「彼女」の話
この「彼女」の話は、まだ終わっていない。
もしかしたら、私を含めた関係者全員が、正気でないのかもしれない。
きっとそうだ、そうに違いない。
そうでありますように。
― 1 ―
大学時代、同じ研究室で勉強していたキヨノ君から連絡があった。
彼には似つかわしくない疲れた声で、「相談したいことがある」などと言う。
なので、この前の土曜日のお昼過ぎ、私は彼のアパートを訪ねた。
そこは、私たちが通っていた大学のすぐ近くにある。
さらに言えば、彼は、学生時代からずっと同じアパートに住んでいるのだ。
「お邪魔します」
彼の部屋に入ったのは久しぶりだ。
本棚の位置も、机の位置も、昔と変わらない。
ただ、本がだいぶ増えたみたいだ。
彼は、研究者を目指して大学院に進学し、今では母校で非常勤講師をしている。専攻が古典の分野なので、どうしても古書の類が増えてしまうのだとか。
部屋の中では、キヨノ君の彼女が、コタツに入って本を読んでいた。
視線が交差したので軽く会釈をすると、彼女は無表情で立ち上がり、そのまま部屋から出て行った。
機嫌が悪そうだ。
相談と言うのは、もしかしたら彼女のことなのかもしれない。
「これでいいんだよね?」
キヨノ君は、冷蔵庫からコーラの500ml缶を出して、私に勧める。
研究室で徹夜をするとき、私がこれを何本も開けていたのを憶えていたようだ。
プシュッと開けてごくりと一口。
じつにうまい。
「結構なお手前でした。最近は太るから、ダイエットコーラにしていたんだ。
だから、なおさらおいしく感じる」
「まあ、僕らもいい年だからね」
そう言って、キヨノ君もウーロン茶を一息に飲み干す、そして、
「急に呼び出しちゃってごめん。なんだか困ったことになっていて……」
そう告げると、彼はことの顛末を語り始めた。
― 2 ―
先日、キヨノ君は、久しぶりにホリベ君の家に遊びに行った。
なんでも、酔っぱらっているホリベ君から電話がかかってきて、
「会いたくなったから、遊びに来い」
と、かなり強引に誘われたからだという。
ホリベ君は、やはり私の大学の同窓だ。
キヨノ君と同じサークルに所属していて、私も何度か一緒に遊んだことがある。
ものすごい美男子で、身だしなみにも気合が入っていたから、何と言うか、私たちのような一般人とは違う「オーラ」を放っていた。
一方で、性格はとても褒められたものではなかった。
とにかく、目についた全てのものを「批判」しないと気が済まない質なのだ。
さらには酒癖が悪く、酔っぱらうと、誰彼かまわず喧嘩を吹っ掛ける。
容姿も含め、そういうところに惹かれる女性も多かったのだが、どのケースも長続きせず、会うたびに違う彼女を連れていた。
そんなホリベ君だが、なぜだかキヨノ君のことだけは気に入っていたようだ。
キヨノ君は、私が知っている人物の中で、もっとも大人だった。
これは、年齢という意味ではなく、人格面での話である。
彼は、口数が少なく、冗談ひとつ言わない。
だから、自分から意見を出すようなことは少ないが、要所要所で「なるほど」と思わせる深い見識を披露して、周りを驚かせたりする。
「聖人」とまではいかないとしても「君子」くらいには喩えられるかもしれない。
そんなキヨノ君であったから、ホリベ君が理不尽なことを言った時も、臆せず、けれども穏やかに「それはおかしい」と指摘する。
周りから避けられていたホリベ君は、それが逆に珍しかったようで、在学中は何かというとキヨノ君にべったりだったように記憶している。
あるとき私は、キヨノ君に「よくあんなのと友達付き合いできるね」とド直球で尋ねたことがあった。
キヨノ君は、その問いに困ったような顔をしながらも、「どうにも彼が心配なんだ」と答えた。
ホリベ君のあの性格は、おそらく重度の人間不信から来ており、このままでは遅かれ早かれ社会的に破滅してしまう可能性が高い、とキヨノ君は推察していた。
「自分と縁があった人が、そんなふうになったら悲しいよね」
キヨノ君は、話をそんな言葉で結んだのであった。
― 3 ―
二人の関係性は、おおむねそんな様子であった。
それを踏まえて、話を続ける。
キヨノ君がチャイムを鳴らすと、すでにだいぶお酒をめされたであろうホリベ君が、真っ赤な顔で出迎えた。
部屋の中には、見知らぬ女性がひとり。
この時、キヨノ君は「またか…」と思ったそうだ。
ホリベ君には、新しい彼女ができると必ず周りに自慢するという悪癖があった。
私も一回だけ、その被害にあったことがある。
ホリベ君に「食事を奢るから」と言われてホイホイついていったら、なぜか彼とその彼女とのバカップル丸出しデートに半日随伴するハメになったのだ。
メシごときにつられた当時の自分に喝を入れてやりたいほどである。
……それはさておき、その日は様子が少し違っていた。
その女性の容姿が、こう言ってはなんだが、とても地味だったからだ。
ホリベ君の歴代の彼女は、方向性は異なれど、みな一様に美人だったから、キヨノ君は(しばらく会わないうちに趣味が変わったのかな?)と感じたという。
そんなふうにキヨノ君が思っていることなど知る由もなく、ホリベ君は一方的に話し始める。
どうやら、仕事が上手くいっていないらしい。
「周りはバカばっかりだ」
「後輩は使えないし、上司は無能だ」
そう言った悪口を垂れ流しつづける。
キヨノ君は、そんないつもの愚痴を聞き流しながら、どうにも女性のことが気になっていた。
彼女は何も喋らずに、ただ、ホリベ君の脇でうつむいている。
そのうち、ホリベ君の言うところの「批判」はだんだん熱を帯びてきて、
「ふざけんじゃねえ!」
と勝手に激昂すると、彼女の髪の毛をつかみ、なんとその頭を床に打ち付けたではないか。
キヨノ君はびっくりして、反射的にホリベ君の腕をつかむと、
「何しているんだ!?やめろ、かわいそうじゃないか!」
と制止するが、
「バカ言うんじゃねえよ!こんなの、ただのモノだ!喋りもしねえ人形じゃねえか!俺のモノをどう扱おうが俺の勝手だろうが!」
などととんでもないことを言い出す。
キヨノ君は、ホリベ君の目をまっすぐに見つめると、
「モノじゃない、人だ。バカなことは止めろ。これはもう立派な犯罪だぞ」
ときっぱり宣言した。
その強い口調に驚いたのか、ホリベ君は、キヨノ君を泣きそうな顔で睨みつけると、そのまま部屋から出ていってしまった。
こうして、部屋にはキヨノ君と女性だけが残された。
キヨノ君が彼女に、
「大丈夫ですか?」
と聞いても、彼女は何も答えない。
虚ろな瞳で、虚空を眺めるばかり。
キヨノ君は困ってしまった。
もし、二人をこのまま放置したら、彼女のみならずホリベ君まで不幸になってしまうことは目に見えている。
キヨノ君は、とりあえず彼女をこの場から連れ出すことにした。
― 4 ―
キヨノ君は、彼女をつれてマンションから出ると、最寄りではなく、あえてその隣の駅まで移動した。
それは、仮にホリベ君が逆上して追いかけてきたとしても、すぐには見つからないようにするためだった。
「その時は、とにかく二人を引き離した方がいいって思ったんだ……まあ、正直なところ、人の恋人を勝手に連れ出したっていう後ろめたさが強かったんだと思う。だから、なおさらホリベ君と顔を合わせたくなかったんだ」
こちらが何かを尋ねたわけでもないのに、キヨノ君は恥ずかしそうにそう言い訳するのであった。
さてさて、駅前の喫茶店に入って、飲み物が出てきた頃には、彼女の様子も幾分か落ち着いたように見えた。
だが、どうにも彼女は無口であった。
こちらの言うことは理解しているようなので、キヨノ君は彼女に対して「今はホリベ君と距離を置いた方がいい」ということを諭し、彼女自身の実家とか、そう言った落ち着いた環境に帰るように勧めた。
しかし、彼女は首を横に振るばかり。
どうやら、帰る場所がないらしい。
万策つきたキヨノ君は、結局、彼女を自分のアパートに連れ帰ることにした。
(おや、話が随分と色っぽい方向に転んだじゃないか)
そんなことを思って、ゲスな私はついニヤニヤしてしまった。
するとキヨノ君は、心底呆れたような顔で、
「そんなんじゃないよ。僕はバスルームで寝たから」
などと言うではないか。
キヨノ君は、そっちの方面にまったく興味がないので知らないだろうが、大昔、同じようなシチュエーションを描いた青春アニメ映画があったのだ。
私は、ますますニヤニヤしてしまうのであった。
キヨノ君は、いちいち抗議するのもバカバカしくなったようで、話を続ける。
「それで、朝起きて、様子を見に行ったら、彼女はいなくて、その、なんというか、代わりに人形が置いてあったんだ」
「は?どういうこと?」
「僕にも、よくわからないんだけど……」
彼女はホリベ君の家を出るとき、バッグ一つも持ってこなかった。
それは確かなことらしい。
財布すら持っていなかったから、このアパートに来るまでの交通費や何やらも、すべてキヨノ君持ちだったそうだ。
「……とすると彼女は、一回この部屋の外に出て、どこかからその人形を持って来て、この部屋に置いてから、また出て行ったってことになるのかね」
私のその推察に対し、キヨノ君は曖昧に頷いて、
「それはそうなんだけど……僕が寝ていたバスルームは、玄関の脇にあるから、そこを出たり入ったりしたら、たぶん気が付くんじゃないかなあ」
と返した。
こう言っては失礼だが、そんなに広くない間取りではあるし、いつもとは違う状況で眠りも浅かったことだろう。
キヨノ君の意見はもっともなことに感じた。
「それに、記憶が曖昧なんだけど、玄関の鍵は閉まっていたような気がする」
「彼女は、出て行っていなかったことかい?」
キヨノ君は、その問いに答えなかった。そして、
「もしかしたら、僕はおかしくなってしまったのかもしれない」
そう言って、頭を抱え込んでしまった。
私は、彼にかける言葉がみつからなかった。
さっきまでの'90sトレンディドラマ的展開はどこへやら。
なんだか、凄く嫌な予感がする。
― 5 ―
しばらくして、キヨノ君はふたたび語り始めた。
(お金を持っていないのだから、そう遠くには行っていないはず)
そう思ったキヨノ君は、近所を自転車で一回りしてみた。
しかし、彼女は見つからない。
一番考えられるのは、ホリベ君の家に帰った可能性だ。
確認するべきだろうか。
ただ、昨日の今日で彼に会いに行くには、どうにも気が進まなかった。
それに、これは極論、ホリベ君と彼女の問題である。
彼女が自らの意志でホリベ君のもとに戻ったのなら、部外者が口を挟むことではない。
そうして、どうにもできないまま2日、3日と経った頃、
(このまま放っておいて、取り返しのつかないことになったら、きっと後悔する)
そう意を決したキヨノ君は、ホリベ君に連絡を取ることにした。
LINE、メール、携帯電話……しかし、待てども待てども返事が来ない。
一週間もたった頃には、心配でたまらなくなっていた。
「あのときのホリベ君の顔を思い出したら、最悪、自殺でもしているんじゃないかと……」
せめて、彼の無事だけでも確認しよう、そう思って、キヨノ君はホリベ君のマンションに向かった。
すると、彼の部屋の表札が無くなっていた。
管理人に聞いてみたところ、「引っ越した」とのことであった。
前々からの予定であったらしい。
どうにも落ち着かないキヨノ君は、大学時代のサークル仲間に、最近のホリベ君について何か知らないか連絡を取ってみた。すると、
「パワハラで仕事をクビになったらしい」
「分かれた彼女から暴力沙汰で訴えられているらしい」
「●●にある実家に帰ると言っていた」
などと言う情報がちらほらと入ってきた。
(そういうことであれば、もう、どうしようもない……)
キヨノ君は、自分の無力さを嘆きながら、これ以上の追及を諦めることにした。
― 6 ―
「つまり、いい形ではないにしろ解決したってこと?」
私がそう聞くと、
「ホリベ君に関することは、まあ、そうなんだけど……」
そういうキヨノ君の歯切れは、なんともよろしくない。
どうやら「相談したいこと」の要点は他にあるようだ。
私がそのことを指摘すると、ようやく彼は、
「僕の身の回りで、どうにもよくわからないことが起きている」
のだと言う。
そんなことがあってからしばらく、キヨノ君は、家の中の細かい違和感に気が付くようになった。
例えば、部屋の中に置いてある物の位置が微妙に変わっていたりする。
特に動かされているのは、例の人形だった。
本棚に座らせておいたはずの人形が、仕事から帰ってくると机の上に放置されていたりとか、そういうことがしばしばあったのだという。
あとは、最近読んだ記憶のない本が本棚の手前に出ていたりだとか、流しにあった食器がいつの間にか洗われていたりだとか、実害はないけれどどうにも落ち着かない。
「けれど、どれも僕の思い違いだと言われてしまえば、そんな気もする……」
キヨノ君は、自信なさげにそう言うのだった。
「ところでさ、その人形って、今ここにあるの?ちょっと見せてほしいんだけど」
私がそう質問すると、彼はまた頭を抱えてしまった。
「君が来るまでは、確かにこの部屋にあったんだ。でも、今は見当たらない」
(どう考えても、その人形が怪しいではないか)
私はそう感じた。
もし自分だったらどうするだろう?
その人形を持って、神社にお祓いにでも行くだろうか?
ただ、そのことをキヨノ君に提案するのはいささか気が引けた。
彼は、そういったオカルト的なものを非常に軽蔑していたからである(だから、私が「お祓いに行こう」などと言おうものなら、彼は多かれ少なかれ侮辱されたと感じるだろう)。
故に彼は、ただひたすらに自身の正気を疑い、心を悩ませているのだ。
「ここまで話を聞いた限り、キヨノ君はおかしくなんかなっていないと思う。
支離滅裂な所もないし、しっかりしていると思うよ」
私はそう彼を慰めてから、
「参考までに聞かせてほしいんだけど、その人形って、いったいどんなものなの?大きさとか、見かけとか」
「ええと、大きさはこれくらい、50cmくらいかな」
キヨノ君はそう言って、手をひろげて大きさを表現する。
「それで……布の中に綿が詰まっているタイプの人形で、黒い髪の女の子の姿をしていて……」
「ふんふん」
「あと、そうだ、※※※※の民族衣装を着ている」
「!?」
私は、そこで唸ってしまった。
(お風呂で寝た話といい、人形の話といい、もしかして「1990年代をテーマにしたドッキリ」でも仕掛けられているんだろうか?)
もし相手がキヨノ君でなかったら、本気で隠しカメラを探し回るところだった。
― 7 ―
このような話にまで興味を惹かれるような古参の諸兄であれば、耳にしたことがあるかもしれない。
「※※※※・ドール」或いは「※※※※人形」と呼ばれる都市伝説のことだ。
今回、この話をまとめるに当たって、巷に流れる「※※※※・ドール」に関する情報を整理してみた。
それを以下に挙げるので、適宜お目通しいただければ幸いである。
(知っているよという方は、次の区切りまで読み飛ばしていただいてかまわない)
-----------------------------------------------------------------------------------
「※※※※」には、とある国名が入るが、現在では差別的表現に当たる可能性があるため伏字とする。どうか御了承いただきたい。
-----------------------------------------------------------------------------------
●話の骨子
1990年代初め、まだ日本がバブルで浮かれていたころの話。
この頃、日本に多くの外国人労働者が流れ込んできた。
そのうちの多くは、合法的に就業ビザを取得して働いていたわけであるが、やむを得ない事情があって、非合法で滞在して働いていた人たちも一定数いたわけである。
こうした「不法滞在者」は、法による保護が期待できないため、搾取され、劣悪な環境におかれることが多々あった。
ある日、そうした女性の一人が亡くなった。
彼女は、日本で出会った男性と交際していたが、彼女に病気(当時は偏見が強かった病気であるとされる)が見つかると、その男はすぐに彼女を捨てた。
健康保険に入っていないから、医者にかかるにはとんでもない額が必要になる。
遠い異国で、助けてくれる人は誰もいない。
かと言って、経済的な面から故郷に帰ることもできない。
彼女は、強い恨みの念を遺して死んでいった。
その怨念が乗り移ったのが、「※※※※・ドール」である。
「※※※※・ドール」は、所有者に災いをもたらす。
具体的には、「※※※※・ドール」の歴代の所有者は、みな、精神に異常をきたしたり、非業の死を遂げているとされる。
【補足・考察】
・呪いの犠牲者(人形の所有者)は全て男性である。
・女性が被害にあったケースは伝わっていない。
●情報メディアについて
①私が最初にこの話を目にしたのは、テレビ番組であったように記憶している。
再現ドラマが流れて、そのあと、スタジオで現物が披露された。
【補足・考察】
・もしかしたら、現物ではなく写真だったかもしれない。
・「あなたの〇らない○○」とか、そういったような番組。1995年~1998年くらいに放送?
・私には普通の人形に見えたが、スタジオにいたゲストが、「キャー」とか「気持ち悪い」とか下品な声を上げていて、逆になんだか人形を哀れに感じてしまった。
・その後、人形はどうなったのだろう……記憶に無し。
・見た目については先述のとおり。
②2000年以降は、都市伝説系のコンビニ本にしばしば取り上げられている。
【補足・考察】
・人形の写真も載っていたが、どの本も全て同じ写真だった。
・先のテレビ番組からの転載であろうか。
③インターネット上には、情報があまり存在しない?
【補足・考察】
・時代が中途半端に古いせいだろうか。
・J.I氏の有名な怪談と混同されているフシもある。
●人形の由来について
従来、この人形は、魔除けとして作られるものであった。
その体内には、神聖な言葉や、香木などが納められるが、「※※※※・ドール」には逆に穢れたものが納められている。
【補足・考察】
・先のコンビニ本による情報である。
・現地(※※※※)では、同型の人形がお土産として売られているとのこと。
・また、同地には、血や髪の毛を使って相手を呪う黒魔術がある。
(このことはインターネット上でも確認できた)
●呪いの対象
彼女を捨てた男は、とある高級ブランドのスーツの愛好家であったため、同じブランドを着ている男が呪いの対象になるとのこと。
【補足・考察】
・インターネットの「怪談をまとめる」系のサイトで発見した話。
・現存するイタリアの有名ブランド名が記載されていたが省略。
・偶然の一致だろうが、ホリベ君もこのスーツを好んで着ていた。
・この「スーツ」が某社の「スポーツカー」に置き換わっている話もある。
・誰かの創作だろうか?
― 8 ―
私は結局「※※※※・ドール」の話を、キヨノ君に伝えることはしなかった。
先にも述べたとおり、キヨノ君は「君子」である。
彼の世界を構成しているものの中に、「怪力乱神」は存在しない。
だから、仮にそんな話を伝えたとしても、彼のモラルが拒否反応を示すだけで、何も解決しないであろうことは明らかであったからだ。
かと言って、今の状況で何ができるだろうか?
私たちは、しばらく無言で顔を突き合わせていたが、その沈黙の重さに耐えかねたように、
「まだ日が高いけれど、飲みに行こう」
キヨノ君が、そんなことを言い出した。
現実逃避に過ぎないことは、お互い百も承知している。
それでもその提案は、何より魅力的であったのだ。
「そうだね!わからないことで悩んでもしょうがないよ!パーッとやろうよ!パーッと!」
……そのように景気のいいことを言ったはいいが、貧乏人ふたりが飲みに行くところなど、たかが知れている。
近所の某ファミレスである。
そこで、ワインと適当なつまみを頼んで、乾杯。
「大学を卒業してから10年以上経つけれど、やっていることは変わらないねえ」
私は、そう言って苦笑するしかなかった。
キヨノ君は、早いピッチでワインを空けている。
そのせいもあってか、「先が見えないこと」への不安を口にし始めた。
私からすれば、大学の教員なんてとても魅力的な職業に見えるが、それは常勤講師に限った話であって、非常勤講師はとても不安定な立場なのだそうだ。
「少子化も相まって、学生数も減少傾向にある」
「いつ、契約を切られるかわからない」
「仕事は常勤講師とたいして変わらないのに、給料はひどく安い」
彼の口がだいぶ軽くなってきたので、私は、気になっていたことをさりげなく聞いてみることにした。
「そういや、結婚とかの予定はあるの?」
「いや、こんな身分だし、とてもとても」
「彼女、そろそろ結婚したいなんて言っているんじゃないの?」
「そもそも付き合っている女性なんていないってば」
(じゃあ、私が来たときに部屋の中にいた女性はいったい誰だ!?)
彼は男3人兄弟だと記憶している。すなわち、姉妹ではない。
それでは知人とか友達とか?
それなら、彼女が部屋から出て行くときに声くらいかけるだろう。
そういったことがなかったから、私は「彼女」だと思っていたのだ。
「ん、どうかした?寒いの?」
私は、そう心配してくれるキヨノ君に「飲み過ぎたみたいだ」と嘘をついて、トイレに向かった。
この悪寒が、アルコールのせいでないことは、自分が一番理解している。
― 9 ―
それでも小用を足し、冷たい水で顔を洗ったら、少し落ち着いた。
席に戻ろうとした途中、ふと、目に入ったものがある。
4人掛けの席に、女性がうつむいて一人で座っていた。
ただそれだけだが、どうにも違和感があった。
テーブルの上には、料理もコップも置かれていない。
メニューも広げられていない。
この寒い時期なのに、座席には脱いだはずの上着が置かれていない。
それどころか、バッグの類も見当たらない。
空席に、女性一人だけが、何もせずにただ「居る」という違和感。
彼女の顔をちらりと見た瞬間、反射的に息を飲んだ。
彼女だ。
キヨノ君の部屋にいた彼女だ。
この時になってようやく、彼女が「例の民族衣装」を身に纏っていることに気が付いた。
(キヨノ君の部屋で最初に会った時だって、あれを着ていたじゃないか!?)
なぜ、今までそのことを認識できなかったのか、まったく理解できなかった。
かちかちかちかちかちかちかち……
人生で初めて「恐怖で歯の根が合わない」というのを体験した。
彼女のそばを通らないよう、できるだけ遠回りをして自分の席に戻る。
「ちょっと、大丈夫?さっきよりひどい顔しているけど……」
「い、いやあ、久しぶりに飲みすぎちゃった、へ、へへへ」
私はそう言って平静を取り繕う。
「そう?そういや僕もちょっとお手洗い」
キヨノ君はそう言って、席を立った。
私は、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
彼女のいた席は、トイレから出てきたらちょうど目に入る位置にある。
もし、キヨノ君が彼女を目にしたら、いったい何が起きるのだろうか。
しばらくして戻ってきたキヨノ君は、ひどく落ち着かない様子だった。
「……どうした?大丈夫?具合悪いの?」
そう聞かないのは逆に不自然だと思わせるほど彼の顔色は悪かった。
彼は何も答えずに、視線を辺りに漂わせている。
「おーい、どうした?」
すると彼は、手で顔を覆って、
「僕はもう駄目だ、もう駄目だ」
と繰り返すばかりだった。
何かあったのかと尋ねても、彼は頑として答えない。
しかし、私にはなんとなく理解できた。
きっと彼は、例の席にあの「人形」を見出だしてしまったのだろう。
― 10 ―
その後、キヨノ君は正体を失うまでワインを飲み続けた。
それを止めることはとてもできなかった。
かといって、私自身は酒を飲む気分にもなれない。
店を出るころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
キヨノ君に肩を貸し、彼の部屋の前まで戻ってくると、ドアの上のガラス窓から室内灯のやわらかい光が漏れていた。
「それじゃあ、私はこれで失礼するけど、大丈夫?」
彼は「大丈夫、大丈夫だから」と言ったあと、私にお礼を言うと、フラフラと部屋のドアを開けた。
その時、部屋の中から、彼を支えるように、白くて細い腕が差し出されたのが見えたような気がした。
ドアが閉まり、「カチャリ」と鍵がかかる音が鳴り響く。
室内灯はいつのまにか消えていた。
いや、灯りなど、初めから点いていなかったのかもしれない。
― 11 ―
次の日、キヨノ君から電話がかかってきた。
彼は、昨日の不始末を詫びたあと、
「昨日言ったことは、全部自分の勘違いだったと思うから、忘れてほしい」
そして、
「今回のことは、他の人には内緒にしておいてほしい」
と電話越しに告げるものだから、私としては、
「了解、また何かあったら連絡してね」
としか言いようがなかった。
これは、あくまで私の妄想なのだが、「彼女」は、憑りついている人間には「人形」にしか見えないのではないだろうか。
しかし、周りの者には、「彼女」が「人間」に見える。
なぜだかはわからない。
もしかしたら、呪いをかけた本人すら、こんな結果になることをわかっていなかったのかもしれない。
いずれにせよ、その認識のズレが、人の精神を惑わせ、苛むというのは間違いないように思える。
最後に私は、塵芥のような己の良心に基づいて告白する。
怖い。
泣き叫びたくなるほど怖い。
万が一、キヨノ君が持たなかった場合、彼女はどこへ行くのだろう。
キヨノ君は「今回のことは、他の人には内緒にしておいてほしい」と言った。
つまり、今、「彼女」のことを認識しているのは、キヨノ君の他に私しかいないということになる。
さらに言うならば、私はすでに「彼女」を目にしてしまっている。
ホリベ君のケースから考えても、次は私のところに来る可能性が高い。
いったいどうすればいいのだろう。
病気ならば病院に行けばいい。
犯人がいるなら、警察に相談すればいい。
ただ、人形に呪われた場合、現代日本で頼れる場所なんてあるのだろうか。
いや、そんなことは、どうだっていいことだ。
何より、友人より我が身を心配するエゴイズムが、とてつもなくおぞましくて、苦しい。
途方も無く苦しいのである。