1話
第一話
『勝者の国』
2030年3月。
東京は、世界で最も安全な都市と呼ばれている。
犯罪発生率は、戦争前の十分の一。
失業率はほぼゼロ。
街路にはゴミ一つ落ちていない。
そして――誰もが監視されている。
午前六時。
東京・江東区の高層住宅群に、静かな音楽が流れ始める。
それは目覚ましではない。
政府の朝の放送だ。
「おはようございます。
本日は2030年3月12日。
日本再建計画第4フェーズ、142日目です。
今日も安全な社会づくりにご協力ください。」
音声は柔らかい女性の声で、穏やかだった。
だがこの放送を止める方法はない。
壁のディスプレイが自動的に点灯する。
そこには今日の個人スケジュールが表示されている。
市民ID:JPN-A3-447182
名前
桐生 誠一
年齢
42歳
職業
社会情報記録官
誠一はゆっくりとベッドから起き上がった。
窓の外には、朝日を浴びる東京湾が広がっている。
かつて工場が並んでいた湾岸は、今では巨大な物流港になっていた。
港では無人クレーンが静かに動いている。
人間の姿はほとんどない。
誠一は歯を磨きながら、壁のニュースをぼんやり眺める。
画面には政府公認ニュースが流れていた。
「日本主導の国際再建機構は本日、
北アフリカ地域へのインフラ支援を拡大すると発表しました。」
「世界経済指数は、日本主導の物流安定化により、
3年連続の成長を記録しています。」
誠一はニュースを消した。
内容は毎日ほとんど同じだ。
午前七時。
彼はマンションを出た。
エントランスに警備員はいない。
代わりに、天井に小さな黒いレンズが並んでいる。
顔認証カメラ。
外に出ると、空には三機の巡回ドローンが浮かんでいた。
それは鳥のように静かに旋回している。
誠一は慣れた様子で駅へ向かった。
豊洲駅。
かつての改札は撤去されている。
人々は歩くだけで通過する。
一歩足を踏み入れると、上部カメラが顔を認識する。
0.2秒。
その間に
個人ID
残高
移動履歴
社会信用スコア
すべてが照合される。
問題がなければ、何も起きない。
ただ歩けるだけだ。
電車の中は静かだった。
全員が端末を見ている。
会話はほとんどない。
誠一の隣に座った若い女性が、小さくため息をついた。
画面にはこんな文字が出ている。
「社会貢献スコア:−2」
理由
「公共空間での発言内容が不適切」
女性は画面を閉じた。
誠一は見ていないふりをした。
午前八時。
霞が関。
政府機関の建物は戦争後に建て直され、
ガラスと金属でできた巨大な構造物になっている。
誠一の勤務先はここだった。
国家記録庁 社会情報分析局
彼の仕事は簡単だ。
市民の記録を整理すること。
行動履歴
発言ログ
SNS
通信履歴
購買履歴
すべてのデータが集まる。
AIが分析する。
人間の役目は、その結果を「確認」することだった。
デスクに座ると、端末が自動で起動した。
今日の案件は三件。
誠一は一つ目を開いた。
対象
男性 36歳
理由
異常行動検知
画面に行動ログが並ぶ。
・深夜の移動
・通信遮断区域への接近
・未登録端末の使用
誠一は小さく息をついた。
このパターンはよく知っている。
「オフライン」
政府の監視網から外れようとする人々。
表向きには存在しないことになっている。
だが誠一は、毎日のようにその記録を見ていた。
昼過ぎ。
食堂で昼食を取っていると、同僚が小声で言った。
「昨日また捕まったらしいな」
「誰が?」
「オフライン」
誠一は黙って味噌汁を飲んだ。
同僚は続けた。
「地下だってさ」
「地下?」
「古い地下鉄。監視が弱い場所があるらしい」
誠一は何も答えなかった。
その夜。
帰宅途中、誠一はふと足を止めた。
豊洲の再開発地区。
整然とした街のはずだった。
だがビルの裏に、古い階段があった。
戦争前の施設の名残だろう。
地下へ続く、暗い階段。
その入口に、小さな紙が貼られていた。
手書きの文字だった。
「ここから外へ」
誠一は周囲を見た。
カメラは……ない。
ドローンの影もない。
胸が妙にざわつく。
この社会で、
**「監視がない場所」**など存在しないはずだった。
誠一はゆっくりと階段を見下ろした。
暗闇の奥から、
かすかな光が見えた気がした。
そしてその瞬間、彼は気づく。
もしかすると――
この完璧な社会には、
まだ誰も知らない 「別の世界」 があるのかもしれない。
誠一はしばらく立ち尽くしていた。
その後、静かに階段へ足を踏み出した。
闇の中へ。




