005 把握している側
(防衛省情報部・地下分室/レオンハルトから今泉に連絡がある少し前)
窓のない部屋。外音ゼロ。 微かな電子ノイズと、空調が吐き出す無機質な冷気だけが支配するこの空間は、地上で進行している「日常」から完全に切り離されている。壁の時計は十二時で止まったまま。ここには時間の概念すら必要ない。
黒崎俊介は、大型モニターに映し出された**「心拍」**を眺めていた。 それは王都の人口密集地から漏れ出す微弱なマナを、日本のドローン網が受信し、ヒートマップとして再構築したものだ。熱狂と恐怖が混ざり合い、地図上の街区が不気味に明滅している。
「ちょっと……見てくださいよ~、この脈動。まるで出来の悪い劇伴だ」
黒崎は、手元のタッチパネルを流れるように叩く。 「はぁ~、世論の変異指数がレッドゾーンにいっちゃてるね~。教義用語と人道的なキーワードを強引に縫い合わせた、すがすがしいほどに『外注品』らしいプロパガンダ。あちらさんは、これを聖なる声だと信じて踊ってるわけだ」
「構文の繋ぎが不自然だ。生成されたノイズだな」 鷹宮直人は腕を組んだまま、冷徹に付け加えた。彼の視線の先では、膨大な文字列の羅列が、統計学的な歪みとしてグラフ化されていた。
黒崎はニヤリと笑い、画面の端に並ぶ**「仮想ID」**を指でなぞった。 「こっち側のツールが勝手に振った住所によると……なんと、発信源はバラバラ。敵対国家の工作員に、エーテルガルド連合王国が自立するのを嫌がる『元・同盟国』の影。……まさに多国籍軍の持ち寄りパーティ(ポットラック)だ。みんな、ニッコニコな顔でナイフを持って、王国という名の食卓を囲んでらっしゃる」
「王国側、内通者の動きは?」
「情報局の末端が、外部パケットの『裏口』として機能しちゃってるね。自分たちが何を流しているかも分かってないだろうね。……で、その混乱を止めるべき『封印(殲滅魔法)』そのものを、民衆に『透明化しろ』と叫ばせている。……稚拙だけど、恐怖に火をつけられた群衆には、これが唯一の救いに見えるんでしょう」
モニターに赤いポップアップが跳ねる。 〈王都偽旗疑い/儀式場周辺 異常魔力反応検出/メッシュ通信遮断試験完了〉。
「――止めに入るのは、“個人”だけで可能なのか?」 鷹宮が、暗いモニターに反射する己の顔を睨むように問う。
「さすがに無理でしょ。今さら魔法という名の暴力で黙らせても、それは二十年前の悪夢を再演するだけだ。コンプライアンス的に、弊社としましては手が出せませんしね」 黒崎は、わざとらしく肩をすくめて椅子から立ち上がった。
「王国側の協力候補者は?」
「情報局の若手、レイナ・ヴァイス。真面目が服を着て歩いているような子です。僕らが放り込んだ『事実』に動揺して、絶賛アイデンティティ崩壊中。神殿のイザベルも、お上のブラックボックス運用に首を傾げ始めた。二人ともまだ“こちら側”とは言えませんが……。まあ、僕らが用意した『正解』という名のエサを、飲み込み始めてはいる」
スピーカーから、麻生技官の乾いた声が割り込む。 《麻生です。退避ライン、および量子共鳴パスの安定を確認。……いつでもいけます》
「線だけ持っておけ。旗は立てるなよ。僕らはあくまで善良なオブザーバーなんだから」 黒崎は軽口を叩きながら、手元の端末で「要請」を承認した。
モニターに、新しい文字が刻まれる。 《王国側、正式介入要請。座標:第4象限・旧研究所跡》
「……来るか」
「ええ。これは戦争でも救済でもない。『詰みの盤面』を、誰も動かせないシステムに書き換える作業だ。」 黒崎は唇の端を吊り上げた。 「王様も民衆も、今泉氏が持参する『解答』を、平和の処方箋だと思って飲み込むしかないんですよ」
*
(同刻、永田町 官邸地下深部)
内閣総理大臣・高城沙羅は、重厚な革張りの椅子に深く身を預け、手元の機密文書を眺めていた。
鋭利で硬質なその瞳。彼女にとって、政治とは「最少の犠牲で最大の利益を確保する」ための戦場だった。
「……安い正義感は、机の引き出しにでもしまっておきなさい。」
高城は、真っ黒に塗り潰された報告書をデスクに置いた。
「『王国』を救うなんて、そんな聖者のような理屈はどうでもいい。私が求めているのは、この『詰み』を崩し、我が国が望む資源供給ラインを確定させること」
同席する官房長官が、静かに頷く。
「公式な手続きは一切経ていません。本件は総理の直接指揮下にある『特命随時決裁』として処理しました。予算も官房機密費の枠外、完全な秘匿口座から執行されます。表向き、今泉恒一という人間は、我が国のいかなる公的機関とも接触していません」
高城は、視線を窓のない壁へと向けた。
「今泉恒一……。平和な家庭に収まっていた男を、再びあの大地へ引きずり戻すのは気が引けるが、彼以外にこの盤面をひっくり返せる駒はいない」
彼女は、卓上のライターを弄びながら、低い声で言葉を継いだ。
「日の丸を背負った軍隊が今動けば、それはただの『侵略』。だけど…身元不明の『一個人の暴走』なら、それは現地で起きた事故に過ぎない。彼に盤面を徹底的にかき乱させなさい。……そして、向こうの連中が彼に手を出したその瞬間、我々は『正当な怒り』を爆発させる権利を手にする」
官房長官は、彼女の意図を完璧に汲み取って応じた。
「ええ。34年前、我が国の若者たちが突如として姿を消した事件……。あれは不幸な事故などではない。『正体不明の勢力』による、我が国国民に対する組織的な『拉致行為』です。今泉恒一が現地で危機に晒されれば、それは『継続的な人権侵害』の決定的な証拠となる」
高城沙羅は、唇の端をわずかに吊り上げ、冷徹な笑みを浮かべた。
「『我が国の善良な一市民(主人公)に対して、一体何をしてくれてんの?』……そう問いかける準備は整っているわ。34年前の落とし前を、あの世界の資源と利権で、利子をつけて精算させてもらう。彼が向こうで『牙』を剥かれ、我々に救援を求めたその瞬間、我が国は『自国民の保護』を唯一絶対の大義名分に、全戦力を叩き込む」
官房長官は低く頷き、機密書類をケースに収めた。
「承知しております。彼が介入の呼び水となり、我が国が動くべき『正当な大義名分』を作り上げたその瞬間、待機させている全リソースを投入します。それまでは、彼を一切の公的記録から切り離しておくことが、我々の狙いを隠し、かつ最高火力の抑止力を担保する防壁となります」
高城沙羅は、燃え始める紙片の煙を吸い込み、満足げに目を細めた。
「彼に伝えなさい。……『かつて自分が作り出した悪夢に、今度こそ終止符を打ってきなさい。後のことは、私たちがすべて始末してあげる。……34年分、たっぷりとね』。失敗すれば、彼ごと異世界を『なかったこと』にする。それが、国家が彼に示せる最大の誠意よ。……でも、あの男ならやってのけるわ」
高城の言葉は、冷酷な通告であると同時に、今泉恒一という男にすべてを託した、最大級の「侵略準備命令」だった。




