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そんな中でも、ある役目だけは私も譲らなかった。
お祖父さんが大切にしていた神棚のお奉り。残念ながら、お祖父さんの位牌が納められている仏壇については沢村さんに承知してもらえなかったけれど、神棚のお供えに関しては頑張って主張し、どうにか任せてもらえた。
まだ沢村さんが起き出す前、朝の四時にお供え物を用意する。沢村さんと顔を合わせるのは気まずい。この時間帯、夏はほの明るく苦労はないものの、冬は真っ暗で寒かった。
お祖父さんが用意した祭壇の間は二階の板敷き部屋で、八畳はある。壁と天井も、節や目のない木で覆われていて、木の匂いがした。
神棚は普通の家庭にあるような天上から棚を吊っているものではなく、神社で見るように段違いの台座が建てられ、一番上にお宮を据え、その次の段に神饌をお供えするようになっている。両横には柱がそびえ、そこに御簾がかけられている、なんとも立派なものだ。
部屋自体に窓はないけれど、入口の障子を開け放つと廊下に並んだ窓から庭の緑を望める。他に調度品のない部屋は清々しく開放感に溢れ、神前で過ごすお祖父さんの時間がどのようなものかが推し量られた。その姿を想像すると、ひとりでに笑みが零れた。
神棚のホコリを払い、床を磨く。その後に榊の水を換え、米や塩、神饌の乗った三方を神前に捧げる。灯明にマッチで火を点け、そうしてから祭壇の正面に正座した。この神棚は、座って祈祷するように設えられている。お供えの方法や拝礼の作法は本で調べた。
二度額ずく。お祖父さんならこの後祝詞でも唱えるのだろうけれど、さすがにそこまでしようとは思わない。二つ柏手を打つ。眠りの静けさが染み渡る空気の中、パンパン、と部屋中に音が反響するこの瞬間が好きだ。身が引き締まる気がする。手を叩き鳴らすことで神への敬意を表すとも、邪気を祓うともいわれるこの動作。様式の一つ一つに根拠はあるのだと、実感させられる。
次に手を合わせ、感謝と祈願をするのだと本には載っていた。感謝はなんとなく分かる。食べていけること、住む場所があること。生きていけることそのものに謝意の念を表すのだろう。でも、祈願については……。
家族や知人、友人の安寧を祈るなどと美しい願いを捧げても、そんな偽り、神という存在には立ち所に見破られてしまうだろう。
だからといって本心の願い――大芽が一日も早く私を許し、笑いかけてくれるまではいかなくても、せめて普通に接してくれるようになりますように、なんて。
自分本位な願いはお祖父さんから受け継いだ神棚にはあまりにも不釣り合いで、浅ましいものに思えた。それにどうせ、昔から神様は私の願いを聞き入れてくれない。
抑えきれない心が勝手に祈願を始めてしまわないよう、「いつもありがとうございます」と簡単に感謝を述べた後に、素早く額ずいて拝礼を終えるのが常だった。
それでも、昨日の鬱々とした一日をリセットするようなこの透明な時間は、私にとっては貴重なものだった。
何も生み出さない日々も、一日一日を消化していけば年月は経つ。無為な毎日でも人は生きていける。
変化の無い日常を送って二年が過ぎた、一月後にゴールデンウィークを控えたある日、同窓会の誘いが来た。メールの差出人は昔から仲の良かった友達で、同じバレー部に所属していた巴。唯一今の私の生活を知っていて、高い頻度でメールや電話のやり取りをしている子だ。彼女は現在中規模の印刷所に勤めている。
名は体を表すという言葉通り男前な性格で、気っ風がいいとでも言えばいいのだろうか。バレー部時代、セッターというチームの司令塔を務めていただけあり、あらゆる場合に冷静な判断を下せる強さを持っている。秘密を自分一人の胸に納めるだけの度量があるので、巴にはなんでも打ち明けられた。我がことのように心配してくれるけれど、私の意を汲み、誰にも言わないでくれるからだ。
以下は、巴から来たメール。
『瑞穂はさぁ、もうちょっと外に出るべきだと思うわけよ。飲みの誘いだってみぃんな断っちゃうじゃない? 旦那さんだって好き勝手やってるんだから、瑞穂だって図太くなってもいいと思うよ? 慰謝料請求したっていいくらい。義理立てなんてする必要ないって。つうか、同窓会出るのに義理立ても何もないと思うけど。それか、なんなら男捕まえる意気で行け。構うこたない。私が許す!』
『そんな気分になれないって、あんたまだ25でしょうが。枯れたこと言いなさんな。バレーでは、あたしがトスを上げたら瑞穂がバシバシ決めてくれてたっしょ? あの時の強気な自分を思い出せ!』
『着ていく服がないぃ? なんのために金持ちの奥さんやってんだ。カード持ってんでしょ。買えばいいんだよ。よし、今度の休みに一緒に行こ。ついてっちゃる』
絵文字を使わない文面から、ありありと気遣いが伝わってくる。高校時代からそうだった。何かとくよくよしやすい私の湿気をものともしない明るさで、巴は弾き飛ばしてくれていた。
巴の言う通りなのかもしれない。男を捕まえるというのは論外だけれど、昔の友達に会えば一時でもその当時、高校時代に戻って陽気に過ごせるのかもしれない。
結局、その週末は巴に予定外の仕事が入って行けなかったものの、その翌週に服や靴、バッグやアクセサリを一揃え買いにいった。こういう外出が億劫になっていた私には、誰かとショッピングする時間が久しぶりで新鮮で。やはり自分は正常な時間を過ごしていないのだと、強く思った。もうちょっと、外へ出るべきだと感じた。
三週間後、一人で行くのは心細いので、巴と待ち合わせて同窓会の会場へ向かった。チェーン店でない小さめの居酒屋を貸し切っているらしかった。木をふんだんに用いた素朴な佇まい。幹事の趣味なのか、各地の地酒を豊富に揃えてある、隠れ家的な店。中々いい雰囲気だと思った。
体型が変貌している子、脱サラしてベンチャーを興した子、もう二児の母だという子もいれば、彼女を紹介してくれ! などと懇願する子もいる。高校時代のイメージ通りの人生を歩んでいる子もいれば、まさかあの子が今はこうなっているなんて、と驚くような状況にある子。酔っぱらっているのか、やけに私のことをしつこく訊いて絡んでくる子もいた。あまり高校時代は親しくなかった男子で、名前は覚えていない。困っていると、巴が追い払ってくれた。その様子を見ていた当時親しかった女子に「瑞穂も落ち着いたねー」と感慨深そうに言われ、苦笑する気分だった。
男性、女性ではなく、男子、女子で分類されていた頃。その頃のクラスメートに囲まれていると、私も出席番号十二番、立川瑞穂に戻ったように感じられ、塞いでいた胸が開いていくような気がした。とても楽しい。
おどける男子を囃したて、腹を抱えて笑いながら、来てよかったと素直に思った。
そう、同窓会自体は行ってよかったのだと今でも思っている。
だから結局、その後の事態は私の不注意が招いてしまったようなものなのだ。
二次会にも参加し、三次会に行く人は別の店へ、という流れになったのは十一時頃だったか。巴は次の日にまた仕事があるからというわけで、私も一緒に帰ることにした。
週末の町は、夜中でも人の往来が途絶えない。賑やかな通りを酒で足元が覚束ない中、二人でタクシー乗り場に行った。その間ずっと、タクシーに乗ってからも巴とハイテンションに喋り続けた。先に巴が降り、別れを告げて古谷家へ向かってもらう。家へ戻ることを考えると少し滅入ったものの、それでも気分は上向いたままだった。運転手が「飲み会でしたか」と話しかけてくるのに、酔っぱらい口調で「そうです!」などと元気よく答えたりもしていた。
人生では、常に選択を迫られる。その連続だといっていい。些細だと思っていた決断が、振り返ってから重要な分かれ道だったのだと実感することがある。後になってじたばたしてももう遅い。気づいた時にはどうしようもないのだから。
この時の私も、重要な選択肢の中にいた。
夜の闇、申し訳程度の街灯の中、タクシーは家並みを抜けて坂を上り、古谷家の門に到着する。
ここで大門の方を開け、玄関まで乗せていってもらえばよかったのだと、何度悔やんだか。けれど私は小さい方の門を開けることを選び、タクシーを帰してしまった。
料金は巴と折半することになっている。後でメールを送らなければ。そんなことを考えながら遠ざかる車を見送り、門の方へと向き直る。バッグから出したのは複製ができない特殊な鍵。それを門の鍵穴に差し込もうとした瞬間、後ろから伸びてきた手に口を塞がれた。ショックで鍵を落とす。響く虫の声を、金属とアスファルトが衝突する音が遮る。抵抗する間もなくもう一本の手に身体を拘束され、そのまま抱きかかえられるようにして身体を引き摺られた。
背中を圧迫する堅い胸の感触と、門灯が照らす骨張った大きな手から、私を捉えているのは男だと分かる。こういう時、塞いでいる手を噛んだり、力の限り暴れ回ることができるのは、訓練により危険に対する心構えを叩き込まれた人だけではないだろうか。もしくは、相当性根の据わった人。情けないことに私は恐怖で身が竦み、指一本動かせなかった。酔いも一瞬で覚めてしまった。
荒い息遣いが聞こえるものの、男は終始無言だった。身長は百七十二センチの私と変わらないくらいなのに、強い力で確実に私を引き摺っていく。既に古谷家の敷地内に入っており、周りに人影はない。身体は足元から体温が抜け出るように冷えていったのに、何故か汗が噴き出してきた。これからどうなるかという不安に、心臓が騒いでいる。
門から少し離れた先、道路脇に舗装されていない、土が剥き出しのスペースがある。縦列で車を二・三台停めておけるそこに、黒いワゴン車があった。街灯が少なく、車体の色が暗いということ。それに特に窓の外を気にしていなかった私はここを通り過ぎる時、この車の存在に気づかなかったらしい。
私たちが近づくと勝手にスライドドアが開き、中から見知らぬ女が手招きした。強い芳香剤の匂いが流れてくる。ショートカットで、肌の露出が激しい服装。大振りのイヤリングが室内灯を反射していたのが印象に残っている。女は焦るような小声で、「早く!」と手招きする。私は放り込まれるように車内へ投げ出された。座席の下で、咄嗟にガードした腕と頭をしたたか打つ。いつぅ、と口から声が漏れた。滑車が滑るような音を立て、扉は素早く閉められた。
痛みに顔をしかめ、ぶつけた頭を手で押さえながら身体を起こすと、運転席にさっきの男が乗り込んでくる。女が、消えかけた室内灯を常時点灯に切り替えた。乏しい光源が車内に明かりを投げかける。こういう時はなるべく灯りを点けない方が、目立たなくていいのではないだろうか。個人の敷地内とはいえ門の外なのだから、人が来る可能性は皆無ではない。随分不用心なんだなと思ったことを、覚えている。
「悪いな、立川」
いや、今は古谷か。身を乗り出し、こちらを振り返りながら言い直す顔を見て、呆然とした。人は本当に驚くと、一瞬魂が抜け出たようになるようだ。
言葉の割に悪びれなく笑っていたのは、さっき同窓会で見た顔だった。私の事情をしつこく聞きだそうとした男子。自己紹介してもらった名前は、やっぱり忘れてしまった。
「どうして……」
その場にいるもう一人、女が放心状態で呟く私の両手を後ろに回す。後ろ手に手首を合わせ、何かを巻きつけている。紙を破るような音と感触から、ガムテープで拘束されているのだと頭の片隅で思った。その行為は認識しているものの、意識はいたずらが成功したように笑う、目の前の男に固定されたままだった。だから今度は座席に座らされ、足首を同じようにグルグル巻きにされている間も、みじろぎ一つしなかった。
「俺さぁ、今借金が500万近くあるんだ。ちょっと足りない分をほんの少し借りただけなのに、あっという間に500万だぜ、500万。大体、あの利子ってやつは理不尽だよな。雪だるま式ってやつ。元の額の何倍だって話だっつの」
「あんまり理不尽だから、考えたの、あたしたち」
淡々と言葉を継ぎながら、女がガムテープを引き出し、破る。その動作が、目端に映る。目の前の男が背もたれの肩部分に手を置き、その上へ窮屈そうに顎を乗せた。
「理不尽に増えた借金を、なんで俺らが返さなきゃならない? ってな。立川の噂は聞いてたよ。クラスに、玉の輿に乗った女がいるって。まさかお前みたいな気の強ぇデカ女だとは思わなかったけど」
「そうそう、あたしみたいにカワイくて美人な子は貧乏で苦しんでるってのにね。世の中ってほんとに不公平」
ねー、と二人が異口同音に声を出す。
そうしながら、目を見開くことしかできない私の口に、女がガムテープを貼った。いつの間にか口で呼吸していたようで、途端に息苦しさを覚える。本能なのか、思い出したように鼻が役割を取り戻した。シトラス系の芳香剤。鼻炎でなくてよかった、と束の間考えた。鼻が詰まっていたら、窒息しているところだ。
「でも、今の俺はお前となんの接点もない。それで、頭のいいボクとしましては考えたわけだ。同窓会を開きゃいいじゃん、ってな。卒業式の時、丁度クジで負けて幹事を押しつけられてたしな。面倒だから放っといたけど、まさかこんな時に役に立つとはなぁ。卒業して五年以上になるよな? 時期的にもばっちり」
ただなぁ、とかつてのクラスメートが残念そうに言い淀み、首の角度を逆向きに変える。女がまたガムテープを引き出している。次はどこに貼られるんだろう?
「住所と家でんは他の奴に訊いてすぐ分かったけど、立川って付き合い悪いらしいじゃん?」
ダメだろ、交友関係はちゃんとしなきゃ、と何故か怒られた。
「そんなんで出欠確認のハガキ出したって、多分お前来ないだろうなーって。それじゃ意味ないからな、お前のために開く同窓会なのに。そしたら立川、巴と仲いいって言うじゃん。だから巴には、存分に頼み込んでおいたわけだ。ぜひぜひ立川を引っ張ってきてほしいってな。ま、俺がこんなこと考えてるなんて夢にも思ってないだろうから、あいつには気の毒だったけど」
やっぱ友達ってのは大事だぜ、と自分で納得したように付け加える。
目の前でニヤニヤと笑う顔が、一つの記憶を呼び起こす。彼の笑顔はもっと明るかったのではないか。こんな風に後ろ暗い翳りを、底に隠していなかったのではないか……
そこで思い出した。親しくはなかったけれど、彼はクラスのムードメーカーで、いつも皆の笑いを誘って盛り上げていた。
教室一のお調子者。はしゃぐ男子。弾ける声。
そんな風景も忘れるほど、高校時代は遥か遠いのだ。その事実がどうにも悲しく、私は表面的には分からない程度に眉根を寄せた。
記憶の中の表情を眼前の顔に重ねようとした時、視界の先に茶色い紙が迫ってきた。ああ、今度は目を塞がれるのか。そう理解して、まぶたを閉じた。
光のない世界に、遊びの予定を立てているような、気楽そうな声が響く。
「ま、ある所から頂いちゃおうってことで。安心しろよ、飲むフリしてただけだから飲酒運転じゃない」
自分でも不思議なことに、誘拐されたというのに危機感は少なく、何もかもに現実感が薄かった。変わってしまったクラスメートにも、今の状況にも。
閉ざされた視界の中、大芽はどう思うのだろう、それだけを考えていた。