第264話 『潜む者たち』
「夜は冷えるな。こんな場所にいられるのは一週間が限界だぞ」
共和国大統領の息子であるイライアスはそう不満を口にすると、体を温めるべく肉と野菜で作られたスープを口に運ぶ。
彼の従者である双子の少女エミリーとエミリアが作ったものだ。
護衛の男2人もそれを美味そうにすすっている。
「政府からの支給物資は一ヶ月分用意されておりますので、どうぞご心配なさらず」
「スープのおかわりどうぞ」
無機質な声でそう言うエミリーとエミリアに、イライアスはため息をついた。
「一ヶ月? そりゃありがたいことで。けど、おまえたちだってこんな場所に一ヶ月もいたくないだろう。早く事が始まってほしいんだけどな」
そう言うとイライアスは天幕の入り口からチラリと外を見やる。
枝の合間に見えるそこには、統一ダニアの新都が闇の中に星明かりを受けて佇んでいた。
天幕の入口から隙間風が入り込んできて、イライアスは思わずブルリと身を震わせる。
広めの天幕の中では控えめに焚火が焚かれ、頭上に開けられている煙出しの穴から煙が逃げていく。
そこは火の灯かりが新都側から見られぬよう、森の木々の中に巧妙に張られた天幕だった。
「すでに公国首都と王国領ロダンから軍勢が出兵しています」
「戦自体は数日のうちに始まるでしょう。いつ終わるのかは分かりませんが」
双子の少女たちの言葉に、イライアスは祈るような気持ちで呟きを漏らした。
「サッと始まってパッと終わってもらいたいよ」
実際、大陸東の小国の中にはもう6年もの間、戦争状態にある国が存在する。
あの新都を巡るこちらの戦いはそこまで長くはかからないだろうが、攻城戦ならば兵糧攻めで数ヶ月かけることも珍しくない。
さすがにそんな事態になるようなら、政府に陳情して交代要員を派遣してもらおうとイライアスは思った。
「まああの頑固親父がそうそう簡単に俺の帰国を許しはしないだろうけど」
そう言うとイライアスは用を足すために天幕の外へ出た。
護衛のうち1人がスッと立ち上がると共についてくる。
規則で小便にもついてくる護衛にうんざりしつつ、イライアスはふと何かを感じ取った。
この小高い丘の上にある森の中に、今まではいなかったはずの何者かがいる。
黒髪のイライアスにはそれを感じ取る力がある。
そしてその何者かがどこからか自分を見ていることにも気付いた。
とりあえず立ち止まり、空を見上げるフリをして気配を探る。
そんな彼を見て、後ろからついてきている護衛は不思議そうな顔をした。
「どうされましたか?」
「いや……せっかくこんな野宿をしているんだから、せめて星空でも楽しもうと思ってね」
イライアスの言葉に護衛は怪訝な顔を見せた。
彼はイライアスの持つある力を知らないのだから当然だ。
そうこうしているうちに気配が消えていることにイライアスは気付いた。
こちらを見ていた何者かが立ち去ったのだと彼は理解する。
(やれやれ……しばらくは警戒が必要だな)
それからイライアスは護衛を伴い、用を足すために茂みを踏み分けていった。
☆☆☆☆☆☆
夕闇に紛れて小高い丘の斜面を登り続けていたイーディスは、ふと吹き寄せる風の中に異質な匂いを嗅ぎ取った。
それは土の匂いでもなければ木の匂いでもなく、食欲をそそられる煮炊きの匂いだった。
本来ならばこんな場所で嗅ぐはずの無い匂いだ。
途端にイーディスは警戒して姿勢を低くし、木陰に身を寄せる。
(こんな場所に誰が……? ダニアの女たちの見張りでもいるのかしら。それにしては新都から遠過ぎるけれど)
警戒しつつ、徐々に近付いていくと木々の間に灯かりが見えてくる。
光が外に漏れぬよう巧妙に隠していたが、イーディスのいる角度からはしっかりと灯かりが見えていた。
方角的に新都の方向に光が漏れないように細工をしているのだと彼女はすぐに気が付いた。
(新都を……見張っている?)
自分たち以外に新都を見張る者がいるとしたら、王国か公国の手の者だろう。
そう考えてイーディスは小刀を握り締めた。
とにかくここにいるのが何者か知らねばならない。
邪魔者だとすれば排除する必要がある。
アメーリアの戦につまらない横やりを入れられることは、イーディスとしてもありがたくない。
この戦が無事に黒き魔女の勝利で終われば、イーディスには相応の褒賞が約束されている。
逆に黒き魔女が討ち死にしようものなら、イーディスはパッと戦場から逃げ出してどこかの街に潜伏するつもりだった。
(そういえば私に首ったけの王国貴族のお坊ちゃんがいたわね。名前……何だっけ? 忘れちゃったわ)
自分の美貌があれば王国だろうが公国だろうが、貴族をたらし込んでその愛妾に収まることはたやすい。
もちろんそんな位置で満足することは無い。
相手を利用するだけ利用して金や利権を吸い取り、次々と有力な男に乗り替えて階段を上り詰めればいい。
イーディスは自分の未来は無限に広がっていると信じて疑わない。
自分こそがこの世で最も美しく、最も賢い女なのだから、この世を思うままに渡っていけるのは当たり前のことなのだ。
「ん……?」
そこでイーディスは目を凝らす。
彼女の目は訓練によって闇夜でもある程度は相手を識別できるよう鍛えられていた。
前方数百メートルの木々の間を何かが動いている。
鹿や熊などの獣の類かと思ったが、その動きからそれが2人の人間だとすぐに判別した。
1人は黒髪の男に見える。
もう1人は奇妙な髪形をしていた。
頭髪のほどんどを綺麗に剃り上げているが、頭頂部の一部だけを長く伸ばしていて、その髪を三つ編みにまとめている。
(あれは……弁髪とかいう髪型だわ。ってことは……)
あの髪形をしているのは大陸の中でも特定の少数民族のみだった。
イーディスは砂漠島出身だが、この大陸に渡って来る際に、広く大陸のことを学んでいる。
ゆえにその少数民族が所属している国家をイーディスは知っていた。
(……共和国)
公国の西に隣接している共和国は多民族国家であり、自国内に住まう多くの少数民族たちの独自の文化を許容している。
そんな国家は大陸の中でも共和国をおいて他にはなかった。
弁髪の男がいるということは、あの2人はおそらく共和国から来た者たちだ。
(共和国が介入するというの? だとしたら面倒なことに……)
そこでイーディスはハッと頭を下げる。
弁髪の男の少し前方を歩く黒髪の男が立ち止まり、こちらを見たような気がしたのだ。
男たちとイーディスの間には数百メートルの距離があり、彼女の目でもハッキリと相手の顔までは判別できない。
だというのにイーディスはハッキリと自分を見られたような気がしたのだ。
(気付かれた?)
イーディスは相手がこちらに気付いているような気がして、これ以上ここにいるのはマズイと直感した。
自身の危機感がすぐにここから離れろと告げていた。
彼女はすぐさま踵を返し、足音を立てぬようにその場を後にすると丘を降りて行った。
その顔には苦々しい表情が滲んでいる。
「あの男……黒髪術者だわ。面倒なことにならなきゃいいけれど」
そう呟きを漏らしながらイーディスは今夜の寝床を別に探さねばらならない面倒さに苛立った。
そしてもし共和国がこの戦争に絡んでくるつもりならば、自分の身の振り方を新たに考え直さねばならないと忌々しく思うのだった。




