第267話 『引き返せぬ道』
「待て」
用を足すと告げて部隊から離れようとしたデイジーを、黒刃の女は呼び止めた。
デイジーは内心の苛立ちを顔に出さぬように背後を振り返る。
黒刃はその目に鋭い光を浮かべてデイジーを見据えていた。
「……何か?」
デイジーの問いに黒刃は平然とした顔で答える。
「私も行こう」
「まさか連れ小便でもするつもりか? やめてくれよ気持ち悪い」
そう言って肩をすくめるデイジーだが、その胸の内には警笛が響き渡っていた。
(……何だ? 勘付かれたのか?)
「付いてこられるとマズイことでもあるのか?」
そう言う黒刃にデイジーは鼻を鳴らす。
「フン。あるわけねえだろ。けど、ケツの穴をあんたに見られるのは最悪だから、ぜひとも遠慮してもらいたいんだが?」
「黙って付き合え」
そう言うと黒刃は有無を言わさぬ調子でデイジーと肩を並べると歩き出した。
デイジーは内心で舌打ちをしつつ仕方なく自分も足を進める。
(チッ! こんな時に……だが、ここで頑なに拒むのはいかにも怪しい。ここは一度やり過ごすか……時間はかかるが後でもう一度用を足しにいくしかねえ)
先ほどのホトトギスの鳴き声を聞く限り、間違いなくチャドはここに来ている。
鳴き声そのものはホトトギスのそれにしか聞こえないが、鳴く回数をあらかじめ決めてあるため、デイジーにはそれが彼であると分かった。
そして自分が姿を見せた時、近くにこの黒刃がいるのならば、チャドは一度引いて次の機会を待つだろう。
ならばここは安全策を取るべきだ。
そう思い、デイジーは仕方なく黒刃と共に厠にしている水場の川下へと向かう。
周りには人の姿もなく、黒刃と2人きりという何とも居心地の悪い時間だったが、下手な動きを見せて怪しまれるのだけは避けたかった。
だが沈黙を破ったのは意外にも黒刃のほうだった。
「デイジー。貴様に言っておきたいことがある」
その言葉にデイジーはピリッとした危機感が背すじを這い登るのを感じた。
「何だよ。やっぱり説教でもするつもりで厠までついてきたのか。そりゃ私には小言を言われる心当たりは山ほどあるが、今夜はさすがに勘弁してもらいたいぜ。明日には戦争が始まるんだから、せっかく盛り上がっている気分を折らないでくれ」
片眉だけを器用に上げてそう言うデイジーだが、黒刃は表情をピクリとも変えずに言う。
「貴様の反抗的な態度は上には報告していない。私のところで止めている」
「……何が言いたいんだ?」
表情を消してそう問うデイジーに黒刃は間髪入れずに答えた。
「そのまま不遜な態度でいれば、いずれはグラディス将軍やアメーリア様のお耳にも貴様の話は入るだろう。そうなれば元クライド派である貴様など問答無用で縛り首だ。そうなる前に態度を改めろ」
「へぇ……わざわざそんなことを言うためについてきたわけか。私のためってわけじゃないんだろう?」
不敵に笑ってそう言うデイジーに黒刃は冷たい目を向ける。
「当然だ。個人的には貴様が死んでくれるのは大歓迎だが、上に目をつけられての処刑ともなれば監督者である私も責任を追求される。忌々しいことに貴様のせいで処分されるわけだ。クソみたいな話だと思わないか?」
そう言った黒刃の目に一瞬の殺気が走ったかと思うと、彼女は腰を落としてデイジーに襲いかかってきた。
そして一足飛びで距離を詰めると、小刀をデイジーに向けて突き出す。
鋭い突きだったが、警戒していたデイジーはバックステップしながら自分も小刀を抜いて振るい、それをギリギリのところで防いだ。
刃物同士がぶつかり合って金属音が響く。
「くっ!」
「チッ!」
デイジーと黒刃は刃を交わし合ったまま互いに押し合った。
「てめえ……。私を厄介払いしようってのか」
そう言うデイジーに黒刃は無言で激しく刃を振るった。
黒刃が鋭く振るう刃をデイジーはことごとく刃で防ぐが、相手の連続攻撃を防ぐのが精一杯で反撃に転じることが出来ない。
(くっ! やっぱり強い!)
黒刃とも互角に渡り合うデイジーだが、敵の方が一枚上手だった。
激しい小刀のぶつかり合いの最中、黒刃はその口からいきなり緑色の霧を吹き出したのだ。
虚を突かれたデイジーは咄嗟に頭を下げてこれをかわすが、そんなデイジーの側頭部に黒刃は膝蹴りを浴びせた。
「うぐっ!」
たまらずに倒れ込むデイジーに黒刃は即座に馬乗りになると、小刀を彼女の首すじに当てた。
「……勝負ありだ。一度しか言わぬからよく聞け。今後は態度を改めると誓え。そうすればこれまでのことを不問にしてやる」
仰向けに倒れ込んだままデイジーは唇を噛みしめる。
(くそっ! 何とかこの状況を打開できないか。こいつの油断を誘うんだ)
頭の中で様々な策を巡らせながら、デイジーはとにかく口を動かす。
「へっ。今さらだな」
「なに?」
「今さらそんなことを言っても遅いんだよ。いずれてめえは大きな罰を受けることになるぜ」
「……どういうことだ?」
黒刃の目が不審げにギラつく。
それを見たデイジーはパッと閃いた。
そして頭に浮かぶ言葉をスラスラとその口から紡ぐ。
「ここに至るまで私のしていることに気付かなかったんだからな」
「貴様……」
「黒き魔女は私の主にふさわしくねえんだよ。だから私は金髪の女王ブリジットに仕えることにしたんだ」
今、デイジーが語っていることは彼女の偽らざる本音だった。
そしてそれは黒刃の女が想像だにしないことだった。
「なっ……」
黒刃が思わず驚きに声を詰まらせたその時、再びどこかでキョッキョッキョッとホトトギスが鳴いた。
デイジーは反射的にその数を数え、黒刃はほんの一瞬だけ気をそらしてしまった。
その一瞬をデイジーは見逃さなかったのだ。
「ふっ!」
自分の首すじに刃物を当てている黒刃の腕を手でわずかに横にずらすと、首を捻る様にして脱出する。
そして腹筋を使って起き上がり、黒刃の顔面に頭突きを食らわせた。
「がっ!」
思わずのけ反る黒刃の喉元にデイジーが左の拳を叩き込むと、彼女はたまらずに後方に倒れ込んだ。
それを見たデイジーは獣のような唸り声を上げて一気呵成に黒刃に襲いかかる。
それはもう後戻りできない道だがデイジーは躊躇しなかった。
小刀を握る手に力を込め、相手の命を断つ殺意のこもった一撃を放つ。
黒刃の首を目がけて。
「はぁぁぁぁぁっ!」
倒れてもなお素早く起き上がる黒刃は怒りに顔を歪ませ、デイジーの首を狙って小刀を一閃させた。
「おのれぇぇぇぇ!」
2人の刃が光のごとく交錯し、迸る鮮血が宙に噴き出した。
それは黒刃の首から舞い散る赤い血だった。
「…‥‥かはっ! ふ、ふぐぅ……」
自らの血で顔や胸を真っ赤に染め、黒刃は信じられないといった顔でデイジーを一瞥する。
まさか黒刃の自分がデイジーごときに殺されるとは思わなかったのだろう。
だが、黒刃は言葉を発することも出来ず、白目を剝くと、両膝をガクッと折ってその場に崩れ落ちた。
そして体をわずかに震わせると、動かなくなったのだ。
「フンッ。私をナメてたんだよ。てめえは。だから死んだんだ。ザマー見やがれ」
吐き捨てるようにそう言ったデイジーは憎き黒刃の死にざまを見てハッキリと自覚した。
いよいよ自分が引き返せぬ道を進み始めたのだと。
そこに後悔は微塵もなかった。




