第239話 『不機嫌な女王』
ブリジットは気持ちがささくれ立つのを抑えられなかった。
部下たちを従え新都に入ってすぐ、彼女の目はその光景を捉えており、ブリジットは人並み外れた自分の視力の良さを忌々しく思う。
彼女の愛する男が、赤毛の女と談笑していたのだ。
いつもならばそんなことくらいで腹を立てたりしない。
だが今のブリジットには余裕がなかった。
ロダンでの戦いから休みなくこの新都へと移動してきて、疲れもたまっている。
そして頭の中はこの先のことを考えるのに精一杯だった。
ブリジットとて人間だ。
一度に抱えられる問題には許容限界があった。
疲れ切った心身を癒やすべく、ボルドを抱きしめて眠りたかった。
彼の声を聞き、彼の存在を傍に感じたかった。
だからこそ……。
「戻ったぞ」
ブリジットは無言で一行から離れ、馬の脚を早めてボルドの元に駆け寄るとそう言った。
彼はブリジットが近付いてくるのにいち早く気付いて立ち上がり、彼女を出迎えた。
だがブリジットはそんなボルドに目線を送らず、その隣にいる赤毛の女に目を向ける。
「おまえは?」
それはブリジットが自分でも驚くほど冷たい声だった。
そう尋ねられた赤毛の女は慌てて立ち上がると、背すじを伸ばして顔を強張らせた。
「ジ、ジリアンです。クローディアの部下としてここで働いております」
「ほう。おまえがジリアンか。アタシの情夫が世話になったようだな。礼を言うぞ」
その言葉とは裏腹にブリジットの目が冷たく光るのを感じて、ジリアンは息を飲む。
ブリジットの様子がいつもと異なることに、ボルドは何やら違和感を覚えながら声をかけた。
「おかえりなさい。ブリジット。お疲れ様でございました」
ボルドがそう言うとブリジットは彼に目を向けて静かに頷いた。
そしてジリアンに再び目を向ける。
「ジリアン。これからもよろしく頼む」
ひとかけらの笑みもなく向けられるその眼光の鋭さに圧倒されながら、ジリアンは息を飲みつつ声を絞り出した。
「は、はいっ! こ、こちらこそ」
そう言って深々と頭を下げるジリアンに頷くと、ブリジットはボルドの案内を受けて自分用に用意された天幕へと引き上げていく。
そんな2人を見送りながらジリアンは立ち尽くしていた。
「……ビ、ビビッた。あれがブリジットか。すげえ迫力だったな……というかワタシ、もしかしてブリジットを怒らせたのか?」
そう言ってジリアンは青ざめるのだった。
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「おかえりなさいませ。ブリジット。お疲れ様でございました」
天幕の中に入ると小姓らがすでに湯を沸かしていて、蒸らした厚手の手拭いをブリジットに手渡した。
ブリジットはそれを受け取ると体を拭くために天幕の奥の部屋へ向かう。
ボルドも小姓らから手拭いを受け取り、ブリジットの体を拭くのを手伝おうとしたが、彼女はチラリとボルドを見て言った。
「ボルド。おまえはそこで待っていろ」
「は、はい」
代わりに小姓らが彼女の体を拭くために呼ばれて奥へと入っていった。
1人残されたボルドは、ブリジットの不機嫌さに気付いていた。
口調も様子も落ち着いて見えたが、気持ちを抑え込んでいるように見える。
しばらくして準備が整ったのか、ボルドはブリジットから呼ばれた。
奥の部屋から出てくる小姓らと入れ替わりにボルドが入るすれ違いざま、小姓がチラリと自分を見たような気がした。
長くブリジットに仕えている彼らも、主の機嫌の悪さに気付いているのだろう。
ボルドが奥の部屋に入るとブリジットが急に彼の手を掴み、自分に引き寄せた。
そして彼を包み込むように抱きしめる。
「ボルド……会いたかったぞ」
そう言うブリジットの体は熱い手拭いで拭った熱と、甘い香りが感じられる。
小姓らに塗らせた香油だろう。
ボルドはブリジットに抱きすくめられつつ、少しばかり彼女の声が固いことが気になった。
「ブリジット。お疲れですよね。今日はごゆっくり出来るのですか?」
「ああ。さすがに今日だけは休ませてもらいたい」
そう言うとブリジットはそのままボルドを抱き上げ、さらに奥の部屋へと向かった。
この天幕は縦に3室の構造になっていて、入り口から居間、執務室、寝室と続く。
寝室に入ったブリジットはそこに置かれたベッドの上にボルドを下ろすと、やや強引にボルドの唇を奪った。
「んむっ……」
彼女はそのままボルドを押し倒すと、彼の服を荒々しく脱がせてその肌に唇をつける。
それからブリジットは数日ぶりにボルドを抱いた。
ボルドは彼女に身を委ねながら、伽の最中にあってもどこかぎこちないブリジットの様子を感じ取っていた。
☆☆☆☆☆☆
夕方、ブリジットはボルドを1人寝室に残して天幕を出た。
体は疲れているはずなのに、頭が痺れたようになって目が冴えてしまい、眠ることが出来なかった。
本当ならばボルドと共に軽く昼寝をしようと思っていたのだが結局、昼間から彼を抱いたのだ。
「くそっ……」
ブリジットは自分自身への苛立ちから1人悪態をつく。
胸の内で渦巻く気持ちを抑えることが出来なかった。
それゆえボルドに体を拭いてもらわずに、彼を待機させたのだ。
本当ならば彼に拭いてほしかった。
しかし彼の前でこれ以上、不機嫌な顔を見せたくなくて、少し冷静になる時間が欲しかったのだ。
おそらくボルドは自分の態度の変化に気が付いているだろう。
彼に心配などさせたくなかったが、脳裏に焼き付いたボルドとジリアンの談笑する姿が忘れられず、どうしてもボルドの目を直視することが出来なかった。
その上、彼は自分のものだと自分とボルドに言い聞かせるために彼を荒っぽく抱いたのだ。
ブリジットは自己嫌悪に陥っていた。
(最低だな。アタシは……)
悄然とした足取りで彼女が今向かっているのは、本家と分家が共同で使う仮庁舎だった。
元々、新都建造前から遺跡として残されていた石造りの建物を修繕して使えるようにしたのだ。
そこがこの新都の運営本部であり、クローディアや分家の十血会、そしてブリジットや本家の十刃会の面々が自由に使える場所だった。
その場所に顔を出すと、クローディアと分家の十血長オーレリアや十血会の面々が今後の方針について話し合った。
そこにブリジットが顔を出すと、クローディアは怪訝な顔を見せる。
「ブリジット。戦場から戻ったばかりなんだし、今日は休んでいてちょうだい」
「いや、どうにも目が冴えてしまってな。皆、忙しい時だ。休んでなどいられない」
そう言うブリジットにクローディアとオーレリアは目を見合わせた。
そしてクローディアはわずかに肩をすくめつつ言う。
「まあ、いいわ。今日はもうそろそろ解散だけど、それまでここにいてちょうだい。ブリジット」
そう言うとクローディアはオーレリアと話を続けた。
ブリジットはその場でその話に耳を傾けていたが、心は別の場所へと飛んでいた。




