神竜さまはご機嫌ななめ
午後の光が、城の庭にやわらかく差し込んでいた。
噴水の水音だけが響く中、そこに――彼女がいた。
ノアは神竜の姿のまま、中庭の芝に丸くなっていた。
パールホワイトの毛並みが陽に透けて、まるで淡い雲が降りてきたみたいに見える。
けれど、その瞳は少し沈んでいた。
普段の彼女なら、僕が来た気配にすぐ顔を上げるはずなのに。今日は――知らん顔だ。
「ノア」
呼びかけると、長い尾がゆるく揺れた。
それだけ。
どうしたのかと歩み寄った瞬間、世界がひっくり返る。
「……え?」
気づけば首根っこを竜の口に咥えられ、ふわりと持ち上げられていた。
ノアは僕を腹のあたりにそっと置くと、長い尾を前に回して抱きしめるように巻きつけた。
まるでお気に入りのぬいぐるみを離したくない子どものように。
ふわふわの毛並が僕の背に押しあてられ、胸の鼓動がすぐ耳元で響く。
苦しいほど温かい。
ノアは目を閉じたまま、息をひとつ吐き、僕の髪に頬をすり寄せた。
その仕草があまりにも自然で、僕はただ、動けずにいた。
「……ノア、苦しいんだけど……」
返事はない。
ただ、喉の奥でかすかに鳴る音――低い唸りのような、ため息のような。
機嫌が悪いときのノアの音だ。
僕はそっと手を伸ばし、彼女の毛並みを撫でた。
指先が光の粒をはじく。ふわりと甘い匂いがする。
「何かあったの?」
沈黙。
長い時間が流れて、ようやく竜のまぶたが少しだけ開いた。
蒼い瞳が、遠い空を見ている。僕ではなく、どこか彼方を。
「……ねえ、レックス」
人の声が、竜の喉から零れた。
少し掠れたその声に、胸がきゅっと痛む。
「もし……いつか、みんながいなくなったら、私はどうしたらいいんでしょう」
やっぱり、そうか。
最近、どこか考え込んでいたのは気づいていた。
けれど、それがこんなに深い孤独だったなんて。
「みんな、いつか年を取って……。でも私は、竜だから」
ノアは目を伏せ、尾を小さく巻いた。
「このまま一緒に笑っていても、終わりが来るのが、怖いんです」
彼女の声は穏やかだった。それが余計に痛かった。
誰も悪くない。けれど、誰もどうにもできない。
その現実を、彼女はもう理解している。
僕は息を吸い、彼女の前に座った。
羽毛の中から、そっと彼女の頬――いや、竜の頬に手を当てる。
体温が高くて、掌がじんと熱を持つ。
目の前の存在がどれほど強くても、内側にあるものはこんなに柔らかい。
「ノア。未来がどうなっても、今は君と一緒にいる」
「……でも」
「“でも”はいらないよ」
言葉が自然に出た。
「君がどんな姿でも、僕は君の隣にいたい。――それが、僕の選んだ場所だ」
竜の瞳が、わずかに揺れた。
長い沈黙のあと、ノアは顔を近づけ、額を僕の胸に押し当てた。
たぶん泣いているわけじゃない。
ただ、誰にも見せられない不安を、僕にだけ預けてくれたんだろう。
「……ごめんなさい。怖くて、どうしたらいいか分からなくて」
「謝ることじゃないよ」
僕は微笑んで、その額に指を滑らせた。
「君が竜でも、人でも、ノアであることは変わらない。僕にとっては、それだけで充分なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ノアはゆっくり息を吐き、身体を少し丸めた。
翼が広がり、僕をすっぽり包み込む。
昼下がりの庭が、白い羽に閉ざされ、柔らかな闇になる。
光も音も溶けて、世界に残ったのは、二人分の鼓動だけだった。
「……レックス」
「ん?」
「あなたの時間が終わっても、私はきっと覚えていると思います」
「うん」
「だから……どうか、最後まで笑っていてください」
「約束するよ」
彼女の声は、ひどく静かだった。
けれどそのあと、ノアの抱く力が、ひと呼吸ぶんだけ緩んだ。
そのわずかな間に、彼女の心が僕の胸へと寄りかかってきた気がした。
* * *
はぁ……まったく。
あの王子、どうしてあそこまで言えて“好き”のひと言が出ないのかねぇ。
イスズ・エルガは聖堂の高窓に肘をつき、ため息まじりに笑った。
眼下の中庭では、白い竜が翼をたたみ、銀の髪の少年を胸に抱いている。
空気ごと溶け合うような静けさ。
傍から見れば告白の一歩手前――いや、九割五分だ。
「“君が竜でも、人でもノアであることは変わらない”ねぇ。そんなこと言っといて、どうして“好き”だけ言えないのさ。理屈っぽい男はこれだから困る」
つい独り言が漏れる。
風が髪を揺らし、金の光が袖を照らす。
遠くで噴水が鳴っている。
穏やかな午後。
彼女の視線の先では、二人の世界が閉じていた。
「ノアみたいなのはね、直球じゃないと伝わらないんだよ。“好き”って言葉は、理屈よりずっと強いんだから」
イスズは目を細めた。
竜であるノアの時間と、人間の王子の時間。
そのあいだに流れる隔たりを、彼女だけが知っている。
それでも――彼らが今、確かに寄り添っていることもまた、真実だった。
「まあ、焦らなくてもそのうちバレるか」
小さく肩をすくめる。
「ノアの方から“あなたが好きです”って言い出したら、あの坊やどんな顔するんだろうねぇ。……ま、見物だな」
笑い声が静かに響く。
その瞳は少し遠くを見ていた。
人の命の儚さと、愛の強さ。
その両方を幾千年も見続けてきた竜だけが持つ、優しい哀しみがそこにあった。
「甘酸っぱいのもほどほどにしてほしいもんだねぇ。……見てるこっちが照れるよ」
窓辺を離れながら、彼女はそっと笑った。