第204話 『偽りの大義』
「やれやれ。せっかくの休みに父上の顔を見ねばならんとは」
公国の首都で束の間の休暇に入っていたトバイアスはこの日、父であるビンガム将軍に急遽呼ばれて、その屋敷へと赴いていた。
トバイアスは苛立ちを抑えながら努めて冷静な表情で廊下を歩き続ける。
公国軍の総大将であるビンガム将軍の屋敷は広く、使用人も多い。
いつもは眉目秀麗なトバイアスが歩くと屋敷の下女たちが色めき立って好意的な視線を向けてくるのだが、この日はそうもいかなかった。
耳の負傷のため、トバイアスの頭には痛々しい包帯が巻かれていたのだ。
下女たちは眉を潜めてトバイアスを遠巻きに見つめ、何やらヒソヒソと耳打ち合っている。
トバイアスは怒りに震えそうになりながら、拳を握り締めてこれに耐えた。
(このような醜態を……あの鳶隊の女はいつか必ず捕まえて地獄を見せてやる)
彼の耳を嘴で突き刺した夜鷹を操っていたのは、鳶隊と呼ばれる鳥を使役する部隊の女だった。
元来、女性の顔を覚えるのが得意なトバイアスは、脳裏に焼き付いているその女の顔に復讐を誓った。
「父上。トバイアス参りました」
「入れ」
無機質な声が中から響く。
扉を開けて室内に入ると、大きく重厚な執務用の机と豪奢な椅子、そしてそれに座るビンガム将軍の姿があった。
老いてなお頑強な体躯を誇るビンガムに、トバイアスは恭しく頭を下げる。
「お呼びでしょうか。父上」
「おお。トバイアス。そのケガはどうしたのだ?」
息子の頭に巻かれた包帯を見てビンガムは怪訝な表情を見せる。
トバイアスは内心で舌打ちをしつつ、笑みを浮かべた。
「大したことはありません。鷹狩りの際にうっかりと小枝に耳を引っかかれてしまいまして。休みで気が抜けていたのでしょう。お恥ずかしい。こちらの下女たちにも笑われてしまいました」
「そうか……大したことがないのなら良い。今日呼び立てたのは、そろそろまた、おまえの力を借りたいと思ったからだ」
トバイアスはここ最近の活躍により特別休暇を与えられ、名目上はしばらく軍務から離れていた。
アメーリアと共に死兵を率いてダニアを襲撃していたことは誰も知らない。
トバイアスはビンガムの面構えを見て、内心でほくそ笑んだ。
以前よりも明らかに老いて、その顔は疲弊していた。
多くの懊悩が将軍の心を削ったのだ。
ビンガム将軍は妻と四男のディックを殺されて以降、憎しみに囚われるようになり、人が変わってしまったと噂されている。
だが、妻と息子を殺した犯人を捕らえて突き出したトバイアスは、将軍から一転して高評価を得るようになっていた。
トバイアスはビンガムが街の娼婦に生ませた落とし児であり、それまではビンガム一家からは疎まれ、将軍も一時はトバイアスを蛮族ダニアの女王であるブリジットの情夫に宛がって厄介払いをしようとしていたほどだった。
しかしトバイアスが目覚ましい戦果を上げるようになったこともあり、将軍は彼を重用するようになったのだ。
だがビンガム将軍は知らない。
トバイアスが将軍の妻子殺しの犯人として突き出したのは、彼の従者であり愛人でもあるアメーリアが薬で廃人同然にしたまったく無関係の人物であり、トバイアスが仕立て上げた偽物の犯人であることを。
そしてトバイアスこそが真犯人であることを。
トバイアスの実の母親は殺された。
愛人を憎むビンガム夫人が裏で手を回して殺させたのだ。
その復讐としてトバイアスはアメーリアの力を用いてビンガム夫人と夫人が溺愛していた四男のディックを誘拐させた。
そして夫人の前で息子のディックをむごたらしく殺し、その後に夫人もさんざん痛めつけてから殺して、トバイアスは復讐を果たした。
ビンガムはそうとも知らずにトバイアスを褒め称え、トバイアスは心の中でそんな父親を盛大に嘲笑っていたのだ。
「コンラッド王子の殺害は見事だった。トバイアス。これで王国も重い腰を上げざるを得ないだろう。我が国と王国との長年に渡る因縁に決着をつける時が来たのだ」
元々、ビンガム将軍は王国との戦には慎重派だったという。
しかし公国内で戦の機運が高まり、同時に妻子を殺した犯人が王国側の人間であることを知って、一気に王国への憎悪が彼の中に溢れ出したのだろう。
ビンガムは先頭に立って王国と開戦することを押し進めるようになった。
これが将軍は人が変わってしまったと言われる所以である。
もちろん王国側は将軍の妻子殺しの犯人が王国の人間であることを否定している。
実際にはトバイアスがでっち上げたことだ。
だが、そんなことでは一度高まった緊張状態は鎮まりはしない。
しかし王国に対する一方的な宣戦布告は、大陸の他の諸国に対して公国の印象を悪くする。
できれば王国側から攻め込まれる図を描きたいというのが、公国の思惑だった。
だが王国は意外にも腰が重く、戦を寸前で踏みとどまっている。
ビンガム将軍はそのことに焦れていた。
「あと一押しだ。あと一押しでこちらから宣戦布告をする大義が生まれるはずだ。そう思っていたところに、神の采配があった」
「神の采配? それは?」
トバイアスは本当は知っているにも関わらず、驚いたようにそう返す。
なぜなら今から父が話す出来事は、あらかじめトバイアスがアメーリアに指示して演出させたことなのだから。
憎しみに囚われ、初老に差し掛かっている父親を欺くことなど彼には造作もないことだった。
そんな息子の内心など露とも知らず、ビンガムはニヤリと笑って話を切り出す。
「我が公国領の南岸にダニアの大群が上陸した。そして漁村を占拠し、村民たちを虐殺した上、略奪行為を働いているという。これは明らかに我が国に対する侵略行為だ。そしてその犯人は……誰だか分かるな? トバイアス」
それは質問ではなく確認だった。
犯人はもう決まっているのだ。
真実などどうでもいい。
なぜなら真実とは人の手で作り出せるものだからだ。
「王国軍に与するダニア分家の女王……クローディアの仕業に他なりません」
優秀な息子が学力試験で満点を取った時の父親の顔で、ビンガムは満足げに頷いた。
そして彼はトバイアスに命じる。
偽りの大義をもって。
「トバイアス。王国軍との戦の先陣を務めよ。おまえを前線部隊の大将に任ずる」
「謹んでお受けいたします」
膝をついて頭を垂れながら、トバイアスの顔は歪な笑みに彩られていた。