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第二話
『地下の声』
階段は思ったよりも深かった。
コンクリートの壁は古く、ところどころにひびが入っている。
戦争前の設備だろう。照明は壊れ、足元はほとんど見えない。
誠一はゆっくりと降りていった。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
この社会で、監視のない場所に自分から入っていく人間などほとんどいない。
むしろ、それ自体が「異常行動」として記録されるはずだった。
だが、ここにはカメラが見当たらない。
それが奇妙だった。
地下に降りきると、古い通路が横に伸びていた。
湿った空気と、かすかな金属の匂い。
遠くから声が聞こえた。
人の声だ。
誠一は壁に身を寄せながら進んだ。
曲がり角の先に、ぼんやりと光が見える。
懐中電灯の光だろうか。
そして声。
「……また監視が強くなってる」
「今週だけで三人消えた」
「だから言っただろ。通信は切れって」
誠一は足を止めた。
間違いない。
オフライン。
政府の記録には存在しない人々。
誠一は思わず息を飲んだ。
自分は、彼らの記録を毎日見ている。
だが実際に会うのは初めてだった。
そのとき。
「そこにいるの、誰だ」
低い声がした。
光がこちらを向く。
誠一は一瞬、逃げるべきか迷った。
だがすでに遅かった。
三人の人影がこちらに近づいてくる。
男が一人。
女が二人。
懐中電灯の光が誠一の顔を照らした。
「……政府の人間か?」
誠一は首を振った。
「違う。たまたま……」
言いかけて、言葉が止まる。
こんな場所に「たまたま」来る人間はいない。
男はじっと誠一を見た。
年齢は四十代くらいだろうか。
無精ひげを生やし、古い作業服を着ている。
「IDは?」
誠一は答えなかった。
答えた瞬間、彼らは逃げるかもしれない。
沈黙が流れる。
やがて女の一人が小さく言った。
「待って。この人……」
懐中電灯を少し近づける。
彼女は誠一の顔を見つめた。
「国家記録庁の人でしょ」
誠一の背中に冷たいものが走った。
「どうしてそれを」
女は苦笑した。
「あなたの顔、ニュースで見たことある。
社会データの説明してた人」
誠一は思い出した。
二年前、政府の広報番組に一度だけ出たことがある。
市民ID制度の安全性について説明する役だった。
男が低く言った。
「つまり監視する側か」
誠一は言葉を探した。
「……そういうわけじゃない」
男は少し黙ったあと、意外にも肩をすくめた。
「まあいい。ここまで来たなら、もう見られても同じだ」
懐中電灯の光が奥を照らす。
誠一は息をのんだ。
地下通路の奥には、小さな空間が広がっていた。
そこには十人ほどの人がいる。
古い発電機。
机。
地図。
紙の本。
そして――
通信機器。
誠一は目を疑った。
「これ……」
女が答えた。
「旧式のネットワーク」
「政府のネットじゃない」
「戦争前の衛星回線を使ってる」
誠一は思わず言った。
「そんなこと……可能なのか」
男が笑った。
「可能だよ。政府が全部壊したわけじゃない」
誠一は周囲を見回した。
ここには監視がない。
社会信用スコアもない。
統合IDもない。
人々は自由に話している。
それだけのことが、なぜか信じられなかった。
女が誠一に水を差し出した。
「座ったら?」
誠一はしばらく迷った。
だが、ゆっくりと椅子に座った。
男が言う。
「聞きたいことがあるんだろ」
誠一は小さくうなずいた。
「どうして……こんなことを」
男は少し考えてから言った。
「逆に聞く」
「今の社会、完璧だと思うか?」
誠一は答えられなかった。
確かに社会は安定している。
犯罪も少ない。
経済も回復した。
だが――
男は続けた。
「俺たちは戦争に勝った」
「でもその結果がこれだ」
「全部管理される世界」
女が静かに言った。
「自由がない社会」
誠一は反射的に言った。
「自由はある」
女は首を振った。
「ないよ」
その言葉は静かだった。
だが、はっきりしていた。
誠一は何も言えなかった。
しばらく沈黙が流れる。
そのとき。
奥の机にいた若い男が突然立ち上がった。
「通信入った!」
全員が振り向く。
「どこから?」
「海外」
誠一の心臓が跳ねた。
海外。
戦争後、日本は世界の通信の大半を管理している。
非公式回線など、ほぼ存在しないはずだった。
若い男が言う。
「アメリカ西海岸」
「地下ネットワークだ」
誠一は思わず立ち上がった。
「まだ……あるのか」
男が振り返る。
「あるさ」
そして、こう言った。
「日本だけじゃない」
「この世界には、まだ抵抗してる人間がいる」
誠一の頭が真っ白になった。
政府の説明では、世界は安定している。
日本が秩序を管理している。
だがもし――
それが全部、本当ではないとしたら。
地下基地の空気が変わった。
誰かが小さく言う。
「始まるかもしれない」
「第二の戦争が」
誠一は立ち尽くした。
自分が毎日整理しているデータ。
政府の記録。
ニュース。
それらすべてが、突然、信用できないものに思えてきた。
男が誠一を見た。
「どうする?」
「上に戻って、何も見なかったことにするか」
「それとも」
少し笑って言う。
「こっち側に来るか」
誠一は暗い地下通路を見た。
そして、地上の完璧な社会を思い浮かべた。
静かな街。
監視カメラ。
ドローン。
整いすぎた世界。
彼はゆっくりと息を吸った。
そして――
答えようとした、そのとき。
突然、地下通路の奥から 機械音 が響いた。
全員が凍りつく。
誰かがつぶやいた。
「嘘だろ……」
男が低く言った。
「監視ドローンだ」
「見つかった」
地下の空気が、一瞬で凍りついた。




