表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Dragon's Song

神竜さまはご機嫌ななめ

作者: 篁 玖月

 午後の光が、城の庭にやわらかく差し込んでいた。

 噴水の水音だけが響く中、そこに――彼女がいた。


 ノアは神竜の姿のまま、中庭の芝に丸くなっていた。

 パールホワイトの毛並みが陽に透けて、まるで淡い雲が降りてきたみたいに見える。

 けれど、その瞳は少し沈んでいた。

 普段の彼女なら、僕が来た気配にすぐ顔を上げるはずなのに。今日は――知らん顔だ。


「ノア」


 呼びかけると、長い尾がゆるく揺れた。

 それだけ。

 どうしたのかと歩み寄った瞬間、世界がひっくり返る。


「……え?」


 気づけば首根っこを竜の口に咥えられ、ふわりと持ち上げられていた。

 ノアは僕を腹のあたりにそっと置くと、長い尾を前に回して抱きしめるように巻きつけた。

 まるでお気に入りのぬいぐるみを離したくない子どものように。

 ふわふわの毛並が僕の背に押しあてられ、胸の鼓動がすぐ耳元で響く。


 苦しいほど温かい。

 ノアは目を閉じたまま、息をひとつ吐き、僕の髪に頬をすり寄せた。

 その仕草があまりにも自然で、僕はただ、動けずにいた。


「……ノア、苦しいんだけど……」


 返事はない。

 ただ、喉の奥でかすかに鳴る音――低い唸りのような、ため息のような。

 機嫌が悪いときのノアの音だ。

 僕はそっと手を伸ばし、彼女の毛並みを撫でた。

 指先が光の粒をはじく。ふわりと甘い匂いがする。


「何かあったの?」


 沈黙。

 長い時間が流れて、ようやく竜のまぶたが少しだけ開いた。

 蒼い瞳が、遠い空を見ている。僕ではなく、どこか彼方を。


「……ねえ、レックス」


 人の声が、竜の喉から零れた。

 少し掠れたその声に、胸がきゅっと痛む。


「もし……いつか、みんながいなくなったら、私はどうしたらいいんでしょう」


 やっぱり、そうか。

 最近、どこか考え込んでいたのは気づいていた。

 けれど、それがこんなに深い孤独だったなんて。


「みんな、いつか年を取って……。でも私は、竜だから」


 ノアは目を伏せ、尾を小さく巻いた。


「このまま一緒に笑っていても、終わりが来るのが、怖いんです」


 彼女の声は穏やかだった。それが余計に痛かった。

 誰も悪くない。けれど、誰もどうにもできない。

 その現実を、彼女はもう理解している。


 僕は息を吸い、彼女の前に座った。

 羽毛の中から、そっと彼女の頬――いや、竜の頬に手を当てる。

 体温が高くて、掌がじんと熱を持つ。

 目の前の存在がどれほど強くても、内側にあるものはこんなに柔らかい。


「ノア。未来がどうなっても、今は君と一緒にいる」

「……でも」

「“でも”はいらないよ」


 言葉が自然に出た。


「君がどんな姿でも、僕は君の隣にいたい。――それが、僕の選んだ場所だ」


 竜の瞳が、わずかに揺れた。

 長い沈黙のあと、ノアは顔を近づけ、額を僕の胸に押し当てた。


 たぶん泣いているわけじゃない。

 ただ、誰にも見せられない不安を、僕にだけ預けてくれたんだろう。


「……ごめんなさい。怖くて、どうしたらいいか分からなくて」

「謝ることじゃないよ」


 僕は微笑んで、その額に指を滑らせた。


「君が竜でも、人でも、ノアであることは変わらない。僕にとっては、それだけで充分なんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、ノアはゆっくり息を吐き、身体を少し丸めた。

 翼が広がり、僕をすっぽり包み込む。

 昼下がりの庭が、白い羽に閉ざされ、柔らかな闇になる。

 光も音も溶けて、世界に残ったのは、二人分の鼓動だけだった。


「……レックス」

「ん?」

「あなたの時間が終わっても、私はきっと覚えていると思います」

「うん」

「だから……どうか、最後まで笑っていてください」

「約束するよ」


 彼女の声は、ひどく静かだった。

 けれどそのあと、ノアの抱く力が、ひと呼吸ぶんだけ緩んだ。

 そのわずかな間に、彼女の心が僕の胸へと寄りかかってきた気がした。


 * * *


 はぁ……まったく。

 あの王子、どうしてあそこまで言えて“好き”のひと言が出ないのかねぇ。


 イスズ・エルガは聖堂の高窓に肘をつき、ため息まじりに笑った。

 眼下の中庭では、白い竜が翼をたたみ、銀の髪の少年を胸に抱いている。

 空気ごと溶け合うような静けさ。

 傍から見れば告白の一歩手前――いや、九割五分だ。


「“君が竜でも、人でもノアであることは変わらない”ねぇ。そんなこと言っといて、どうして“好き”だけ言えないのさ。理屈っぽい男はこれだから困る」


 つい独り言が漏れる。

 風が髪を揺らし、金の光が袖を照らす。

 遠くで噴水が鳴っている。

 穏やかな午後。

 彼女の視線の先では、二人の世界が閉じていた。


「ノアみたいなのはね、直球じゃないと伝わらないんだよ。“好き”って言葉は、理屈よりずっと強いんだから」


 イスズは目を細めた。

 竜であるノアの時間と、人間の王子の時間。

 そのあいだに流れる隔たりを、彼女だけが知っている。

 それでも――彼らが今、確かに寄り添っていることもまた、真実だった。


「まあ、焦らなくてもそのうちバレるか」


 小さく肩をすくめる。


「ノアの方から“あなたが好きです”って言い出したら、あの坊やどんな顔するんだろうねぇ。……ま、見物だな」


 笑い声が静かに響く。

 その瞳は少し遠くを見ていた。

 人の命の儚さと、愛の強さ。

 その両方を幾千年も見続けてきた竜だけが持つ、優しい哀しみがそこにあった。


「甘酸っぱいのもほどほどにしてほしいもんだねぇ。……見てるこっちが照れるよ」


 窓辺を離れながら、彼女はそっと笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ