牡丹の妃
……あらあなた、またいらっしゃったの。
こんなお婆ちゃんの昔話なんて退屈でしょうに。
……あらそう。物好きもいるもんねえ。
なあに? 「薔薇の妃」について聞きたいですって?
やめなさいな、縁起の悪い。
あなたみたいな若いひとたちのあいだでは、「悲劇のプリンセス」だなんて呼ばれているそうだけれど、とんでもない。
あの石女みたいな女は悪しき傾国と呼ぶのがふさわしいでしょう。
……あら、今は石女だなんて言ったらいけないんだったかしら。
おほほ。忘れてちょうだい。
……あらあら、おほほ、薔薇の妃についておしゃべりできることなんてないわよお。
ただあの女、きっと最期まで自分を可哀想な女だとでも思っていたんでしょうね。
あのウマズ……おほほ、薔薇の妃はそういう女だったもの。
いーっつも陰気な顔して、周りのお妃さまたちとはだれとも仲良くならなかったわ。
陛下の寵愛を独占していたにもかかわらず、正妃だっていうのに、後宮を取り仕切ろうともしなかった。
代わりに「牡丹の妃」さまが後宮をあれこれと差配していたものよ。
けれどあの女、一度だって牡丹の妃さまに礼を言ったこともなかった。
牡丹の妃さまと顔を合わせたときのあの女の顔……今でも思い出すとムカムカするわ。
まるで幽霊でも見たような、怯えるような顔をして……。
ああ腹が立つ。
……牡丹の妃さまは立派な方でしたよ。
あたくしは牡丹の妃さまの遠縁でしたの。
おほほ、とは言っても貧乏貴族でしたわ。立派なのは歴史だけ。
だから牡丹の妃さまの侍女として後宮について行った、というわけなのよ。
田舎から出てきた小娘のあたくしにも、牡丹の妃さまは意地悪なことなんてひとつもしませんでしたよ。
いつもしゃんと背筋を伸ばして、気品をそなえた、とても優しい方でしたわ。
あの薔薇の妃が後宮のことをひとっつもしないから、牡丹の妃さまは見かねて取り仕切っていた話はしましたわよね?
ですから牡丹の妃さまを表立って悪く言うお妃さまはいませんでしたよ。
もちろん陰では自分を棚に上げてあれこれ言うひとはいましたよ。
でもそんなひとたちだって、表立って牡丹の妃さまを悪く言うことなんてできなかった。
牡丹の妃さまほど立派な方はいませんでしたからね。
けれど……。
……牡丹の妃さまは、一度だけ薔薇の妃に苦言を呈したことがあったわ。
あの女のためにわざわざお茶会の場を設けて。
……薔薇の妃は一度も牡丹の妃さまをお茶会に招いたことなんてありませんでしたけどね。
ええ、それで、あのときもあの女、怯えた顔をしてずっとうつむていましたわ。
あたくしが淹れたお茶には一度も手をつけませんでした。
牡丹の妃さまは珍しく、「わたくしの侍女が出したお茶は飲めないかしら?」と薔薇の妃におっしゃられた。
きっと、牡丹の妃さまも薔薇の妃には思うところがあったのでしょうね。
あたくしには、静かに怒っておられるように見えた。
牡丹の妃さまは
「薔薇の妃さまはいつもまるで、さも自分が虐げられているような顔をしてらっしゃるのはどうしてかしら?」
と固い声でおっしゃられたわ。
牡丹の妃さまの凛としたお声には怒りがにじんでいるように聞こえましたけれど、その目はとっても冷たかった。
あたくしに向けられたものではなかったけれど、聞いているだけで、見ただけで、震え上がってしまいそうな。
……これは牡丹の妃さまを中傷するものではないことは、わかっていますわよね?
ええ、それならいいんだけれど。
……あのお茶会のあと、薔薇の妃が倒れたと聞いたときは、正直胸がせいせいしたわ。
おほほ、もちろんあのとき淹れたお茶になにか盛っていた……ということはありませんわよ。
いかにも気の小さい女でしたから、牡丹の妃さまにびしっと言われてちょっと気落ちしただけでしょう。
あの女の忌々しい陰気な顔は、忘れたくても忘れられないわ。
けれど陛下はよほど薔薇の妃がお気に入りだったんでしょうね。
あの女が倒れたと聞いて、牡丹の妃さまのお部屋にやってきた。
それでも牡丹の妃さまはひとつもひるみはしませんでしたわ。
でも牡丹の妃さまも腹に据えかねていたんでしょうね。
陛下に向かって……「薔薇の妃さまと永遠の愛で繋がれていらっしゃるのでしたら、陛下も今にあの方と同じ気持ちを味わえますわ」と。
少し不思議な言い方よね? でも……。
……ええ、そのあと陛下も倒れられたものだから……なぜか牡丹の妃さまが、陛下と薔薇の妃を呪っている、という話になって……。
……牡丹の妃さまは牢に入れられました。
あたくしたちは当然抗議したけれど、まあ聞き入れられませんでしたね。
もしかしたら薔薇の妃が余計なことを陛下に吹き込んだのかもしれないわ。
いかにも、あの根暗な女のやりそうなことだもの。
正直に言って、あたくしは今でもあの女を恨んでいます。
あの女さえいなければ、牡丹の妃さまだって、あんな亡くなり方をしなかったんじゃないかと思うと……悔しくて。
……牡丹の妃さまの体は……溶けて……黒くて、どろどろの、油みたいな……。
……ごめんなさいね。お婆ちゃんになると涙もろくなっちゃっていけないわあ。
それに、今でも思い出すとつらいのよ……。
あたくしの家が貧乏だった話はしたでしょ?
両の親にだって、長女だからって、ロクに手をかけられなかったけれど……牡丹の妃さまはあたくしにとっても優しくしてくださったから……。
だから、あの方があんな亡くなり方をされたこと、今でも信じられない気持ちでいるのよ。
どなたかの手引きであの牢を出られて、どこかで幸せに暮らしているんじゃないかって……何度も空想した。
唯一、牡丹の妃さまを喪ったあたくしの心を癒したのは、薔薇の妃が亡くなったと聞いたときだけよ。
……そう、陛下がよりにもよって、ああいう亡くなり方をされたから、心労が祟ったと聞いているけれど……。
まあお陰様で内戦が起こって、国中が荒れて、あの時代は大変だったわ。
陛下があの女ばかりを寵愛さえしていなければ、もしかしたら今とは違う歴史をたどったかもしれないわね。
……だからね、あなた、女を見る目は養わなきゃダメよ?