012 鋼鉄の森の記憶
「あの日」。それは、20年前、世界を二分した大戦の最果てにあった。
当時、エーテルガルド王国を盟主とする連合国と、ルドルフ帝国を率いる同盟国の激突は泥沼の消耗戦と化していた。連合国は36年前に実施した勇者召喚という禁忌の術式による人材の獲得に成功して以来、急激な成長を遂げてきたが、開戦後も帝国の強固な防衛線を崩せず、戦況は凍りついたように停滞していたのである。
その象徴が、峻険な山脈の唯一の裂け目――戦略上の急所である「コンラート回廊」に築かれた、帝国最大の軍事拠点「コンラート要塞」であった。地の利を活かし、攻めるに難く守るに易いその拠点は、連合国にとっての「絶望の壁」として立ちはだかっていた。
この盤面をひっくり返すために、若き日の今泉恒一が提示したのが、後に「特級戦犯」の烙印を彼に押すこととなる『殲滅魔法』であった。
作戦の発動は、当時の王立工作機関による、命懸けの準備から始まった。
まず行われたのは、「アンカー設置」である。特殊隠密部隊が敵拠点の中枢へと潜入し、要塞の司令部直下に、魔導誘導デバイス「虚空の楔」を打ち込んだ。それは、後に空から降り注ぐ巨大な魔力の「標的」となる、不可視の導火線であった。
続いて、後方の円環大聖堂にて「励起」が開始される。巨大な共鳴箱としての役割を持つその場所に千人の魔導師が集結し、恒一が刻む厳密なリズムに合わせて魔力を練り上げた。千人分の意思が一つに束ねられ、マナ結晶が限界まで励起され、大聖堂は不気味な青白い光に包まれた。
そして、もっとも困難な「位相同期」が始まった。恒一が指揮を執り、個々にばらつきのある魔力の位相を、寸分の狂いもなく一点に重ね合わせていった。わずかなズレが共鳴の暴走を招く極限の緊張状態の中、魔力は一つの巨大な、そして破壊的なうねりへと収束していく。
ついに、「送信」の時が訪れた。完全に同調し、空間を削り取るエネルギーを秘めた「コヒーレント魔力波」が、「大気魔導導波路」――特定の大気層に形成された一時的なマナの通り道――を通して、要塞に打ち込まれたアンカーへと射出されたのである。
アンカー地点で空間の臨界突破が誘発されたその瞬間、世界から「因果の音」が消えた。
通常の爆発にあるような轟音は存在しない。空気分子が振動を伝えるよりも早く、分子そのものが「定義」を失い、崩壊したからである。視界の端から色彩が失われ、すべてが古いモノクロ映画のように色褪せていく。石造りの巨大な城壁も、翻る軍旗も、そしてそこにいた数万の帝国兵たちも、熱も痛みも感じないまま、輪郭からさらさらと純白の灰になって崩れ去った。
後に残されたのは、生命の鼓動も、死の叫びも、戦いの余熱すらも存在しない、ただ「何もなかったこと」にされた、残酷なまでに白い静寂のクレーターだけだった。
殲滅魔法の発動後、恒一はエリシアと共に、今は亡き要塞の跡地へと足を踏み入れた。
要塞がそびえ立っていた場所は、巨大な球状にくり抜かれたような虚無の空間と化していた。自らが産み落とした想定以上の破壊規模に、恒一自身も言い知れぬ恐れを抱く。しかし、かつての司令部直下、ボイド・アンカーが打ち込まれた場所付近で、不自然に破壊を免れているのを彼は発見する。
内部へ侵入し、地下へと続く階段を下りると、そこには不気味に輝く祭壇と、門のような構造物が鎮座していた。周囲に彫られた古代語をエリシアが読み解くと、それはかつてこの世界を救った伝説の勇者が帰還に使用したという施設であることが判明した。殲滅魔法の莫大な余剰エネルギーが、休眠状態にあったこの転移装置を強制的に励起させたのだ。
恒一が不用意に門へ近づいたその時、装置は突如として咆哮を上げるように開き、凄まじい吸引力で彼を飲み込もうとした。
「恒一!」
背後にいたエリシアは躊躇なく彼に飛びつき、その胸に抱きついた。呆然と立ち尽くす調査隊員たちに、恒一が短い別れを告げた瞬間、二人の体は光り輝く門の中へと吸い込まれていった。
次に二人が感じたのは、肺を焼くような排気ガスの臭いと、鼓膜を直接叩き割るような人工的な音の奔流だった。
「……ここは?」
視界が開けた瞬間、圧倒的な「色彩」が彼らの網膜を焼いた。 異世界のモノクロームな静寂とは正反対の、過剰なまでの情報の暴力。見上げるほどの高さで聳え立つ鋼鉄とガラスの巨塔群が、夜の闇を塗り潰すほどの巨大な電飾を纏っている。壁面に埋め込まれた巨大な光のキャンバスからは、極彩色の映像が狂ったような速度で流れ出し、理解不能な異国の旋律を大音量で撒き散らしていた。
足元を見れば、幾条もの白い線が引かれた広大なアスファルトの原野。 信号機が電子的な鳥の鳴き声を上げ、それが切り替わった瞬間、四方八方から数千人もの「群衆」が、まるで意思を持った巨大な生き物のように中央へと流れ込んでくる。
異世界で見てきた、どの王都の祝祭よりも多い人間。それも、鎧も剣も持たず、滑らかな布を身に纏い、皆が等しく発光する小さな板を凝視しながら歩く異様な光景。
「恒一……あれは……」
エリシアが震える指で示したのは、地を這う無数の鉄の獣たちだった。彼らは人工の眼を鋭く光らせ、低い唸り声を上げながら、摩天楼の谷間を驚くべき速度で滑っていく。
頭上では、鋼鉄の蛇のような長大な乗り物が火花を散らして高架を駆け抜け、街全体の空気を震わせている。
「……戻ったんだ」
恒一は、腕の中で硬直しているエリシアを強く抱き寄せた。 数万人の熱量が渦巻き、一秒たりとも静寂を許さない混沌。
二人は、交差する人波のど真ん中で、ただ呆然と「鋼鉄の森」の夜空を見上げていた。




