第244話 『それぞれの思い』
ブリジットは仮庁舎を出ると、ふと立ち止まった。
ボルドのいる天幕へと戻りたかったが今、彼を見ると少しぎこちない態度を見せてしまう自分が嫌だった。
もちろんボルドは悪くない。
悪くはないが……。
「ボルドの奴め……他の女と親しくするなんて」
「ボルドがどうしたって?」
背後からそう声をかけられたブリジットは、思わず内心でビクッとしながらそれを表に出さずに振り返った。
そこにはベラとソニアが立っていた。
ロダンから戻って以来、多忙を極めるブリジットは幼馴染の彼女たちともほとんど顔を合わせることがなかったため、何だか久しぶりに会ったように錯覚してしまう。
「いや……何でもない。それよりどうした?」
戦場から戻って何日も経つというのに、2人の腕や足は真新しいアザだらけだった。
おそらく2人で相当激しい訓練をしているのだろう。
「ブリジット。疲れているところ悪いんだが、少しだけでもいいから稽古をつけてくれないか? アタシらはあのグラディスに次は必ず勝たなきゃならねえ。けど、稽古の相手がいないんだ」
そう言うベラの隣では、ソニアも真剣な面持ちで頷いている。
ブリジットは合点がいった。
ベラとソニアは互いを相手に相当激しい模擬戦を繰り返したんだろう。
この2人は本家の中でも武芸の腕前はブリジットを除けば1、2を争うほどだ。
リネットもユーフェミアもいない今、2人に効果的な稽古をつけられるのは自分しかいない。
そう思ったブリジットは彼女らの申し出を快諾した。
「構わないぞ。ちょうど剣を振るいたい気分だったんだ。付き合おう」
ブリジットは鬱屈とした気分を振り払うべく、2人を伴って訓練へと向かった。
☆☆☆☆☆☆
ボルドは天幕で1人、帰らぬ主を待っている。
ブリジットはここのところ忙しくて戻ってこないが、いつ彼女が戻ってきてもいいようにボルドは準備をしていた。
昼間は住民台帳の記入や歴史書の勉強、そして新都内の視察などに精を出しているボルドだが、夕刻になる前には必ず天幕に戻る。
そして髪や体を拭き清め、手足の爪を綺麗に手入れし、全身に香油を塗る。
小姓らにも手伝ってもらい、情夫としての務めを果たすべくいつでも用意は怠らなかった。
何かと忙しいブリジットの心の慰めになればと思い、ボルドは常々そうしてきたのだ。
そのようにして準備を整えていたボルドの元に、小姓らが戻って来た。
だが彼らは一様に困惑した表情を浮かべている。
それを不思議に思ったボルドは小姓らに声をかけた。
「どうしたのですか?」
「それが……ブリジットからのご連絡がなくて。仮庁舎まで出向いたのですが、一時間ほど前に帰られたとのことでした」
小姓が困惑しているのは、ブリジットはこの天幕に帰らない時も必ず遣いをよこしてその旨を伝えてきたのだが、この日は連絡が無かったためだ。
小姓らは夕食を取らずに待つべきと話し合っていたが、そのこと自体はボルドはさして気にならなかった。
彼はブリジットがやはり自分の元へ帰って来たくないのではないかと顔を曇らせる。
(嫌われてしまったのかな……)
内心でそんな不安を感じつつ、ボルドは努めて明るく小姓らに言った。
「もう少し待ちましょう。完全に空が暗くなる頃にはお帰りになられるかもしれませんし」
そう言ったボルドだが、結局それから一時間経ってもブリジットは戻ってこなかった。
☆☆☆☆☆☆
暗闇の中に2つの人影が佇んでいた。
頭巾を目深にかぶった体格のいい女が2人、草むらの中に身を隠している。
彼女たちは日が暮れ落ちる前にこの場所に辿り着き、その時からじっと息を潜めるようにしてこの場で待機していた。
彼女たちが見つめる先には、暗闇の中で大地に巨大な岩山が横たわっている。
自然物である岩山の上には人工物である城壁が立てられていた。
そしてその上空にはわずかに篝火の灯かりが漏れている。
人が住んでいる証だった。
2人の女は互いに顔を見合わせて頷き合う。
「間違いないな。イーディス様に報告だ」
そう言うと女たちは懐から包み紙を取り出して、その中に入っている白い粉を指でつまむと、それを鼻から吸い込んだ。
その表情が恍惚に歪み、その目がギラギラとした輝きを放つ。
「こいつが最後の一包みか。早く任務を終わらせて報酬をもらわねえとな」
2人の女たちは、かつては分家の一員としてクローディアに忠誠を誓っていたはずだ。
そんな忠誠心すら蝕み、2人はすっかり薬物の虜になってしまった。
イーディスが2人に渡したそれはそんな悪魔の薬だったのだ。
一度手を出せば、それを手に入れるために誇りも恥もかなぐり捨てて操り人形となる。
そうして正気を失った2人は嬉々として暗闇の中を移動し始めた。
その位置を探り当てられた新都は開拓以来、最初にして最大の危機を迎えようとしている。
☆☆☆☆☆
ベラとソニアは息も絶え絶えになってブリジットの前に倒れ込んでいた。
ブリジットから厳しい稽古をつけられた2人は音を上げずに動き続けたが、一時間経ったところでついに限界が来たのだ。
2人がいつも以上に必死だというのがブリジットにはよく分かった。
グラディスに対して2対1でも勝てなかったことが相当悔しかったのだろう。
次はいよいよ殺すか殺されるかの壮絶な戦いになる。
だからこそブリジットは2人に厳しい目を向けた。
「ベラ、ソニア。おまえたちは2人がかりで戦うのか? それとも1人ずつ戦うのか? そこを明確にしろ」
ブリジットの言葉に2人は顔を上げて目を丸くした。
そんな2人にブリジットは言う。
「まだおまえたちは1対1で勝ちたがっているな。戦士としてその目で見て、それが可能な相手か?」
ブリジットの問いにベラとソニアはハッとした顔を見せる。
ブリジットの言わんとしていることが彼女たちにも分かっているからだ。
悔しいが自分たちの今の腕であのグラディスと一騎打ちをして勝てる見込みはない。
2人の気持ちとは別に冷静な戦士としての判断力がそう言っている。
「ならば1対1の戦いを2人それぞれがするのではなく、2対1の戦い方をしてみせろ。それを研ぎ澄ませて初めて勝機が見えてくるはずだ」
そう言うとブリジットは剣を手に声を上げた。
「立て。ベラ。ソニア。アタシの友はそんなヤワじゃないはずだぞ」
ブリジットの言葉にベラもソニアも歯を食いしばり、自分を奮い立たせて立ち上がった。
ブリジットよる2人の稽古はそこから一時間に及んだ。




