていくのを感じた。さざめく水面に映った街の明かりが、胸に灯ったような気がした。

 あれからだったと思う。自分の行動の決定に、神崎さんの意見を仰ぐことへの反発心を覚えなくなったのは。


 今日は週末金曜日。神崎さんが出勤してくるのは来週の月曜日。

 それまで待てない。

 私は携帯メールに巴から持ちかけられた仕事の件を打ち込み、神崎さんに送信した。携帯を持ったままソファに寝転んだり、起き上がって部屋の中を歩き回ったりと逸る心を抑えながら待っていると、五分ほどで返事がきた。

 依頼を受けてもいいのではないか、と文面には書いてあった。抜け目ない人のことだ。私の友人が勤める会社のことぐらい、調べ上げているだろう。紹介したこともあるから、巴にも面識がある。巴の人柄や印刷所の業務形態なんかを総合して、判断したようだった。

 大芽はどう思うだろう。反対されないだろうか?

 私が気がかりを送信したところで、ノックの音が聞こえてきた。ドアを開けると、沢村さんが夕飯の乗ったお盆を手に立っていた。もうそんな時間なのか。

「ありがとうございます」と言いながら受け取った。気分が上向いているせいか、いつものお義理的な調子ではなく、弾んだ声が出た。


「今日はお赤飯を炊いたんですよ」


 珍しいことに、普段は私にお盆を渡すとさっさと踵を返す沢村さんも、明るい声で話しかけてきた。見れば、確かに白米ではなく小豆の赤いご飯が湯気を立てている。松茸のお吸い物に、鯛の刺身までついていた。沢村さんに素っ気なくされるのは、やはり自分の態度に問題があるのか、なんて若干の反省すらしながら私も応じた。


「豪華ですね。何かお祝い事でもあったんですか?」


 お盆を受け取りながら尋ねると、沢村さんは相好を崩し、そして嬉しさの滲む声で言った。


「大芽さんに、男の子が産まれたんですよ」


 耳が、おかしくなったのだと思った。だから聞き返した。


「今、誰の子供が産まれたって――」

「だから、大芽さんのですよ」


 笑顔のままで繰り返した後、沢村さんは顎へ手を当てた。不思議そうに。揶揄するように。


「もしかして、知りませんでした? あの男は瑞穂さんに何も教えてなかったんですか?」


 あの男、とは神崎さんのことだろう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなのか、いつも私のそばにいる彼のことを、沢村さんは好く思ってない。

 沢村さんは勢いよくしゃべりだした。大芽に愛人が二人もいること。それぞれマンションと一軒家を買い与えて住まわせていること。この時に初めて、私は愛人の存在を知ったのだ。

 私は歯車を動かす為の大事なネジが抜けてしまったような頭で、話し続ける沢村さんの口元だけを見つめていた。思考は働かないのに、耳から入ってくる情報は私の中を確実に埋めていく。お腹の底が押し潰されたような心地がして、吐きたくなってきた。

 写メが送られてきたから赤ちゃんの顔を見てみるか、と携帯を出しながら問われ、首が勝手にいらないと返事した。


「私も、瑞穂さんが大芽さんの子供を産んでくれるなら、反対もするんですけどねぇ」


 言葉を発しない私の様子をチラリと窺い、少し後ろめたそうに沢村さんはそそくさと去っていった。

 いつもよりずっと早い鼓動を感じながら、しばらくその場に突っ立っていた。鯛の刺身が目に入り、先程の話の中で、尾頭付きはお食い初めまで取っておく、と沢村さんが言っていたのを耳の奥が再現した。お吸い物が零れそうなのを見て、腕が震えていることに気づく。よくぞ取り落とさなかったものだと自分に感心し、上手く動かない足をなんとかローテーブルまで運び、お盆を置いた。

 物を落とす心配がなくなって気抜けしたのか、立つのに疲れて私はその場にへたり込んだ。周りの変化にも気づかず一人で浮かれていた先程までの自分を、馬鹿みたいだと思った。

 愛人が何人いようと、それだけならここまでの衝撃は受けなかったかもしれない。大芽の心の一番大事な場所にはまだ史織ちゃんが住んでいる。亡くなった人には誰も敵わない。私も見てもらえない代わりに、他の人も特別な目は向けられない。そう安心できたから。

 けれど、子供が。

 男の子が産まれたと……

 子供は家族をより家族たらしめるものの象徴だという認識が、私にはある。それまで家庭を顧みなかった人間が、産まれた子供をひと目見た途端、家族という環を保つ使命感に目覚める。類似した話はよく聞く。新しい生命は一人の人間の人生観を変えるほどのパワーを持つ。

 社会の価値観で生きていく中に植えつけられた、何かを意識するより早く出てくる本能のような営みから。そんな枠組みからすら弾き飛ばされ、嘲笑われているような気がした。

 何故なら私は、自分が妊娠できる身体なのかどうかも分からない。子作りの行為は知識として知っていても、経験がない。法律が定めた相手はいるのに、機会を与えられない。一番の権利を私だけはもらえない。

 大芽はこれから自分の血を受け継ぐ人間と、その子をこの世に送り出した女性と、書類に縛られない家庭を育んでいく。


「――じゃあ、私は?」


 しんとした中、何も無い空間を見上げて呟いた。

 何もかもから取り残される私は、なんのためにここにいる……?

 涙も出なかった。もう何度も繰り返してきた自問を浮かべて全てが空しくなった時、メールの着信音が響いた。

 メールを開くと、神崎さんからの返信だった。

 大芽には、彼から話しておくから心配ないという内容だった。

 読み終わった後も、私は文字の羅列をぼんやりと眺めていた。神崎さんは愛人の存在を知っていたらしい。恐らくは、その人の妊娠も。

 黙っていたのは、親切心から? それとも――?

 何も知らない私を面白がるように見ていた沢村さんの姿が頭に浮かんだ。

 神崎さんはそんな人じゃない。

 そう否定はしていても、どんな文面を打ち込んでしまうか分からない自分が嫌になり、私は返事も送らずに携帯を置いた。


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