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巡る軌跡  作者: せおりめ
12/21

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 神崎さんに初めて会ったのは、一ヶ月後のことだった。

 誘拐という、普通に暮らしていればまず降りかかることのない厄災に見舞われた私は、それまで以上に外へ出る気力を失っていた。何も、昔の同級生の裏切り行為に遭い、周囲の人間全てが怖い存在になってしまったというわけではない。

 そうではなく、自分が、何某かの利益を得るために利用できる価値がある、と誰かに見なされる存在になってしまったと、そう身に沁みてしまったからだ。大芽の、こちらをわずらわせるなという言葉は、私が自分で思う以上に胸深くまで食い込んでいた。

 またおじさんに迷惑をかけてしまったら。沢村さんに負担をかけてしまったら。何よりも、大芽に呆れられてしまったら。それくらいなら、部屋から一歩も出ない方がマシだと思えた。実際、神棚のお奉り以外はずっと引きこもっていた。


 その日。テレビが朝のワイドショーを映し、画面左上の時計表示が丁度九時に切り替わったその瞬間、ドアをノックする音が聞こえた。誰だろう、と疑問に思った。沢村さんは一時の同情が過ぎ去ったのか、あの日の三日後には私への態度も戻っており、必要時以外は関わってこようとしない。掃除の人が来る日でもない。

 訝しく思いながらも返事をし、ソファから立ち上がってドアへ向かった。

 ドアを開け、目の前の男を見て市役所の職員が来たのかと思い、軽く目を瞠った。堅苦しい髪型。クリーニングから帰ってきたばかりではないかと思わせる、一分の隙もなく着こなされたスーツ。礼儀と所作を重んじる武道を連想させる、姿勢の良さ。微かに線香の匂いがするのはどういうわけか。

 その人は、初対面の相手に対する友好的な笑顔も、厭わしさからくるしかめ面も見せず、さらには煩わしさによる溜息も零さず、清々しいまでの無表情で、口だけを動かして言った。


「初めまして、神崎徹かんざきとおると申します。大芽さんに雇われた、あなたの――まあ言うなれば秘書のようなものです。瑞穂さんですね? 以後、よろしくお願いします」


 突然現れて想像もしていなかったことを告げる無表情男は、ろくに反応できない私の脇を、失礼、と通り抜け、迷いなく室内へと入っていった。あまりの傍若無人さに、さすがに制止の声が出た。


「あの、ちょっと!」

「こちらの机、使っていますか?」

「え、いえ、ほとんど使ってないですけど」


 あまりにも堂々と振る舞われ、机を指す闖入者の問いかけに、つい素直に答えてしまった。部屋に備えられている木製のシステムデスク。細工が細かく、インテリア製が高い割に使い勝手を考えて造られているものの、書き物をしない私には宝の持ち腐れ状態になっている。


「頭は使わないと惚けますよ」


 余計なお世話だ。ムッと睨みつける私を歯牙にもかけず、我が物顔な男は「では、私の仕事道具を置かせていただきます」と言うが早いか、さっさとノートパソコンを取り出し、机の前に座った。何か事情の説明をしてくれるのではないか、と呆気に取られて待っている私に用はない、とばかりにセッティングを開始する。

 訳が分からない。驚きが過ぎ去り、状況に馴染んできた私は段々腹が立ってきて、黙々と作業をする男の横へ歩いていった。


「あの、どういうことか説明してほしいんですけど」


 険を前面に押し出した私の言葉に、彼は「神崎です」とこちらを向かないまま答える。苛つきながら、要求通りに神崎さん、と言い添えた。それでも神崎さんは首を動かさず、手も休めない。


「説明は先程したはずです。あなたの秘書だと申し上げたでしょう。それ以上、何を言えと?」

「何をって……。あれだけではいそうですか、なんて受け入れられるはずないでしょう。大体私に秘書ってなんなんですか。そんなの要るわけがない」

「そちらの都合など、こちらには関係ない」


 信じられないほど自分勝手な言葉を吐き、神崎さんは初めて私に首を巡らせた。真剣に話をしたい時、やはり相手の目がこちらを見ていないと、真面目に取り合ってくれているのかと不安になるものだ。だから対面する神崎さんの顔は歓迎するべきなのに、私は一瞬しり込んでしまった。

 何を考えているのか分からない、鉄壁の無表情。

 この家で、私は友好的な眼差しよりも、冷ややかな視線を投げかけられる方が多かった。ありのままでいれば自由自在に姿を変える液体も、凍りついてしまえば形を決められ、些細な衝撃でひび割れようとする。傷つきたくなければ、もっと硬度を高めるしかない。

 臆病な心を包む氷をさらに厚くしようと事前に構え、私は神崎さんの目を見た。そして、拍子抜けした。表情と同じく、特になんの感情も浮かんでいなかったからだ。労るような温かさもない代わりに、蔑むような冷たさもない。ビジネスライクに物事を進めようとする人の目だった。

 作り物のような顔の、口部分だけが達者に動く。


「私は大芽さんに仕事を持ちかけられ、了承した。雇われた以上、務めはこなします。まあ堅苦しく考えず、私のことは何でも言うことを聞く使い走りだとでも思っていてください。だからと言って、軽々に命令を聞く召使いだと勘違いされても困りますが。瑞穂さんが短絡的な行動を取ることがないようアドバイスはできると思うので、何かを始める時は予め私に相談してください。それから、どこかへ出かける時もなるべく私を連れていってください」


 神崎さんの、棒読みのような台詞を聞いて、腹の底がスウッと狭まっていくような覚束ない感覚に襲われた。間を置かず、ああそうかと納得した。全てがどうでもよくなるような、やぶれかぶれな気持ちが湧き上がってくる。

 今回の誘拐事件で、大芽は私を自由にさせてはいけないと判断したのだ。好きに行動させて、また何か厄介のタネを撒き散らされては適わない。お目付役を手配する必要があると。私は、とうとう最低限の信用さえ失ってしまったのだ。

 こめかみの辺りを耳鳴りに苛まれるような気分の悪さを覚えながら、神崎さんに意識を戻した。感情を映さない目が、観察するように私を捉えている。


「神崎さん、おいくつですか?」

「三十一です」


 簡潔に、答えが返ってくる。

「そうですか」と私は口の中で呟いた。

 年上だとはいえまだまだ若く、男盛りで見目もいい。知的な雰囲気を漂わせ、そうかといってひ弱そうでもない。口の悪さと無表情、それから融通が利かなそうな髪型を除けば、魅力的だと賛美できる人だ。いくら家には沢村さんがいるからといって、ベッドのある部屋に自分の妻を常時男性と二人きりにさせるという状況に、大芽は感じる所がないのだろうか。

 そこまでを思い、馬鹿らしくなった。何を都合のいいことを考えているのだか。


「瑞穂さんは」


 いきなり口に出された自分の名前で、呆けていたのだと気づく。いつの間にか俯いていた顔を上げ、表情のバリエーションが極端に乏しい神崎さんを見た。


「どうしていつまでも、この家にしがみついているんです?」


 顔が、強張るのを自覚した。この人は、事情を全て知っていると直感した。雇うにあたって必要だと判断し、大芽が打ち明けたのか。もしくは事前におじさんや沢村さんからリサーチしたのか。

 どうしてとは、私の方が訊きたい。どうしてこの人は、さっきから遠慮会釈なく剥き出しの言葉を投げつけてくるのか。服の裾を直すふりをしながら努めて意識して、なんでもないような声を取り繕った。


「ちょっと問いかけの意味がわかりません。何を言いたいんでしょう?」

「ご自分を追い詰めてまで、大芽さんの妻という座にこだわる必要もないでしょう。現に、今の状況は有名無実というものでしかない。ああそれとも、やはり金の魅力はどんな不遇な状況さえ凌駕しますか?」


 無意識に、手が出るという経験は初めてだった。辛辣な口ぶりの連続で、我慢のピークに達していたのかもしれない。身体の一部位が反射的に取った行動はでも、神崎さんの頬に届く前に、ぶたれるはずだった本人に阻止されてしまった。憎たらしい無表情にそれでも辿り着いてやろうと震える手首を、それほど苦もなく男の手に押さえつけられる。運動から離れて七年、鈍りを痛感する。

 諦めて力を抜いた私の手首を離し、神崎さんが口の両端を吊り上げた。口元だけとはいえ、表情が出たことに驚くと同時に、わざと私を怒らせようとしたのだと頭の隅で理解した。


「こうやって、大芽さんも殴ってやればいい」


 低音で、そそのかすように耳へ吹き込まれた言葉に、何か言い返してやろうと口を開きかけた。けれど何も思いつけず、奥歯を噛み締め、腰の横で両拳を握り締めて、神崎さんから目を逸らせた。


「秘書の方って、夫婦間のプライベートにまで口出しするんですか?」

「いえ」


 短いいらえの後、神崎さんがパソコンの方を向いたのが、気配で分かった。


「余計な口出しでした。謝罪します」



 その後神崎さんは、さっきのやり取りなどなかったかのように、労働条件の説明に入った。

 就業時間は平日の午前九時から午後五時まで。昼休みは基本的に十二時から一時。ただし、私の外出等あると思うので、その辺りは臨機応変にさせてもらう。自分がいない時に、パソコンを勝手に触るなとも言われた。次いですぐに、パスワードを設定しているのでそれも無理だろうけど、と淡々と、出来るものなら破ってみろといわんばかりの嫌みも言われた。顔の表情は貧乏でも、心情はおつりが出るくらい表現豊かな人なのかもしれない。

 初めて出会った時はなんて腹立たしい人なのかと思ったものの、しばらく経つ内に気づいた。大芽と結婚してからすっかり気弱になっていた私が、他人に対して憤りを覚えるなどと、久しくなかったことだと。

 怒りを引き出し、苛立ちのままにぶつけられても、無表情の仮面で跳ね返す。私が纏った氷を肥大させようとも、溶かそうともしない神崎さんの態度に、徐々に私は安堵を覚えていった。


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