第265話 『開戦』
トバイアスが公国首都から出撃した翌日、同じくその首都からビンガム将軍が王国へ向け大軍勢を率いて出立した。
公国軍の数は総勢10万人。
これは相手を牽制するための物量ではなく、確実に攻め落とすための本気の進軍だった。
これだけの数の兵を動員するということは、莫大な軍費がかかっているということだ。
何としても戦果を上げ、自国に利益をもたらさなくてはならない。
将軍は己の双肩にかかる重圧を感じながら、強張った表情で軍の先頭を進んでいた。
歴戦のツワモノとはいえ、すでに50を過ぎた自身の体の衰えは如実に感じている。
だが、軍には彼の息子のうち長男のディーンと次男のデリックもそれぞれ1万人の兵を取りまとめる師団長として参加していた。
そのことにビンガムは思いのほか心強さを感じていて、内心でそんな自分自身を嘲笑う。
(やれやれ……息子たちに家督を譲る日も近いな)
三男のダスティンと四男のディックはすでにこの世に無い。
妻にも先立たれてしまった。
多くのものを得た人生だったが、終盤に差し掛かり多くのものを失ってしまったのだ。
だが自分にとってはこれが最後の戦になるだろうと考え、国のために最後の務めを果たす気でビンガムは己を奮い立たせた。
☆☆☆☆☆
一方、公国軍の大規模侵攻の報を受け、王国はこれを迎え撃つべく同規模の軍勢を用意した。
公国軍が王国領の端から王都へ攻め入るまでは、およそ4日ほどかかる見通しだ。
要所となる都市に王国軍は合計で数万人の軍勢を配備し、王都への侵攻を食い止めるべく動いている。
だが10万人の敵を前にどこまで耐え切れるか分からない。
「ついに公国が口火を切った。我らも迎え撃つ」
王はそう言うと力なく椅子に腰をかけた。
王宮の離れの一室。
そこではつい先ほどまで幼子の遊び声が響いていた。
今その幼子は母の膝に抱かれて眠っている。
ここのところ母に会えずに泣いてばかりいた小さな娘は、母の温もりに安心して寝息を立てていた。
その姿を見ると王は心が痛むのを抑えられない。
母と幼い娘を引き裂いているのが他ならぬ自分だからだ。
そんな王の心痛を察して先代クローディアは目を伏せ言った。
「陛下。我が娘の咎、いつでもこの身に受ける覚悟は出来ております」
「そのようなことをして何になる? ただチェルシーを悲しませるだけの無意味な行為だ」
当代のクローディアが一族を引き連れて王国から去った。
本来ならば王国の尖兵となって最前線で今回の戦に臨むのがダニア分家の義務だというのに。
王国にとって失われた戦力は痛手だった。
責めを負うべきその母親である先代クローディアが今もこうして軟禁で済んでいるのは、王の温情だった。
実際、王の周囲では王妃をはじめとして先代クローディアの処罰を声高に主張する者も少なくない。
だが王はそうした全ての声を押さえ込み、先代をこうして軟禁するに留めてきた。
だがそれも王の負担になっていることを先代は分かっている。
ゆえに彼女は甘んじて処罰を受けることを再三に渡って申し出たが、王は全ては自分が決めることだと言うに留まるばかりだった。
「そなたの娘がビンガム将軍の息子トバイアスを討ち取ることを祈ろう。さすれば王宮の者たちも少しは溜飲が下がり、そなたへの風当たりも多少は和らぐであろうよ。何にせよ今は目の前の戦に集中する時だ。そなたは……チェルシーと共にいてやれ」
戦時下ともなれば王が娘のチェルシーの傍にいてやることはそうそう出来ない。
ならば母と共にいさせてやるのが娘のため。
それが娘を思う父としての王の気持ちだった。
だが、それだけではない。
先代はここのところ病気がちであり、おそらくもうあと数年と生きられないだろうと医師から言われている。
「陛下。戦が終わればどのような罰でも受けます。今はこの子を安心させることにのみ我が力をそそぎますので。どうかご武運を」
そう言う先代の言葉に無言で立ち上がると、王は踵を返して部屋の出口へと向かう。
だが、王はふと立ち止まると先代に背を向けたまま静かに言った。
「そなたを娶ったこと。そのことは微塵も後悔していない。王の立場であってもこの世はままならぬものではあるが、余はそなたを最後まで投げ出さぬ。そなたも罰を受ける覚悟があるくらいならば図々しく生き抜いてみせよ。チェルシーのためにもな」
そう言うと王は静かに部屋を出て行った。
先代は彼が去った後の扉を静かに見つめる。
王と自分との間には愛情などないと思っていた。
王はクローディアの血脈を欲し、自分は王国の力を欲したからこそ成立した婚姻だ。
かつて愛した情夫を病気で亡くしてから先代は男を愛することはなかった。
王に対しても、かつて若き日に胸を焦がした情念のような気持ちを覚えたことはない。
だが、それとは別の王に対する気持ちが彼女の胸にはある。
自分に対しては口数の少ない王だと先代は思っていた。
しかし、その心の奥底にある自分への気遣いを先代は感じ取っている。
当代のクローディアが離反した時、王がいち早く先代を軟禁したのは、側近たちが先代への重罰を求める前に王が迅速な判断を下したのだと彼女は分かっている。
そのおかげで先代は今のところ極刑に処されることもなく、こうして生きているのだ。
彼は王の身でありながら、1人の人としての情があり、そしてそれによって苦しむ人物なのだ。
苦しむことを放棄し、王としてただただ非情な判断を下すことも出来る。
それをしない。
そんな王に先代は友愛の情のようなものを抱き始めていた。
(せめてこの命が尽きるまでのわずかな時間……この子とあの人に少しでも心穏やかに過ごしてもらえたら)
先代はそんなことを思いながら、今は遠く離れたもう1人の娘に思いを馳せる。
(レジーナ。思うままにやりなさい。あなたの人生なのだから)
惜しむらくは今、自分の膝で眠っているチェルシーが成人する姿を見られないことだと思いながら、先代は幼い娘の柔らかな銀髪を撫でるのだった。
☆☆☆☆☆☆
統一ダニアの新都にてウィレミナは夜が開ける前からすでに目を覚まして出かける準備を整えていた。
亡き養母ユーフェミアの遺志を継ぎ、彼女は精力的に働いている。
今は分家の元・十血長にして現・紅刃血盟会の長であるオーレリアの元で彼女は忙しく働き続けていた。
「おはようございます。オーレリア様」
仮庁舎に到着するとオーレリアはすでにその場で忙しく働いていた。
「ああ。公国と王国にいる斥候から知らせが届いた。いよいよ両国が開戦し、ビンガム将軍率いる公国軍が今日中には王国の国境に突入することになるようだ」
「やはり……しかしこちらとしては助かります。両国からこの新都に派兵されればさすがに持ちこたえられませんから」
「ああ。王国と公国が争っている間に、南ダニアの奴らを一掃しておかなければならん」
そう言うオーレリアにウィレミナは頷いた。
今、新都にいる者たちは南ダニア軍との戦のことで頭がいっぱいだった。
だがここにいる2人はもちろん戦後のことを考えている。
戦いが終わった後、この新都がどうなっているかは分からない。
それでも新都を存続させ、発展させていくことを考えることが彼女たちの役目だった。
ウィレミナは胸の内で亡きユーフェミアに誓った。
(母様。必ずこの新都を守り、ダニアの未来へと繋げていきます。どうか見守っていて下さい)




