表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巡る軌跡  作者: せおりめ
1/21

 神様、あなたは残酷で、そして――




「今時、親が決めた結婚なんてないよね」


 同意を求めるように笑いながら話しかけてくる大芽に、私も同じく笑いながら頷き返していた。


 古谷大芽ふるやたいがと私、立川瑞穂たちかわみずほは世間一般で言う、許嫁同士という間柄だ。

 古谷家は、大芽のお祖父さんが興した多くの子会社を傘下に持つ大企業のトップ。要するに、大金持ちというやつ。兄妹のいない大芽はその跡取りに相応しい、良くできる頭、どこに顔を出しても花形になれる目鼻立ち、万が一の為にと護身術で鍛えられた身体、強く健やかな精神、穏やかな性格という風に、心身供に恵まれている。

 一方の立川家といえば、両親が共働きの、普通の中流家庭。私は大芽よりも二つ年上で、容姿はブサイクとは言われない程度。背は可愛くないことに、女にしては高めの170センチ台、成績は中の上辺り。

 当たり障りのないプロフィール、と形容すればまだ聞こえがいいのかもしれない。

 学区も違い、年齢も違い、血の繋がりもない私たちにはなんの接点もないはずだった。


 そもそもの始まりは、まだ私が生まれて間もない頃にさかのぼる。

 その日、大芽のお祖父さんは朝から体調が悪かった。でも会社の命運を決める大事な会合があるとかで、どうしても休んではいられなかった。まだ今ほど大きくなかった会社はこれから伸びるか、それとも衰退の一途を辿っていくかの瀬戸際で、今一つ頼りなかった長男、いずれ大芽のお父さんになる年若い息子には任せておけなかったらしい。

 会合場所のホテルに向かう途中、お祖父さんは別件で指示を出すために、公園で車を降りた。いつも使っている電話付きの車ではなく、たまたまハイヤーに乗っていたので公衆電話が必要だったのだ。もちろん、携帯なんてまだ世に出ていない。

 電話を終え、ボックスを出たお祖父さんはそこで痛恨のミスをしたことに気づかなかった。大事な書類の入った鞄を電話ボックスに置き去りにしてしまったのだ。いつもならそんな失敗は絶対にしない。でも具合の悪さはお祖父さんから注意力を奪っていた。

 ホテルに着いて、会合前の控え用に取っていた広く豪華な部屋でそのことを思い出したお祖父さんの絶望は、どれほどのものだったんだろう? 自分の肩に背負っている妻や子供、社員、その家族、様々な人たちの顔が頭をよぎっていったんじゃないだろうか?

 すぐにでも取りにいきたい。でももうそんな時間はない。部屋に備えつけられた、飾りと一体になった時計はそんなお祖父さんの心理なんてお構いなしに時を刻んでいく。

 お祖父さんは部下に場所を告げ、急いで公衆電話へ向かわせた。すぐに出られるよう部屋の電話を側に置き、ベッドに腰掛け、いやに進みの早い時計の音を、逸る気持ちを抑えながら聞く。焦燥だけがつのり、立つこともできず、しばらく同じ姿勢のままで頭を抱えていた。

 どれほどの間そうしていただろう? 赤いランプが灯り、電話が鳴り出した。その音に瞬間ビクリと肩を震わせるものの、お祖父さんは飛びつくように受話器を取る。交換の女性に早く部下に繋げと怒鳴りたいのを必死に堪え、次いで耳に入ってきた待望の報告に、お祖父さんは打ちのめされた。


「電話ボックスに書類はありませんでした」


 誰かが持っていってしまったのだ。

 お祖父さんが置いていった書類はヒモで閉じるタイプのファイルケースに入っており、その中には心得のある人ならいくらでも利用できそうな、機密事項も沢山詰め込まれている。それでも時間は一瞬も待ってくれない。時計を見ると、そろそろ会議の部屋へ向かわなければいけない刻限だ。

 もう見つかる可能性はほとんど無いだろう。それでも念のため、と部下に辺りを探すように言い含め、お祖父さんは苦悩を絞り出したような溜め息と一緒に受話器を降ろした。

 言い表しようのない虚脱感がお祖父さんを襲う。

 力なく胸に手をやった。大事な代表印と角印は胸ポケットに入れてある。しかしそれがなんだというのだろう。もう今日限りで会社は消えてしまうのだ。

 一から作り上げた会社はお祖父さんの自信そのものだった。大きくなると共に夢も膨らみ、周囲の尊敬、羨望、地位や名声、人脈等、あらゆるものが付随してきた。

 その全てを喪う。

 見渡すこの部屋も控えのためだけに取ったのに、明らかに内装も広さも、備え付けの備品も一般より上等だ。こんな部屋に泊まることもできなくなる。

 お祖父さんの中で積み上げてきた世界が崩壊する。恐ろしさに震えが起こり、吐き気が込み上げてきた。

 覚束ない手で自分の身体を抱き締める。家族も愛想を尽かして去っていってしまうだろうと考えた。

 首を括るしかない。

 部下の報告からお祖父さんが死を決意するまで二分足らず。随分短い時間だという気もするけれど、お祖父さんにとっては今まで生きてきた人生よりも余程長く感じられた。会合が終わった後に、潔く始末をつけよう。ぐずぐずと未練がましくのたうち回りたくはない。

 おかしなもので、そう決めた途端、お祖父さんの心は嘘のように落ち着いた。震えも止まり、吐き気も治まった。

 お祖父さんは腰かけていたベッドから立ち上がった。誰がみているというわけでもないのに、見苦しくないように、と胸を張り、背筋を伸ばして確かな足取りでドアの方へと歩いていった。会合に出席しなければ。

 ノブに手をかけた所で、また電話が鳴り出した。お祖父さんは振り向く。ベッドの上の、白く四角い電話を見つめ、少しだけ逡巡する。どうせ時間だから集まれという、知らせの電話だろう。このまま無視して目的の部屋まで行って、聞かなかったことにしても問題は無い。電話に出るという行為自体が億劫だった。

 でもお祖父さんはノブから手を離し、結局は電話を取った。ドアを開けたら電話の音が漏れる。気紛れだったかもしれないし、電話の音を誰かに聞かれ、どうして取らないのかと思われるのが煩わしかったのかもしれない。さらに声でもかけられたら余計にうっとうしい。

 受話器を取ると、嫌みなほど冷静な女の声が、外線ですと伝えてきた。内線ではなかったのかと、お祖父さんは若干意外な気持ちで相手に繋がれるのを待つ。

 電話から流れてきた声が告げる内容を確認して、お祖父さんは涙を一筋流し、信仰する神様に心から感謝したという。会社経営とは運頼みなところもあるそうで、お祖父さんは結構信心深い。何はともあれ、この電話へ出る気にさせてくれた神様に頭を垂れた。

 電話は会社からだった。

 会社に、交番から連絡があったそうだ。お祖父さんが忘れてきた書類ケースが落とし物として上がっている、と。丁度そちらの社員だと名乗る人が引き取りに来たが、渡してもいいものかと、警官が確認を取ってきたのだ。

 そこまで聞いてお祖父さんは、その社員は忘れ物を探しにいかせた部下のことだと確信した。彼は近くの交番へも足を伸ばしたのだろう。特別報奨金を出してやらねばと頭の中で考えながら、電話に意識を戻す。社員証の名前と番号で身元を保証し、お祖父さんには会社の方から連絡しておくと約束して、交番との電話は切ったそうだった。

 書類を持って既に部下がこちらへ向かっていると聞いてから、お祖父さんは安堵の溜め息と供に受話器を置いた。

 先程までの絶望感が嘘だったかのように希望が湧いてくる。お祖父さんの世界が再生されていく。

 そして唐突に、お祖父さんは自分を恥じた。お祖父さんは自らの命を絶とうとしていた。自分自身では惨めたらしくないように散っていく、というイメージだった。お祖父さんの世代はちょっぴり武士道精神が入っている。

 でもそれは全ての厄介事を他の者に任せ、押しつけただけの自分勝手な行為だと、後のお祖父さんは語る。経営者なら、最後の一人まで社員の行く末を考えてやらなければならない。家族についてもそうだ。離れていくだろうと決めつけてしまい、全く信じていなかった。

 ほんの数分で天国と地獄を行き来したお祖父さんに、もう恐い物はない。書類も無事手元に届き、その後出席した会議も難なく切り抜け、会社は成長し続けている。


 後はよくあるお話の流れ。お祖父さんは書類を交番へ届けてくれた正直者に恩義を感じた。名乗らず颯爽と去っていったらしいその人を、手を尽くして探し出した。

 三ヶ月後に出会った恩人。それが私の父だったというわけだ。

 窮地を救ってくれたことと、拾得者が落とし主から貰えるお礼を期待しない奥ゆかしさ。お祖父さんの中で、私の父への評価はうなぎ登りに上がっていったらしかった。会えない時間が気持ちを育てるとは、恋愛だけに当てはまる現象ではないようだ。

 その時まだ二十代半ばだった父は素朴で正直で善良で、休みの日には寝っ転がってテレビを見たり、ちょっとスロットでも打ちに行きたいな、という所謂どこにでもいる、それから何年を経ても変わることのない一般市民だった。中堅会社の技術畑で働いている、ヒラ社員。

 お祖父さんは父にぜひ恩返しをしたいと思い、会社に役員待遇で来てくれないかと父を誘った。身の丈にあった平凡を愛する父は、棚ぼた的に得る会社を動かせる地位などとんでもない、と当然断る。父としてはただ単に自分の性質を考えての選択だったのだけれど、これがまたお祖父さんの胸を打ってしまったらしい。

 会社の代表取締役として、海千山千の猛者たちと渡り合ってきたお祖父さんの目には、父の人柄は新鮮に映ったようだった。お陰様フィルターを装着すると、凡人も清廉の徒と映る。

 でもお祖父さんがどれだけ気に入ろうと、自分の哲学に殉じる父は頑として頷こうとしない。何を提案しても、ただ落とし物を拾っただけなのだから、何もしてもらういわれはないと突っぱねる。けれどお祖父さんとしてはなんとかして恩義に報いたい。

 そこでお祖父さんは、まだハイハイをしていた私に目を付けた。これならば、と閃いた。

 息子に男の子が生まれたらお嬢さんを嫁にくれないか、と頼んだのだ。気の長い話だけれど、家族になれば何をするにも理由がつけやすい。結婚をするまでの間も子供たちを通して縁を繋いでおける、とお祖父さんは考えたわけだ。

 もちろん父は、何を突飛なことを、と断る。娘には、自分で相手を選ばせてやりたいと言った。まだ生まれてもいないその子にとっても可哀想だろうと。

 でも今度はお祖父さんも頑張った。もちろん、最終的には本人たちの好きにすればいい。これは口約束だけで、いつでも解消できる縁組みだ。

 結局、言葉を尽くして説得しようとするお祖父さんの熱意に負けて、父は首を縦に振った。

 どちらの子供にも決して強制はしないという約束で、私と大芽の婚約は成ったのだった。


 帰り際、玄関でお祖父さんはまだ生後八ヶ月だった私を抱き上げてくれたそうなのだけれど、よく覚えていない。まあ当たり前だ。

 人見知りの時期だった私は盛大に泣いたそうだ。

 零れる涙を弾く産毛が、開け放たれた玄関からの光に白く透けていたと。鼻よりも高い、滑らかな桃のような頬が愛らしかったと、在りし日のお祖父さんは懐かしそうに眼を細めて語っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ