008 亡霊の合図(シグナル)
王都エーテルガルドの巨大な城門を潜り抜けて大通りをしばらく進むと、恒一は馬車をとめ、御者席から降りた。
ラウルは慌てて、馬車の客室から降りてきて
「感謝いたします、今泉殿! この恩は必ず……」
涙ながらに縋り付こうとするシルバーヴァイン商会の主、ラウル・ヴァレリウスを、恒一は冷徹な眼差しで突き放した。
「貸しにしておく。いずれ返してもらう。……いいな、深追いはするな」
短く、拒絶を含んだ声を残し、恒一は足早に人混みの中へと紛れ込んだ。 活気に満ちた大通りの喧騒。
だが恒一は、その中に潜む「視線」を肌で感じ取っていた。
路地裏の湿った死角に滑り込むと、恒一は手際よく旅装の裏地を反転させる。 王都の庶民が好む、泥汚れに強い汎用的な外套へと擬装を切り替えた。
その最中、網膜に投影されたHUDが、鋭い警告音と共に赤いアラートを弾き出した。 門の衛兵が、検問の際に密かに放った「追跡用魔導」を捉えたのだ。
「……素人だな」
恒一は溜息混じりに、懐から懐中時計のような金属体を取り出した。 防衛省技術研究本部が試作した、局地用マナ・ジャマー「MK-01」。
リュウズを一段引き出し、ポテンショメータを微調整すると、自身の周囲に限定的な疑似魔力ノイズが展開される。
追跡のシグナルは、MK-01が放つランダムなノイズによって瞬時に上書きされ、衛兵の監視モニターから恒一の座標は完全に消失した。
これで、彼はこの王都において誰にも捕捉されない「亡霊」となった。
* * *
深夜の王都。不気味なほどの静寂と、焦げ付くような殺気が入り混じっていた。
恒一は足音を殺し、かつてレオンハルトと非公式の連絡手段として定めていた「廃屋の酒場」へと向かった。
直接の接触は、現在の王国内部で監視下に置かれているレオンハルトの立場を致命的に危うくし、ひいては背後にいる「日本」という国家の影を露呈させるリスクがある。
恒一は酒場の裏手、崩れかけたレンガの壁の前に立った。ナイフを取り出し、特定の角度から月光が当たった時だけ判別できるほどの微細な傷を刻み込む。
それは「24時間後の接触」を意味する、20年前の古い符牒だ。
魔導通信の傍受(SIGINT)が日常化し、あらゆる電波が敵対国家のフィルターにかけられるこの時代において、こうした泥臭いアナログの手法こそが、皮肉にも最も確実な防壁となる。
将軍として身動きを封じられているレオンハルトだったが、彼は今も、信頼できる「かつての戦友」の血縁者を使い、定期的にこの思い出の場所をチェックさせていた。
そして翌深夜。
王都の廃墟。今は使われていない下水道施設。
湿った夜気に包まれた約束の場所に、一人の男が姿を現した。 護衛を撒き、重厚な外套でその屈強な体躯を隠した男――エーテルガルド連合王国軍将軍、レオンハルト・グラーツだ。
「……本当に、幽霊が現れるとはな」
「将軍、感傷に浸る時間はないぞ。今、おまえの国は、外敵だけでなく内側から焼かれ始めている」
一つのデバイスを取り出した。統合端末「AN/GS-25 ARC-Zero」。
恒一がタッチパネルに触れると、洗練されたインターフェースが起動し、空間に青白いホログラムが展開される。
そこには、日本側のドローン網「ヤタガラス」が収集した、王都内の「情報の汚染」が可視化されていた。
空間に展開された青白いホログラムが、王都内の「不自然な情報の流れ」を可視化していく。
表示されたのは、日本側のドローン網が収集した、民衆の怒りを特定の方向へ誘導するための外部勢力による「工作のログ」。
「そこまでだ。……将軍、深夜の散歩にしては、随分と変わった方とお会いしているのですね」
背後の闇から、乾いた金属音と共に魔法銃のチャージ音が響いた。
現れたのは、情報局の若手分析官、レイナ・ヴァイス。 彼女は将軍のわずかな行動パターンの変異を割り出し、独力でこの密会場所を特定していた。
「レイナ。君がここへ来るとはな。さすがとでも言っておこうか」 レオンハルトの声に、レイナは視線を外さずに応じた。
「将軍の我々を欺こうとしても無駄です。まさか、あなたが売国奴だったとは……。『王国の特級戦犯』と密会し、出所不明の情報を共有しているという最悪の事実。言い逃れできないと思われますが」
レイナは王国内の情報漏洩の現場に立ち会ったと確信しているのだろう。
そして、その視線は、恒一の手元にあるARC-Zero(零式)に向けられていた。
彼女にとって、恒一が提示している高精度のログは、王国の情報局ですら到達できていない「禁断の領域」の産物に見えたはずだ。
「レイナ・ヴァイス分析官。あんたは印刷インクの成分や語彙のテンプレートから、すでにこの騒動が『仕組まれたもの』であることを嗅ぎ取っていたはずだ。だが、あと一歩が足りなかった。違うか?」
レイナの眉が、わずかに跳ねた。銃口は微塵も揺るがないが、その瞳には驚揺が混じる。
「……何が言いたい」
「あんたが掴んでいたのは、毒が撒かれたという『結果』だ。俺が持ってきたのは、その毒を盛った連中がどこに潜み、どのチャンネルで本国と通信しているかという『発信源』のログだ」
恒一はARC-Zeroを操作し、レイナの前にホログラムを展開する。 レイナがそれを一瞥した瞬間、彼女の表情が凍りついた。 彼女が疑っていた「情報の汚染」、その背後に潜む実行犯たちの具体的な足跡が、そこには克明に記録されていた。
「これは……王国軍の予備チャンネル? まさか、軍の内部に中継地点が置かれているというの?」
「そうだ。民衆が操られているだけじゃない。あんたの身内が、敵のために裏口を開けている。……レイナさん、あんたの正義が『真実』に根ざしたものなら、この事実を握って何をすべきか、分析官として判断しろ」
レイナは魔法銃のチャージを、ゆっくりと解除した。
彼女が戦慄したのは捏造の事実そのものではなく、自国が「内部から食い破られていた」という、恒一の提示した情報の圧倒的な精度と残酷さだった。
* * *
王都の廃墟で繰り広げられるその密やかな対峙は、上空数千メートルで滞空する「HALE-M」のセンサーを通じ、遠く離れた日本の「防衛省情報部」へリアルタイムで共有されていた。
「おやおや、今泉さん。彼女が一番気にしていた『ミッシングリンク』を餌にしましたか。食いつきは上々ですね」
黒崎俊介は、窓のない官邸地下室で大型モニターを見つめ、冷淡に口角を吊り上げた。
その隣で、鷹宮直人が一切の感情を排した手つきでキーボードを叩く。
「レイナ・ヴァイスの端末へのバイパス確立。これより、王立情報局のサーバー群に対し、彼女の権限を経由したバックドアを設置します」
この国境なき情報の回廊の頂点に、内閣総理大臣・高城沙羅は座っていた。 彼女は重厚な革張りの椅子に身を預け、恒一の背中を、冷徹な眼差しで射抜く。
「彼に続けさせなさい。……王国が自ら、その喉を差し出して『助けてくれ』と悲鳴を上げるまで。その瞬間こそが、我が国が『自国民の保護』を唯一絶対の大義名分に、34年分の利子をつけてすべてを精算する時よ」
今泉恒一。
彼は今、家族の待つ平和な日本の夜明けを繋ぎ止めるため、再び、独り、異世界の深淵へとその足を踏み入れた。




