第219話 『黄昏の街で』
日が西に傾き始めていた。
イーディスは屋根から飛び降りると、一目散にダニアの街を駆け抜けていく。
だが建物の周囲は、あらかじめオーレリアが配置していた数十人の兵たちが取り囲んでいる。
それでもイーディスは怯まなかった。
(こんな程度で私を止められると思わないことね)
イーディスには自身の美貌の他に自信を持っていることがあった。
その軽快な身のこなしだ。
腕力はダニアの女としては弱いほうだろう。
だがその足腰のバネは強靭そのもので、走るのも飛ぶのも幼い頃から得意だった。
周囲を取り囲んだ分家の女たちから次々と矢が放たれるが、その一本としてイーディスを捉えることは出来ない。
彼女は疾風のごとく大地を駆けると、近くに置かれた荷車に飛び乗った。
そこを足場にイーディスは、一気に女たちの包囲網を飛び越える。
追いすがろうとする敵には強力な刺激粉で作った目潰しを浴びせてやった。
(逃げる時は徹底して逃げる!)
先ほどオーレリアに投げ放った回転刃に塗った毒は致死性の高いものだ。
だが相手を殺す任務は、確実に相手の息の根が止まったことを確認して初めて完遂されたことになる。
それが出来ていない以上、この任務の遂行は不完全と言えた。
オーレリアが毒に打ち勝ち、生き残る可能性もあるのだ。
それでもイーディスは逃走に躊躇しなかった。
彼女にとって優先順位の最上位はいつでも自分の命だ。
命の危機に晒されたのならば、任務を放棄してでも後先を考えずに徹底的に逃げる。
それが、イーディスがこれまでの人生で培ってきた教訓だった。
そして今回もその教訓通り逃げ切った。
ダニアの街には幾重にも包囲網が張り巡らされていたが、イーディスはその全てを振り切って馬を奪うと、そのまま街を飛び出して広野へと駆け抜けたのだ。
一頭の馬を奪う際に、近くに共に繋がれていた他の馬たちの顔には目潰しを浴びせてやった。
それによって馬たちは暴れ嘶き、追手の女たちはそれらの馬による追跡をすぐに行うことが出来なかった。
出遅れた分家の女たちを置き去りに、イーディスはまんまとダニアの街から離脱することに成功したのだった。
だがその時……向かう先から自分とは逆に、一頭の馬でダニアの街に向かって来る人影が見えた。
(チッ……邪魔者ね。殺しておこうかしら)
そう思って警戒するイーディスだが、相手は自分から西側に十数メートル離れた位置をまっすぐ街に向かって走っていた。
それはダニアにしては小柄な若い女だった。
向こうはこちらをチラリと一瞥したが、特に近付いて来る様子もなくそのまま街へと向かって行った。
「……放っておいても大丈夫そうね」
後方を見つめながらそう言うと、イーディスは前方に目を戻した。
まずは公国の首都に戻るべきだろう。
王国領の南都ロダンに向かっていたアメーリアは、イーディスから2000人ほどの兵力を受け渡され、そのまま公国の首都にとんぼ返りをする予定だ。
アメーリアから命じられた任務は完遂とはいかなかったが、挽回の機会はまだある。
「さて……任務失敗の言い訳を考えなくちゃね」
そう1人呟きながら、イーディスは馬に鞭を入れるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「……うぅ」
二度と開かぬと思って閉じた目蓋が再び開いた。
おぼろげな視界の中、その目に映るのは部屋のランプの灯かりだった。
「……オーレリア様。動かないで下さい」
誰かがそう言った。
オーレリアは自分が自室のベッドの上に寝かされていることを知った。
そしてベッドの脇には1人の若き赤毛の女が立っている。
焦点の合わぬ目でじっとその女を見つめるオーレリアは、その人物が誰であるのかようやく理解した。
「……アーシュラ」
それはクローディアの側付きの部下であるアーシュラだった。
アーシュラは冷たい井戸水でしぼった手拭いを、オーレリアの額に乗せる。
それで初めてオーレリアは自分が発熱していることに気が付いた。
オーレリアは掠れた声でアーシュラに問いかける。
「……どうして、ここに?」
「クローディアより命じられました。嫌な予感がするので街に戻るようにと。戻って来て良かったです。オーレリア様には先ほど解毒の薬を飲んでいただきました。斬られた患部も消毒薬で洗浄し、止血処置を施しております」
左足のふくらはぎは鈍い痛みをわずかに感じるが、ほとんど感覚がなかった。
解毒治療……どうしてアーシュラにそのような知識が?
そう問いたいオーレリアだが、まだ意識がぼんやりとしていて、うまく声を出せない。
それを察したアーシュラは静かに説明する。
「以前にクローディアが黒き魔女より毒を受けたこともあったので、自分もそういう時に治療の知識があればと思い、解毒治療をベリンダ様にご教授いただいていたのです。付け焼刃ですが……」
そう言うとアーシュラはベッド脇の小机の上から水差しを取り、それでオーレリアに水を飲ませた。
喉が痛んだが、体に水が沁み渡って行くように感じられる。
「まだ毒は抜けておりません。特に今夜は苦しむと思いますが、体を休めることにだけ意識を向けて下さい。そして必ず生き延びるという決意をお忘れなく」
そう言うとアーシュラは静かにオーレリアの手を握った。
普段からそんなことをする娘には見えなかったが、彼女なりに自分を励まそうとしているのだろうとオーレリアは感じ取った。
「オーレリア様。しばらくワタシがお世話をさせていただきます。クローディアにとって、そして一族にとって、あなたは必要不可欠な御人です。特に本家と分家の統合を目指す今、本家のユーフェミア殿が亡くなったとあれば、なおさらオーレリア様には生きていただかなければなりません。どうか貴女様お1人のお命ではないということをお忘れなく」
アーシュラの言葉はオーレリアの弱った心を奮い立たせた。
(そうだ……このまま死んでしまえば、あの卑劣な女の思う通りになってしまう。そうなってたまるものか)
オーレリアはその晩、全身を苛む激しい苦痛に必死に耐えた。
折れそうになる彼女の心を支えたのは、十血長としての誇りと責任感だった。




