004 詰みを作った者たち
その男は、軍人でありながら一度も地図を見なかった。 彼が凝視しているのは、絶え間なく流れる数字と文章、そして大衆という名の巨大な生き物が吐き出す「感情の波形」だけだ。
「力の源泉は武器でも制度でもなく、集合的意識だ。思想を制した者が時代を制するのだよ」
薄暗い地下室。壁一面に埋め込まれた魔導モニターには、エーテルガルド連合王国の各地――活気に満ちた広場、新聞紙面、厳かな説教壇の映像が、整然とグリッド状に並んでいる。全ての音声はリアルタイムで文字起こしされ、特定の「語彙」の出現頻度に応じて色が塗り分けられていた。
「王国側の世論指数、67%。反殲滅・反再軍備を示唆する語彙の出現率は、三日間で200%を突破しました」
淡々と報告を読み上げる声の主は、敵対国家の情報将校カシム・バルド。彼は指先で画面をスクロールさせながら、別のウィンドウを呼び出した。
「スローガンの言語構造はどうなっている?」
背後の部下が問う。カシムは冷笑を浮かべ、モニター上の赤いマーカーを指した。
「極めて優秀だ。時間軸が『過去』に完全固定されている。『忘れるな』『繰り返すな』『あの惨劇を語り継げ』……。そこに未来への展望は存在しない。未来を語る主語は、一つとして見当たらない」
カシムは満足そうに椅子の背もたれに身を預けた。
「いいか。人間という生き物は、過去の罪を突きつけられ、道徳という鎖で縛られると、未来について『選ぶ』という行為そのものを放棄する。思考停止した民衆ほど、扱いやすい駒はない」
彼は別のタブを呼び出した。王城の深部に鎮座する、殲滅魔法の「起動核」――それを守る封印術式への干渉状況を示すデータだ。
「工作員を動かせ。印刷所二箇所に『王族は封印を解くための“真実の鍵”を隠し持っている』という偽情報を落とせ。実際に殺す必要はない。狙撃銃の照準をちらつかせ、恐怖というスパイスを混ぜるだけでいい」
「……殲滅魔法を撃たせるのが目的ではないのですか?」
若い工作員が戸惑いながら尋ねる。カシムは冷たい目で部下を射抜いた。
「違う。『撃てなくする』のが目的だ。選択肢が存在する限り、王国はまだ持ち直す可能性がある。だが、道徳と恐怖で全ての選択肢を塗り潰せば、彼らは自ら『正しい破滅』という名の袋小路へと迷い込む。自らの手で、国家の守護者としての牙を抜くことになるのだ」
モニターには、紛糾する王国議会の討論記録が映し出されていた。「殲滅魔法は非人道的だ」「あの設計者が残した呪いを再び認めるのか」。 カシムは薄く笑った。彼にとって、今泉恒一という存在は、大衆の憎悪を集中させるための「便利なラベル」に過ぎなかった。
* * *
同じ頃。異世界のとある別の国。
そこには軍服の代わりに、家紋入りのボタンが並ぶ豪奢な上着と、流麗なマントを羽織った男たちが並んでいた。
「エーテルガルド連合王国の殲滅魔法再配備は、世界のパワーバランスを著しく損なう。だが、敵対国家にそのコントロールを奪われるのも得策ではない」
年配の外交官が、資料を置く。
「では、どう着地させる?」
若い男の問いに、外交官は静かに指を組んだ。
「王国が『正義の名のもとに、一歩も動けなくなる状態』を作るのが、我々にとって最も安定したシナリオだ。民衆運動には直接関与しない。だが、第三国経由で“適切な資料”を流し続けろ」
「今泉恒一の名前が、再び浮上しています。……彼の再召喚も検討されているかのと」
外交官はゆっくりと頷いた。
「フッ…幽霊を生き返らせようとは王国も必死だな。だが、問題ない。彼はかつて『殲滅魔法を作り出した男』。その責任を取ってもらうには、うってつけの生贄だろう」
* * *
夜。王城の情報室では、レイナ・ヴァイスが血走った目で端末にかじりついていた。 街中に溢れる偽装ビラのフォント、説教者の話し方の癖、印刷インクに混じった微粒子の成分。
「局長、見てください……。これ、全部同じテンプレートです。印刷所は五つに分散していますが、版下の癖が完全に一致しています……気味が悪い」
レイナの声は、生理的な恐怖で微かに震えていた。
「証拠はあるのか」
「直接の線はありません。ですが、これは明らかに情報テロです。……民衆は今、殲滅魔法を封印している『鍵』――すなわち起動のための権限を王族から剥奪し、公開しろと迫っています。彼らは気づいていない。鍵を壊せば、国を守る盾も同時に消えるということに。このままでは、敵が攻めてくる前に、民衆が自分たちの手で防衛線を破壊します!」
報告を受けたレオンハルト・グラーツは、深く溜息をつき、静かに頷いた。
「……分かっている。証拠などなくても連中の悪意が、肌に刺さるようだ」
物理的な防衛線、外交ルート、民衆の支持。 それら全てが、目に見えない糸で絡め取られ、静かに閉じていく。もはや、既存の地図をどれだけ眺めても、逆転の策は見当たらない。
それでも、レオンハルトは動いた。 異世界の向こう側で平穏に暮らす、かつての親友へ。 世界を焼く魔法を産み落とし、同時にその呪いを誰よりも憎んだ「設計者」へと、救援信号を送った。
敵が「虚像」で攻めてくるのなら。 こちらも「禁じ手」を打つしかない。




