002 名前のない協力者
黒崎との通話を終えたあとも、恒一はしばらく動かなかった。
コーヒーは、すっかり冷め切っていた。 カーテンの隙間から覗く住宅街は、皮肉なほどに平穏だ。
ゴミ袋を出す住人、宅配便のトラック、遠くで響く公園の子供たちの声。
―― 向こうでは、再び戦乱の兆しが見えているというのに。
恒一は冷めたコーヒーをシンクに捨てると、数年も袖を通していない地味な色のマウンテンパーカーを引っ張り出した。 玄関で靴を履く際、一瞬だけ居間を振り返る。まだ寝ているだろうエリシアには何も言わない。それが、かつて異世界へ消え、そして戻ってきた男の意地だったのかもしれない。
(同日午後 東京都内)
指定された場所は、神田の裏通りにひっそりと佇む雑居ビルだった。 一階には「長嶺法律事務所」という、剥げかかった金文字の看板が出ている。道行く人々が振り返ることもない、都市の死角のような場所。
ガタガタと頼りない音を立てるエレベーターで七階へ上がると、そこにはすでに男が待っていた。 派手なチェック柄のスーツをだらしなく着こなした男、黒崎だ。
彼は古びたドアに背を預け、退屈そうにスマートフォンのゲームをいじっていた。
「いやぁ、お久しぶりです、今泉さん。心なしか、少し白髪が多くなってきたんじゃないですか?」
「……本題に入ろう」
恒一が短く返すと、黒崎は「つれないなぁ」と肩をすくめ、事務所の鍵を開けた。
室内は、表の看板とは裏腹に、法律事務所らしさは一切排除されていた。 並べられたデスクには書類の一枚もなく、代わりに壁一面を埋め尽くす大型モニターが、冷徹な青い光を放っている。
「さて」
黒崎が椅子に深く腰掛け、手元のタブレットを操作した。
モニターに映し出されたのは、日本でも、地球上のどの国でもない。恒一がかつてその足で歩き、そしてその手で焼き払った異世界の地図。
「改めて確認させてください。向こうからの接触は……『直接』でしたね?」
「ああ。高位通信術式だ。俺の脳内に直接イメージを送り込んできた」
「やっぱり、向こうの状況は相当マズいようですね。なりふり構っていられない、といったところか」
黒崎はモニターの一点を指差した。そこは、広大な未開発の山岳地帯だ。
「現在、この『異世界』の存在を知っているのは、日本政府の極々一部だけです。他国には一切悟らせていない。……ここには、まだ手つかずのレアメタルの眠ってますからね~。日本としては、この利権を何が何でも、確保したい。まぁ、それ以上に我が国のエネルギー問題を根底から覆しかねない『高純度魔導石』も魅力的でして」
黒崎の眼鏡の奥で、欲望が冷たく光った。
「だが、まだカードが足りないんですよ。今、自衛隊のような組織を動かせば、偵察衛星や他国の情報網を欺き通すことは不可能です。ひとたび『門』の存在が露呈すれば、翌日には大国たちが権利を主張して押し寄せてくる。……だから、まずはあなたのような『個人』が必要でして……」
「……俺を、単独の工作員にするつもりか」
「いやだな~人聞きが悪い。あなたは単なる『里帰りする民間人』ですよ。まあ、公式記録には、あなたの渡航記録も、出国データも一切残らない。たとえ向こうであなたが捕まっても、我々は『どこの誰だか知らない』とシラを切ることができる」
黒崎は不敵に笑った。
「あなたが先に向こうへ入り、状況をかき回し、日本政府が『平和維持』を名目に秘密裏に介入するための地ならしをしてほしい。向こうの混乱がピークに達した時、我々が秩序の回復と引き換えに利権を握る。そのためのパイプ作り。それがあなたの役目です」
「……なるほどな。俺が汚れ仕事を請け負う代わりに、国が後ろ盾になるというわけか」
恒一は、黒崎を射抜くような視線で言葉を継いだ。
「だが、ただの使い捨てにされるつもりはない。俺が向こうで『手に負えない』と判断した時、あんたたちは責任を持って事態を引き取れ。自衛隊でも何でもいい、日本の全リソースを投入して最悪の火種を叩き潰す。……それが、俺がこの話に乗るための最低条件だ」
黒崎が答える前に、背後のドアが開いた。 彫りの深い顔立ちに、一切の無駄を削ぎ落とした体躯。男は恒一の前で足を止めると、冷徹な事務作業をこなすような目で会釈をした。
「鷹宮です。別班の現場責任者を務めております」
「彼は『保険』の担当ですよ」と黒崎が補足する。
鷹宮が、氷のような無表情で言葉を継いだ。
「我々が介入するのは、事態が日本にとって『秘匿を維持したまま、確実に利権を確保できる段階』に達したと判断された時だけです。あなたが二十年前に一人で引き金を引いた時とは違う。今回は、あなたが限界だと声を上げれば、国家という暴力があなたの背中を支える。……ただし、その引き換えにあなたは『国益』という鎖に繋がれることになりますが」
恒一の心臓が、鋭く脈打った。 かつて、誰にも相談できず、たった一人で「殲滅」の魔法を選択したあの夜。救いのない静寂。 それに比べれば、例えエゴに塗れた国家であっても、切り札として手元に置いておけるのは大きなメリットだった。
「……いいだろう。俺が『個人』としてどこまで抗えるか、あんたたちに特等席で見せてやるよ。だが、この平和な国を泥沼に引きずり込むタイミングだけは、俺自身が選ぶ。……これは契約だ」
鷹宮は小さく頷き、気配を消すように部屋を去った。
事務所を出る際、黒崎がふと元の軽い調子で声をかけてきた。
「今泉さん。今回は『名もない協力者』なしの、完全な独力での潜入です。……あなたが蒔いた種が、日本にとって最高の収穫をもたらすことを期待していますよ」
恒一は答えず、エレベーターに乗り込んだ。
外に出ると、正午近い日差しがアスファルトを照らしていた。 平和だ。あまりにも、平和すぎる。 この平穏を守るために、国は異世界の存在を隠し通しながら資源を奪おうとし、自分はそのための「幽霊」として再びあの戦場へ向かおうとしている。
恒一は空を仰ぎ、一度だけ深く息を吐いた。 かつての仲間たちが、命を懸けて築いた平和。それを国のエゴに売り渡すつもりはない。だが、その巨大なエゴさえ利用しなければ、レオンハルトたちを救い、家族のいるこの世界を守り通すことなどできない。
「……易々と、壊させてたまるか」
亡き友との約束、そして守るべき家族。
そのすべてを背負い、彼は国家という名の猛獣の手綱を引き絞る。
最悪の戦火を回避するためなら、正義も悪も利用し尽くすと、冷え切った空に誓いながら。




