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001 生き残った者に届く声

世界から、「音」が消えた。


爆発はなく、空間そのものが「定義」を失い、崩壊していく。 光り輝く王都の尖塔も、そこに集結した数万の兵士も、熱すら持たない純白の光の中に溶け込み、次の瞬間には、存在していたという事実ごと初期化クリアされていく。


彼が魔方陣上で書き換えたのは「世界の記述」そのものだった。 何も存在し得ない「真の真空」への強制的な相転移。 原子を繋ぎ止める結合定数はゼロへと収束し、あらゆる物質は構造を維持する術を失う。


熱も衝撃も、因果の音すらも伴わない。 ただ、すべてが雪のような「純白の灰」へと還元されく。

直後、「真空」となった爆心地に突風が流れ込み、「純白の灰」は上空にさらわれていく。


遠視による視界を埋め尽くす、あの冷徹な「白景はっけい」――。


* * *


パチリ、と。

今泉恒一は、デジタル時計の数字が切り替わる数秒前、深い意識の底から浮かび上がるように目を覚ました。五十路を目前にした身体は、目覚まし時計の電子音よりも先に、規則正しい体内時計に従うようになっている。


隣では、妻のエリシアが柔らかな毛布にくるまり、穏やかな寝息を立てていた。 かつて異世界の戦場を共にした頃の、鋭利な刃物のような危うさはもうない。年相応に増えた目尻の皺は、彼女がこの世界で積み重ねてきた穏やかな時間の証拠だった。その寝顔を確かめることで、恒一は自分が今、魔法の火花が散る戦場ではなく、日本の住宅街にいるという事実をようやく肺腑に落とし込む。


布団を抜け、冷えたフローリングの感覚を足の裏に感じながら、音を立てないよう台所へ向かう。 使い慣れたコーヒーメーカーに水を注ぎ、挽いた豆をセットする。やがて、コトコトという低い動作音と共に、香ばしくもどこか苦い香りが狭いLDKに広がり始めた。


カーテンの隙間から覗く外の世界は、薄群青色の夜明けに包まれている。 遠くで新聞配達のバイクがエンジン音を響かせ、角を曲がっていった。


平和だ。 少なくとも、この国においては。


「……おはよう」


背後からかけられた声に、恒一は肩の力を抜いて振り返った。 娘の美咲が、着崩した制服姿で立っている。寝癖のついた髪を雑に結びながら、視線は手元のスマートフォンの発光に吸い寄せられていた。


「今日、早いな」


「テスト。朝のうちに最終確認しておきたい」


娘は視線を上げることなく短く応じると、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。 恒一は黙って、焼き上がったばかりの目玉焼きとベーコンを彼女の前の皿に滑らせる。縁が少しだけカリリと焼けた、完璧な半熟だ。美咲はスマホを置かぬまま、慣れた手つきでトーストにバターを塗り、牛乳をグラスに注いだ。踏み込まないことが、この家族における優しさの形だった。


少し遅れて、息子の悠斗が欠伸を噛み殺しながら起きてくる。 彼は食卓に座るなり、父の姿を上から下まで、訝しげに眺めた。


「父さん、今日は休み?」


恒一は、自分の着ているグレーのニットの袖に目をやった。 普段、仕事に向かう日の彼は、たとえ家の中でも糊のきいたワイシャツのボタンを上まで留めて朝食をとる。

だが今朝の彼は、ワイシャツはおろか腕時計すらしていない。コーヒーを啜る動作も、いつもより緩やかだった。


「ああ、有給だ」


「へぇ。珍しいね。父さんがその格好で朝食食べてるの、正月以来じゃない?」


悠斗はトースターから自分のパンを取り出し、美咲の向かいに座った。 彼は父がかつて「向こう側」で何をしていたか、その断片を知っている。だが、詳細を問うことはしない。恒一が沈黙という分厚い壁で過去を塗り潰していることを、聡い息子は察していた。


食卓には、四つの席がある。 そのうちの一つは、まだ主を欠いたままだ。恒一は、エリシアの分の皿にはラップをかける。

彼女はまだ深い眠りの中にいる。かつて戦場を駆けていた彼女にとって、朝のこのまどろみこそが、何よりも代えがたい「平和の果実」であることを恒一は知っていた。


サク、と悠斗がトーストを噛む音。美咲がスマホをタップする音。 それら平凡な生活音の一つひとつを、恒一はコーヒーの苦みと共にゆっくりと肺腑に落とし込む。


「美咲、テスト頑張れよ」 「言われなくても。悠斗くんこそ、一限から行かなくていいの?」 「一限、休講。昨日言ってなかった?……」


そんな取り留めのない会話。 食器が触れ合う音だけが響く食卓は、どこか脆い均衡の上に成り立っているように見える。だが、この平和な日常こそが今の恒一が守り抜きたいと願うすべてだった。


やがて、「行ってきます」という二つの声が重なる。 美咲のローファーの音と、悠斗のリュックが擦れる音が遠ざかり、玄関の扉が閉まる「カチリ」という乾いた音が静寂の戻った部屋に響いた。


恒一は一人、居間に残った。 エリシアはまだ起きてこない。


彼は自分の分の空いた皿を片付け、最後の一口となったコーヒーを飲み干してから、テーブルに置かれた新聞に手を伸ばした。 社会面の隅、広告に押し潰されそうな小さなコラムが、彼の視線を捉えて離さない。


――二十年前の集団失踪事件、未解決。


世間にとって、それは風化しつつある怪奇事件の一つに過ぎない。 だが恒一にとっては、昨日のことのように鮮明な記憶だ。あの大地で、彼は「殲滅魔法」という名の、神にも等しい暴力を行使した。


平和な台所に残る、トーストの焦げた匂いとコーヒーの余韻。 その穏やかな空気の中で、恒一の心はゆっくりと、あの冷徹な「白景」へと引き戻されていく。


新聞を丁寧に畳み、ソファに深く腰を下ろした、その時だった。


右胸の内側に、奇妙な「重み」が走った。


振動ではない。熱でもない。 それは、何年も使っていなかった古傷が、内側から直接指でなぞられるような、鈍く不快な感覚。


恒一は、呼吸を止めた。


――来るはずがない。


理性が否定する。二十年間、世界の境界は完全に閉ざされていたはずだ。 だが、魂に染み付いた「魔力」の残滓が、狂ったように警鐘を鳴らしている。


恒一は立ち上がり、全てのカーテンを閉めた。室内を薄暗闇が支配する。 外界を遮断し、ゆっくりと目を閉じて、意識の焦点を「現実」から数ミリだけずらす。


それは魔法ではない。ただ、世界の裏側を知り、かつてそこの一部であった者だけが辿り着ける、精神の深淵。


――聞こえる。


《今泉……恒一》


鼓膜を介さない、意識に直接刻み込まれる思念。 掠れてはいるが、忘れるはずのない厳格な響き。


《時間がない……》


不意に、暗闇の中に一人の男の顔が浮かび上がった。 記憶の中よりも随分と老け、疲労によって彫像のように深く刻まれた皴。


「……レオンハルトか」


恒一の声は、自身の耳にも驚くほど低く響いた。


《再び、戦乱の兆候が出ている》


エーテルガルド連合王国軍将軍、レオンハルト・グラーツ。 かつて、恒一の背後で非情な戦況図を睨み、共に地獄を歩んだ男だ。


《周辺国がエーテルガルド連合王国侵攻に向けて動き出している。だが、民衆の平和運動は暴徒化し、…議会でも、殲滅魔法の『廃絶』が議論に上がっている》


その言葉だけで、恒一の背筋に冷たい氷柱が差し込まれたような感覚に陥った。


「俺に、何をしろというんだ。俺はもう、あの世界の人間じゃない」


虚空への問いかけに、長い沈黙が流れる。


《助けてくれ》


それは、かつての「鉄の将軍」からは想像もできない、悲鳴に近い懇願だった。


《戦ってくれとは言わない。だが、今の状況を崩してほしい。私一人では……もう、この濁流を押し止められないのだ》


通信は、そこでぷつりと途絶えた。 静まり返った居間に、自分の荒い呼吸の音だけが残る。


二十年。 ようやく手に入れた、凡庸で尊い生活。それを守るために、彼は過去を捨てたはずだった。


恒一は深く息を吐き出し、震える手でスマートフォンを手に取った。 電話帳の最下層。名前も登録せず、ただ一行の数字の羅列として残していた番号。


数回の無機質な呼び出し音の後、不釣り合いなほど軽薄な声が響いた。


「はい、はぁ〜い。黒崎でーす。」


「今泉だ」


「これは、これは……驚いた。今泉さんから連絡をいただけるなんて、太陽が西から昇るより珍しいですね」


「向こうから、接触があった」


受話器の向こうで、衣擦れの音が止まった。 その一瞬の沈黙が、相手もまた「その時」を予見していたことを物語っていた。


「……内容は?」


「戦乱再燃の兆候。民衆の暴走。そして、殲滅魔法の撤廃が議題に上がっている」


黒崎は、すぐには言葉を返さなかった。普段の道化た仮面の裏側で、彼が状況を冷徹に分析しているのが伝わってくる。


「……そうですか。それはまた、救えない話だ」


「そちらで把握していたか」


「断片的には、ね。こちらもお仕事柄、世界の『揺らぎ』には敏感ですから。……今泉さん。これは――」


「分かっている」


恒一は、黒崎の言葉を遮った。


「個人で背負える話じゃない。一国の政治、ひいては世界の存亡に関わる話だ。俺一人で、どうこうできる段階ではないことは分かっている」


「話が早くて助かります」


黒崎の口調から、軽薄さが消えた。


「どう動きますか?」


「……まず、会おう。詳しい話はそれからだ」


「了解。では、こちらも『協力者』たちに声をかけておきましょう。きっと、今泉さんの助けになるはずだ」


恒一は、重く目を閉じた。 二十年前、莫大な犠牲の果てに、彼は自らの手で戦争を終わらせる決断を下した。それは平和への祈りなどという綺麗なものではなく、これ以上の「罪」を重ねないための、絶望的な拒絶だった。 だからこそ、簡単には戦争ができないような複雑な枠組みを、血を流しながら作り上げたのだ。


「ああ。頼む」


電話を切り、スマートフォンの画面を消す。 再び、静寂が部屋を支配した。家族の気配はないが、空気の中に彼らがいた温もりだけが微かに残っている。


ここは自分の帰る場所だ。守るべき場所だ。


恒一は、自分自身に言い聞かせるように、独り言をこぼした。


「……仲間たちと築いた異世界の平和だ。易々と壊されてたまるか」


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