黄昏
……躾のなっていない犬だねえ。
キャンキャンと吠えたてて、みっともないったらありゃしない。
アンタ、犬はきちんと躾ないと駄目だよ。
躾ができないなら犬なんて飼っちゃあいけないよ。
ロクなことにならないんだからねえ。
アタシが昔奉公していた姫さんもねえ、犬を飼ってらっしゃったよ。
ずいぶんと昔の話さ。
アタシがまだ花の盛りだったころ、もう何十年も前の話。
アタシが仕えていた姫さんは、そこでは水仙の妃さまと呼ばれていたんだ。
そこ? 後宮だよ。
もうとっくの昔になくなった、女ばっかり集めたロクでもない場所だよ。
先の王さまと、正妃さまは仲睦まじかったけれど、いつまで経っても子供を授からなかった。
だから国中から美しい女をかき集めて、後宮が作られたんだ。
まあ先の王さまは見向きもしなかったけどねえ。
初夜には決まって「お前を愛することはない」と言い捨てたと聞くよ。
後宮に集められた女たちは、みな花の名前を与えられたけれど、肝心の王さまはどの花も愛でることはなかった。
そうそう、それでアタシが仕えていた水仙の妃さまはねえ、犬を飼ってらしたんだ。
小さいくせによく吠える犬だったよ。
真っ白でねえ、見た目は可愛らしいんだけどねえ。
こっちに噛みつかんばかり吠えかかるから、下女たちはみんな嫌がっていたよ。
でも飼い主がだれかはわかってたんだろうね。
水仙の妃さまの腕の中ではずいぶんと大人しかったからね。
だから水仙の妃さまはその犬を可愛がってらしたけど、ぜんぜん躾なんてしなかったね。
可愛がるばっかりで、一度も叱りつけたことなんてないんじゃないかねえ。
だから下女たちの陰口と言えば、あの犬のことばかりだった。
水仙の妃さまはアタシら下女たちにも優しかったんだけどね。
あの犬だけはどうにかならないかねえって、下女たちはぶつくさ言ってたもんだよ。
まあ、あの犬は噛みつくそぶりは見せても、実際に噛みついたことはなかったよ。
でも、あのときは……。
あのとき……そうそう、新しく後宮にやってきた菫の妃さまが、水仙の妃さまに挨拶に来られたとき。
そのときもあの犬は――そうだ思い出した。あの犬、シャーリィって名前でね。
シャーリィはそのときも水仙の妃さまの腕に大人しく抱かれてた。
けど菫の妃さまが挨拶に来られたときに、シャーリィは水仙の妃さまの腕からするりと抜け出てね。
菫の妃さまに一直線に駆けて行って……噛みつこうとした。
いや、実際には噛まなかったよ。
でもシャーリィは本気で菫の妃さまを噛もうとしてたようにアタシらには見えた。
水仙の妃さまはすぐにシャーリィを捕まえたし、菫の妃さまも笑って許してくださった。
でもそのあいだもずっと、シャーリィは唸って、暴れて、菫の妃さまに噛みつこうとしていた。
シャーリィのあの恐ろしげな形相、今でも思い出せるよ。
……それから数日もしないうちに、シャーリィはいなくなった。
いつごろにいなくなったかはわからないけど、気がついたら姿が見えなくなっててね。
シャーリィを可愛がってらした水仙の妃さまは大騒ぎして、アタシら下女たちは総出で後宮内を捜し回ることになった。
嫌だったけど、他のお妃さまのお部屋まで訪ねてねえ。
それでもシャーリィは見つからなかった。
いや、そのあとに見つかったんだけどね。
死んでたんだ。
見つかったのはシャーリィの死骸だったんだよ。
それもねえ、後宮の中庭にある、背の高い木の枝のてっぺんに突き刺さってて……。
異様だった。
そのあとは大変だったよ。
シャーリィの死骸を木のてっぺんから下ろすかどうか、だれがするのしないのの一騒動。
結局、じゃんけんに負けた下女が顔を青白くさせながらシャーリィの死骸を下ろしたんだよ。
後宮だから、男手なんて入れられなくってねえ。
水仙の妃さまは心労で臥せってしまわれたし。
もともと、美しいけれどなんだか翳のある方で、シャーリィがあんな死に方をしてからは、だからか不安定な感じになってしまわれてねえ。
……水仙の妃さまは菫の妃さまの仕業じゃないかって、ずっと疑ってらしたよ。
あのとき、菫の妃さまに噛みつこうとしたから、菫の妃さまが下女に命じてシャーリィを殺したんじゃないかってね。
アタシら、水仙の妃さまに仕えてた下女のあいだでも、菫の妃さまが怪しいって言われてたね。
でも、ま、証拠がなかったからね。
いつ、だれがシャーリィを盗み出して、殺して、あの木のてっぺんに突き刺したのか……。
アタシらも散々、安楽椅子探偵気取りで色々噂したもんだけど、結局シャーリィの一件はうやむやに終わった。
シャーリィの一件があったころから、後宮や宮廷で色んな怖いことが起こり始めてねえ……。
ま、そのあとは知っての通り。
三〇〇年続いた輝かしき王朝は滅んで、後宮もなくなっちまったというわけさ。