第266話 『ホトトギスの夜鳴き』
王国領の南都ロダンを出発してから2日目の夜。
黒き魔女アメーリアの配下であるグラディス将軍が率いる1万6千人の兵は、いよいよ明日の昼には統一ダニアの新都に到達するという位置まで進軍していた。
多くの女たちが戦意を昂らせる中、ジリジリと焦りを募らせている者がいた。
若き女戦士デイジーだ。
彼女がセドリックの息子であるチャドと接触し、新都へ向けての手紙を彼に託してから丸一日以上が過ぎていた。
チャドはもう新都に着いているはずだ。
そしてデイジーの幼馴染であるアーシュラへ手紙を渡しているだろう。
それを読んだアーシュラがすぐさま行動を起こしてくれていれば、そろそろこちらに向かっているはずだ。
そうでなければ明日、この部隊は新都へ到達してしまう。
そうなってからでは全てが遅すぎるのだ。
(アーシュラ。頼む。動いてくれ)
そう願い、落ち着かない時間を過ごすデイジーの内心など露とも知らず、彼女の仲間たちが声をかけてくる。
「デイジー。浮かない顔だな。ガラにもなく緊張してんのか?」
数人の仲間たちは全員、元クライド派だ。
彼女たちは明日の戦いに備えて十分な食事を終え、高揚した顔を見せている。
彼女たちにとってもクライドを殺したグラディスの下で働くのは本意ではないだろう。
それでもこうして戦いを前にすれば自然と気が昂ぶるのがダニアの女というものだ。
だが、今夜だけはデイジーはその気持ちに同調できなかった。
もちろん今自分が秘密裏に動いていることは誰にも明かしていない。
昔からの仲間たちを信用しないわけではないが、慎重に慎重を重ねて動かねばならないからだ。
それに下手に打ち明けて万が一自分がしくじった場合、仲間たちも疑われるのは必至だ。
それは避けたいという思いがあった。
「別に。気に食わない主のために動くのが嫌なだけさ」
「おまえ、まだそんなこと言ってんのかよ。黒刃に聞かれるぞ」
眉を潜める仲間たちにデイジーは肩をすくめる。
「分かってるよ。私だってダニアの女だ。いくら自軍の大将が気に食わなかろうが、仕事はきっちりやるさ」
そう言うとデイジーは小刀を砥石で研ぎ始めた。
そんな彼女の姿を見ると仲間たちは嘆息しながらその場を後にした。
戦の前、ダニアの女たちの過ごし方は様々だ。
仲間たちのように皆でつるんで戦意を高め合う者もいれば、今のデイジーのように1人になって神経を研ぎ澄ませる者もいる。
おそらくデイジーも仲間たちから見れば後者のように見えるのだろう。
彼女は視線を小刀に向けたまま、静かに周囲を窺っていた。
チャドは用事を済ませてこちらに戻ってくる際、ある方法で合図をすると言っていた。
デイジーは今か今かとその合図を待つのだった。
☆☆☆☆☆☆
チャドの手引きで移動し続けていたアーシュラとその護衛のジリアンとリビーは遠くに夜営の灯かりが見えると一様に息を飲んだ。
無数に焚かれた火を見ていると、まるで何もない平原が街に変貌したかのような錯覚を覚える。
「……聞いていた通りの大軍勢だな」
「ああ。新都はこれからあれに攻められるわけか。まずいな」
ジリアンとリビーは闇の中で声を潜めてそう言い合った。
2人の間に守られながらアーシュラは声もなく遥か前方の光景を見やる。
(この任務を何が何でも成し遂げないと)
彼女の胸に不安が渦巻き、その肩に重圧がのしかかる。
何としても砂漠島から最後に召集される軍勢を味方に引き入れなくてはならない。
それが叶わなければ、間違いなく新都は陥落する。
そう思わせるほどの敵軍の数だ。
そんな中、案内役のチャドが3人に注意を促した。
「ここからは用心してくれ。あの野営地よりも広範囲を見張りが見回っているはずだ。俺が合図をしたら、立ち止まって絶対に動かないでくれ」
闇夜の中では動く者は視認されやすい。
チャドはそのことを心得ていた。
彼は3人を導きながら時折迂回しつつ、野営地に近付いていく。
やがてある程度近付くと一行は、野営地の西に広がる背の高い草の中に身を潜めた。
野営は水の確保をするために必ず水場の近くで行われ、そうした水場の近くにはこうした草が生い茂っていることが多い。
周辺で身を隠せるのはここだけだった。
チャドは一行に草むらに身を潜めるよう指示すると、自分は低い姿勢で上を向いた。
「今からデイジーに合図を送る。おまえたちは一切声を出さないでくれ」
そう言うとチャドは奇妙な声を発し始めた。
キョッキョッキョッキョッという特徴的な声だ。
よく響く声にギョッと驚くジリアンとリビーの間で、アーシュラはそれが何かすぐに分かった。
(ホトトギスの夜鳴きだ……)
夜中に鳴いているその声を聞いたことがある。
そしてチャドのそれは本物のホトトギスの声と寸分違わぬ音で夜風に乗って響いた。
まさかこれが人の口から発したものだとは誰も思わないだろう。
☆☆☆☆☆☆
「キョッキョッキョッキョッ……」
どこかでホトトギスが鳴いている。
南ダニアの野営地に響き渡るその耳に声を澄ます者。
気にも留めない者。
そもそも気付いていない者。
どこにでもある夜の光景だった。
だが……この南ダニア軍の中でただ1人。
その声に意味を見出す者がいた。
(来た!)
デイジーは声を発しないようにゆっくりと顔を上げる。
そして自分を落ち着かせるように静かに息を吐いた。
立ち上がると大きく伸びをして、体をほぐすような動きをする。
黒刃の者らがどこから見ているか分からない。
不自然な動きは極力見せないようにしなければならなかった。
「ちょっと便所に行ってくらぁ。腹が冷えちまった」
近くで半分眠っている仲間にそう声をかけると、デイジーは焚火の前から離れて歩き出した。
野営の際は、少し離れた水場の川下に用を足せる専用の厠をいくつか作る。
1万6千人もの兵がそこら中に用を足したらあっという間に悪臭が立ち込めて、食事もままならなくなってしまうからだ。
だが、従軍中は厠に向かう際には、必ず所属する部隊を管轄する黒刃に声をかけて許可を得なければならない。
脱走兵や敵との内通者が出るのを防ぐためだ。
「便所」
デイジーはムスッとした顔で黒刃にそう告げる。
黒刃の女は受け持つ部隊の者らを見渡せる場所に、監督官用の椅子を置いて座っていた。
無口で無愛想な短髪の彼女はチラッとデイジーを見ると、冷たい口調でボソッと言う。
「速やかに済ませろ」
「あいよ」
デイジーはこの黒刃とは反目しあう仲であり、これまで幾度も衝突することがあった。
だがこの夜ばかりは下手にモメて目をつけられたくない。
そういう思いからデイジーは悪態もつかずにその場をやり過ごした。
(ふぅ……今日だけはおとなしくしてねえとな)
そう思って部隊を離れていこうとするデイジーだが、ふいに背後から声をかけられた。
「待て」
その声に立ち止まり振り返ると、そこには先ほどの黒刃が椅子から立ち上がってデイジーを見据えている。
その目には、鋭い光が浮かんでいた。




