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二日後未明、早くも私は保護された。
二人は自分たちが何をしているのか、身代金目的の誘拐における罪の重さを、どうにも理解していないように見えた。確か量刑は、殺人罪並みだと聞いたことがある。それなのに、態度からは全く深刻さが窺えなかったのだ。
ただその分、私も酷くは扱われなかった。
到着した先は、女が住んでいるマンションだった。目隠しのガムテープは、部屋に着いた時点で剥がされた。睫毛が取れてしまった私の顔を見て、女が申し訳なさそうに謝ってきたのを意外に思った。きれい好きなのか整頓された部屋には、ブランド物のバッグやアクセサリが店頭のようにディスプレイされていた。なんとなく、借金の理由が飲み込める。
私は常時どちらかに見張られていた。後ろ手の拘束は前側に変わった。足もグルグル巻きだったものの、トイレの時はちゃんと外してくれた。手が前に回ったのはこの時のためか、となんとなく感心したことを覚えている。食事は女が食べさせてくれた。何がいいか、と献立まで訊かれた。昼食を作る時に女は鼻歌を歌い、料理好きなのだと笑っていた。
動機も、犯行方法も、なにもかもがお気楽でいきあたりばったり。浅はかだったのだ。そして彼らには、注意力も運もなかった。深夜だからと油断した彼らは、駐車場から部屋へ移動する途中、住民に目撃されてしまった。その事実に気づかなかった。足のテープを外され自力で歩いていた私は、なんの覆いも掛けられていなかった。手を縛られ、目を隠された女が二人組に囲まれて歩いているなんて、誰が見ても異様に思うだろう。
それでも普通一般の人間は、日常からかけ離れた光景を目にした時、なんとか自分の頭を納得させようとする。具合が悪い時、よほどの状態でも、中々救急車を呼ぶふんぎりがつかないのと同じことだ。逸って警察に連絡して、実は芝居の稽古だったとか、ただそういう性癖をもっていただけだという結果になってしまったら? 大袈裟にしたくないという心理は大方の人が持つ。
善良な一市民のその人は、床に就いた後も夢の中で考え、出勤して就業中も自問した。そして家に帰り着いた後、悩みに悩んでついに市民の義務を遂行する決心をした。
その頃には既に私の捜索が開始されていた。朝になっても帰ってこない私をさすがに不審に思い、門の所で落ちている鍵を見つけて、沢村さんは大芽に連絡をした。昼頃に、犯人からの身代金請求電話もあった。
同窓会に出席したメンバー、その知人、関係者が洗われる。それから幹事の恋人が暮らすマンションの住民による通報。
かつてのクラスメートであった彼は、二度目の電話をかけるべく、最近めっきり数が減った公衆電話に出向こうとマンションを出たところで逮捕された。その後、部屋には私がいること。共犯者には女が一人しかいないことを聞き出して、警察は部屋に踏み込んだ。
都合、丸一日だけのお粗末な誘拐劇。少し不自由ながらも待遇は悪くなかった。誘拐犯の二人に犯罪の自覚は薄く、ただ考えが足りないだけだった。名の知れた企業の社長息子、その妻の誘拐事件。スキャンダルは避けたいと方々に手が回され、報道には載らなかった。それでも関係者を巻き込み、警察への通報はなされ、事件は公になっている。
保護された後、詳しい経緯を訊かれ、どんな風に過ごしたかも私は話した。結果、六年もの時間を二人は灰色の塀の中で暮らさなければならないらしい。
後日アルバムを見て、彼の名前は大野というのだと思い出した。高校時代の大野君、台所に立っていた女の鼻歌。 犯罪意識の少なかった二人の様子を考えれば、今回のことがなくてもいつかは別の罪を犯していたかもしれない。それでもあの時、私が大門の方を選んでいれば、何かが違っていたのではないか。
後悔してばかりの自分が嫌になる。終始のんきだった彼らを思い出し、やりきれなさに唇を噛んだ。
事件後、警察車両に送られて古谷の家に戻ると、おじさん、大芽、沢村さんの三人が揃っていた。おじさんは「大変だったね」と私を労い、どこか具合が悪いところはないかと一通りの心配をした後、ゆっくり休むといいと言い置いて、慌ただしく会社へ出かけていった。時間は朝の七時。忙しい中前日から気が休まらない思いをさせ、徹夜までさせてしまったのだろうと思うと、申し訳なく感じた。
意外なことに、といったら失礼にあたるのだけど、沢村さんも身を案じる言葉をかけてくれた。態度から、その中の何割かに誘拐されていた間の詳細を訊きたい、という好奇心が混じっていたのも否定できない。けれどそれを抑え、すぐに部屋へ食事を持っていく、と解放してくれたのはありがたかった。やはり、基本的には親切な人なのだと思った。
そんな中、ずっと私たちのやりとりを感心なさそうに、冷めた目で見ていた大芽が話しかけてきたのは、私が自室に戻ってからだった。
ソファに腰かけ、一息吐く間もなくドアがノックされた。はいと返事をするのも待たず、勝手にドアは開けられ大芽が入ってきた。
瞬間、心が躍る。感情につられるように立ち上がった。結婚以来、大芽がここを訪れたことはない。今回のことがきっかけで、大芽と会話を交わせるのであれば、と不謹慎にも大野君たちに感謝の念すら湧き起こった。
正直、私は期待していた。あの沢村さんでさえ優しく気遣ってくれたのだ。昔の、親しみを見せてくれていた頃を知っている身としては、もしかしたらと都合のいい幻想を抱いてしまう。
でもやはり、今回の一連の騒動は、大芽にとってはいい迷惑でしかなかったらしい。
入室するなり腕を組み、開ききった内開きのドアにもたれてこちらを睥睨する彼を見た瞬間、そう悟った。早合点に膨らんだ期待が瞬時にして穴を穿たれた。
「ミズさんが同窓会に行こうが朝帰りしようが、どうでもいいんだけど」
それが、大芽が久しぶりに私にかけた第一声だった。
呆れの混じった怒りを発散させるような溜息を漏らし、大芽は続ける。
「せめて、こっちをわずらわせるような真似はしないでくれないかな。僕だって大学を卒業したての新入社員で、会社の業務を必死に覚えているところなんだけど。普通、奥さんが夫の足を引っ張る?」
大芽は学生の頃から会社で研修を積んでいたとはいえ、身分的にはアルバイトでしかなかった。本格的に入社したとなると、今まで大目に見てもらっていた部分もこなさなければならないのだろう。
言葉の刃に切り刻まれ歯を食いしばりながらも、大芽が奥さんという単語を持ちだしてきたことを、奇妙に思った。ずっと無視していて、妻らしいことなど何もさせなくて、それでも一応私が奥さんだという認識はあるらしい。
「お父さんは昨日、重要な取引のまとめに入るところだったのに、それを台無しにされた。どれだけの損失を会社に与えたか分かる? おまけにほとんど寝てないし。沢村さんだって倒れそうに心配していた。顔色だって悪かっただろ。それでミズさんに食事を用意するなんて、沢村さんの方に休んでてほしいくらいだよ。あんまり、年寄りに負担かけないでくれる?」
「――ごめんなさい……」
ただ、謝罪するしかなかった。反論をしても私の不注意がなかったことになるわけではないし、言い返すつもりもない。
決して望んでこういう事態を引き起こしたわけではなかった。それでも、どうしても周囲を騒がせたという負い目は拭えない。それが、私の感情を卑屈な方向へ走らせていた。
片方の手でもう一方の腕を抱き、目を伏せながら謝る私の耳に、再びの溜息がなじるように届く。目を上げると、ソファの遠く向こうにいる大芽がうんざりしたように私から顔を外し、斜め下の床を見ていた。
「謝ればいいだけの人は、脳天気にしていられていいよね」
そう、ぼそりと呟き顔を上げる。形のいい口元には、嘲りを含んだような笑みが浮かんでいた。
「自分がしたことも忘れて、構ってもらえない、とか思って僕を恨んでる? 寂しいなんて思って男でも探したかった?」
とっさにかぶりを振り、違うと答えた。でも大芽は表情を変えないまま止めない。
「金目当てに寄ってくる男なんていくらでもいるしね。今回の、犯人の男も成果の一人だったりして。だったら可哀想にね、ミズさん。相手には本命がいて、身代金まで目当てにされるなんて」
「本気で、言ってるの……?」
あまりに事実と反する言いがかりに、喉の奥が熱くなった。
「そんなはず、ないじゃない」
震える声を出しながら、これでもかと痛感させられていた。結婚して二年。ほとんど顔を合わせていなかった。言葉も交わさず、放置され続け、その挙げ句悪し様に罵られている。
それなのに。
それでも大芽が好き。ここまでされても嫌えない。
憎むことすらできない自分が愚かしくてしょうがない。いい加減嫌になるのに、消えることができない恋心が体中に波を引き起こす。うねり、荒れ狂い、抑制を破砕する。
気がついたら私は涙を流し、嗚咽を漏らしていた。反射的に口を覆った左手。薬指で光る指輪の感触が、堅く冷たい。お揃いのデザインで作られた片割れは、今までも、これからも、役目を果たすことなく無用の長物として捨て置かれるのだろう。まるで私のようだ、と堪えきれない唸り声を上げながら、けなすように考えた。
大芽に返してもらえない想いが悲しく、やるせなかった。
ただ、そういった私の態度は余計に大芽の感情を逆撫でしたようで。
「ああ、もうそうやって自分を可哀想がって、いつまでも泣いててよ」
苛立ったように吐き捨てると、乱暴にドアを閉め、そのまま行ってしまった。
確かに、自分を不憫な位置に据えて流す涙は、他人にとって鬱陶しいものでしかない。何を悲劇のヒロインぶっているのだろうと、自分で自分があほらしくなる。
早く泣き止まなくては。もうじき沢村さんが食事を運んできてくれる。
そう叱咤しても、流れる涙は止まる術を持たなかった。