あの日のサイレン
父が亡くなったのは、私が6歳の時…
一人娘の私を父は溺愛し、私はお父さんっ子だった。
そんな父との別れは、突然やって来た。
母と出かけた雨の中、私は道路の向こう側に大好きな父の姿を見つけた。
そして母が私に言った。
「緋呂ちゃん、ほら、お父さんよ………」
その先の言葉は……思い出せない。
私は大好きな父のところへ行こうと、車道へ駆け出した。
「お父さぁん!」
私の声に気づいた父が、私に向かって走り出す。
その姿が、父を見た最期の光景だった。
ドン!!
赤い傘が宙を舞う。
強い衝撃を受けた後、しばらくして救急車のサイレンが聞こえ来た。
ピーポー…ピーポー…ピーポー……
私の記憶はそこで終わった。
そして父は私を庇って死んだ…
◇
「おはよう、お父さん、お母さん」
父と母、そして私が写った写真に向かって声をかける。
私は丹羽緋呂子。30歳。
2歳上の夫と6歳の娘の3人暮らし。
父が亡くなった後、母は心を病んでしまった。
そして私たちは母の実家へ身を寄せた。
だが数年後、母は重い病を患い、まだ35歳の若さで亡くなった。
私が10歳の時だった。
母の葬儀の時、祖母がぽつりぽつりと母の事を呟いていた。
「暁子はおとなしい子だったが…独占欲の強い子でね…昔、近所の子供に人形を取られそうになった時…暁子…その人形をめちゃくちゃに壊したんだよ。人に取られるなら、壊してしまえ…そんな気持ちだったのかね…」
母の遺影を眺めながら誰ともなくしゃべっていた。
私は母が亡くなった事が悲しくて、祖母の隣でただ泣いていた。
だから、その時の祖母の話がよく分からなかった。
私は高校を卒業すると、上京し一人暮らしを始めた。
就職した先で今の主人である丹羽樹と出会い、付き合うようになった。
その後結婚して、一年後に娘の美樹が生まれた。
夫は娘を溺愛した。
かつて私の父がそうだったように…
娘は今年で6歳になる。
あの時の私と同じ年になった。
父が亡くなった時と同じ年…
そのせいか…時々、あの日の事を考える。
なぜ母は、雨の中私を連れて出かけたのだろう。
なぜ父は、あの場所にいたのだろう。
あの時、母は…私になんと言ったのだろう……
「明日からニ泊三日の出張だから、着替え頼むよ」
ぼうっとしていたら、夫が話しかけて来た。
「あ、うん。わかったわ」
「美樹~っ パパと一緒にお風呂に入ろうか?」
「うんっ」
夫は娘を抱き上げると、浴室へと向かって行った。
本当に子煩悩なんだから。
それにしても、最近出張が多くなったわよね。
そのわりには給料は上がらないけど。
もう一人子供が欲しいのに…
短時間のパートでも始めようかしら。
来年、美樹が小学校に上がれば、時間も取れるだろうから。
そんな事を考えながら、夫の着替えを準備していた。
「ん? こんな派手なネクタイあったかしら?」
洋服タンスから一本のネクタイを取り出す。
それは、赤をベースに青や緑などの幾何学模様の入ったデザインがされていた。
明らかに夫の趣味ではない。
「上がったぞ〜」
「ママ~」
お風呂から上がった娘がやって来た。
髪を乾かし、きちんとパジャマも着せてくれている。
本当、育児に協力的で助かるわ。
「あ、ねぇ。このネクタイ、どうしたの?」
私は派手なネクタイを夫に見せながら聞いた。
「……ああ。コーヒーこぼしちゃって。会社の近くにあった店で適当に買ったんだ」
「そうなの? じゃあ、汚れたネクタイ出して、洗っておくから」
「あ、捨てちゃった」
「え〜、もったいないことしないでよっ」
「わりぃ、わりぃ」
そう言いながら冷蔵庫を開け、缶ビールを出す夫。
私は派手なネクタイを見つめていた。
◇
「美樹っ、買い物に行こうか」
「うんっ」
絵本を読んでいた娘が嬉しそうに振り返る。
ふと外を見ると、雨が降って来た。
「やだっ 雨、降ってきちゃった」
「あめぇ? わーいっ」
最近、娘に新しい傘を買った。
それがお気に入りの娘は、傘を差せることを喜んでいた。
小さい手が、ピンク色の傘の柄を握る。
その傘を見て、ふと思い出す事故の記憶。
宙を舞う赤い傘…
赤い傘…
あんな色の傘…私、持っていたっけ?
いくら考えても答えは見つからない。
答えを知っていただろう父と母は、もうこの世にはいない。
「♪っ ♪っ」
娘が楽しそうに歌っている。
最近幼稚園で習ったようだ。
ほとんど歌詞が分からないけれど…
ピーポー…ピーポー…
私はびくりと身体を強張らせた。
あの日から、救急車のサイレンを聞くと胸が詰まる。
《緊急車両が通ります》
スピーカーから流れるアナウンスとともに、救急車が通り過ぎて行った。
小さく息を吐くと、美樹が突然反対側の道路を指差しながら叫んだ。
「あ、パパだぁっ」
出張に言っている夫が、こんなところにいるはずもないのに。
「美樹、パパはお仕事で……」
そう言いながら娘が差す方を見るとそれは……夫だった。
長い茶色の髪をした若い女と、一つの傘に入って歩いてる。
夫の胸元には、あの派手なネクタイがあった。
赤い…ネクタイ…
赤い…
赤……赤……
赤い……傘……
6歳の記憶が蘇る
そうだ、あの時、あの赤い傘を差していたのは父。
その隣には……若い女がいた。
あの時、母も見たはずだ。
父が若い女と歩いているところを。
もしかしたら知っていたのだろうか…父の裏切りを。
だからあの日、あの場所へ雨の中出かけたのだろうか…
そうだ、あの時母はこう言った。
『緋呂ちゃん…ほら、お父さんよ…』
母の声が聞こえる。
「……美樹…ほら、パパよ…」
『大きい声で呼んで……お父さんのところへ行ってごらん』
「大きい声で呼んで……パパのところへ行ってごらん」
「パパぁ!!」
「美樹!?」
夫はすぐに美樹の声に反応した。
こっちを見た夫は目を見開いている。
美樹は夫に向かって車道へ飛び出した。
夫も娘に向かって走り出す。
キキキ——————ッッ!!
ドン!!!!
地面に横たわる夫と娘を、私は呆然と見ていた。
夫といた若い女が、何かを叫んでいる。
……母は分かっていたのではないか?
大好きなお父さんを見れば、私が飛び出す事を。
そしてそんな私を見て、父が助ける事を。
だって、あの時の母の手は簡単にほどけたもの…
そう言えば、祖母が言ってたっけ。
母は独占欲の強い子供だったって。
人に取られるなら、壊してしまうような…
「お母さん……」
私は膝から崩れ落ちた。
ピーポー…ピーポー…ピーポー…
あの日と同じように、救急車のサイレンが遠くから聞こえて来た。
【終】




